稲作は朝鮮半島を経由して日本列島に伝わったのか?<前篇> |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

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山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ

<山川出版社 詳説日本史研究 17頁より> 高校日本史の教師用教科書です。


この教科書の初版は1998年です。③の説が有力視されていると書いてあり、本文のほうでもその有力説に基づいた記述がされています(赤線部分)。答えを先に申し上げておきましょう。近年では④の説が有力視されています。したがってこの教科書の本文も間違った記述ということになります。

なぜ④の説が有力視されるようになったかというと科学の進歩です。遺伝子工学の分野(稲のDNAの研究)と炭素14年代測定法という最新の年代測定法が進んだことにより従来の説では説明のつかないことが多くなってきたのです。

④の説が有力であるということを認知したうえで、高校の日本史や世界史の教科書の他の部分を読みなおしてみると、④の説が有力であるという状況証拠的な記述がたくさん見つかりました。三つのアプローチから説明してまいりましょう。

①弥生文化とはなんなのか?
②弥生文化を誰が伝えたのか?
③弥生文化はどこから伝わったのか?


<山川出版社詳説 日本史研究 14頁より> 

水田耕作を中心とした集団での集落生活のパッケージが弥生文化です。そして、富が生まれ→貧富と身分の差ができ→王権が確立し、集落から小国家そして古代国家成立へと動いていく時代が弥生時代なのです。

単に稲籾(モミ)が伝わったとか、稲作栽培をしたとか、そうゆうことではないのですね。このことだけをとらえれば、⑤の説はかなり有力になります。

実際に、縄文時代にも稲作は行われていました。行われていたことを示す遺跡が複数発見されています。陸稲栽培も水稲栽培も。しかし、縄文時代の生活様式とは、あくまで「狩猟と採集を中心とした集団生活」であり、農耕をやっても狩猟採取生活の域を出なかったのです。

弥生時代をもたらしたのは、水田稲作の技術が飛躍的に発展し安定して豊量な作物を収穫できるようになったからです。「狩猟採集を中心とした生活よりもこっちのほうがいいんじゃね?」と当時の人たちが判断したのでしょう。

<山川出版社 詳説世界史研究 88.89頁より>

日本列島が弥生時代に移行した頃の中華大陸は戦国時代にあたります。

紀元前403年から紀元前221年です。

戦国の七雄と称される七つの古代国家が覇権を争っていましたが、始皇帝が紀元前221年に大陸を統一します。

均衡状態にあった戦国時代に変化をもたらしたのは、画期的な先進技術の普及でした。

鉄器の使用により農地の開拓合戦と奪い合いがはじまったんですね。

七か国の凄絶な抗争に勝利したのが始皇帝です。当然ですが、鉄器には農具だけでなく武具もあります。意外かもしれませんが、秦というのは大陸の内陸部の発祥なんですよ。

あと、ここで農業・農地と書いてあることにも注目です。稲作とは書いていないんです。あと(後編)で詳しく検証します。地図の上の長城にも注目です。ここから北は中華民族ではなく北方の遊牧民族の領域なんです。遊牧民は基本的に農耕しません。

さて、秦に敗れた他の六カ国の人たちはどうしたでしょうか?

降伏して臣下になる、殺される、逃げる(亡命する)、の三択だったんじゃないでしょうかね。実際、「燕の国」の末裔である「衛満」は、紀元前195年頃?に朝鮮半島北西部(平壌付近と思われる)に亡命して国を建国しています(衛氏朝鮮)。

海側(黄海・東シナ海)に面している、斉の国・楚の国からも海を渡った亡命人がいたはずで、きっと彼らが渡来人の正体なのでしょう。渡来人たちは海を渡り朝鮮半島南部・北九州にたどり着いた。

稲作の起源が長江(揚子江)流域だということは証明されていますから、楚の国からの渡来人は有力ですね。斉の国に水田稲作がすでに伝来していたなら、斉の国からの渡来人なのかもしれません。

朝鮮半島を経由して」という記載ですと、いかにも「先に朝鮮半島に原・弥生文化的な文化が生まれ、それが後に日本列島に伝わった」という印象を受けますが、伝わったのは同時期なんです。では、そもそも日本列島の縄文人にあたる人類・つまり弥生文化の受け皿になる人類が当時の朝鮮半島に住んでいたのでしょうか?

<山川出版社詳説世界史研究 10頁より>
有名な人は出土してないみたいですね。これは10年以上前の教科書ですが、そもそも教科書には載ってなさそうです。朝鮮半島出土の人骨なんて20世紀のものしか知らないですwww。ネットで探ってみましたが、よく分かりません。先史時代の遺跡はあるようですが、証拠となる人骨の出土はまだないようです。 ↓
     wikipedia.org/wiki/櫛目文土器時代  wikipedia.org/wiki/無文土器時代


<山川出版社詳説 日本史研究 16頁より>

さりげなく書いてありました。朝鮮半島の無文土器と弥生土器は関係ない

日本の支石墓前方後円墳と特徴の酷似した遺跡が朝鮮半島最南部に多く存在するようですが、これは同じ文化圏を築いていたと考えるのが自然です。のちの倭と弁韓諸国は同じ文化圏、同じ系統の渡来人から弥生文化を伝えられたんです。


そうそう、朝鮮半島の先史時代をネットで調べていたら、面白いものが見つかりました。

     黒い山葡萄原人とは? →pedia.goo.ne.jp/wiki/黒い山葡萄原人



   「これが事実なら朝鮮人は新人(ホモ・サピエンスつまりヒト)ではない」
この説を信奉するなら、デナシ・モドキなど彼らを揶揄する言葉を認めることになりますね。やめときなはれw



 後篇に続く ↓
 http://ameblo.jp/egiihson/entry-11873058943.html