朝鮮半島中世史研究 最終回⑩~「日本との講和と後金(清)ホンタイジへの臣属」 |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

 Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ

いよいよ中世史も最終回となりました。が、この回でご紹介するお話は日本史の括りでは「近世」になってます。豊臣秀吉の朝鮮出兵も「近世」です。詳説日本史研究の目次では、鎌倉時代と室町時代が「中世」で安土桃山時代(織豊政権)と江戸時代が「近世」になっています。

※筆者注)「安土桃山時代」という名称は信長と秀吉の代表的な居城に由来。安土城と桃山城ね。

「近世」という言葉はヨーロッパ史に由来していますが、ヨーロッパ史の「近世」は、『ルネサンス、宗教改革、大航海時代、絶対王政』の時代です。東洋史にはないですね。

ちなみに、ヨーロッパ史の「近代」とは、市民革命以降を指し、いっぽう「中世」は、国王と諸侯による封建社会のことをいいます。東洋史における近世とは、ヨーロッパ史の近世とは違うもの、と考えたほうが、理解はしやすいのではないか?と思ってます。

では前置きはこのへんにして、本題にはいっていきましょう。

詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
247~250頁本文

徳川家康は朝鮮との講和を実現し、1609(慶長14)年、対馬藩主宗氏と朝鮮の間で己酉約条(きゆうやくじょう)が結ばれた。

これは近世の日本と朝鮮の関係の基本となった条約で、釜山に倭館が設置されることや、宗氏の外交上の特権的な地位が両国から認められた。

特権とは対朝鮮貿易を一手に独占することであった。

くわしくは →wikipedia.org/wiki/己酉約条 あんまり詳しくないけど。

貿易の舞台となったのは釜山の倭館で、30万㎡の広い敷地に500~600人の対馬藩の役人と商人が駐在して、外交と通商にあたった。その貿易利潤を、宗氏は家臣に分与することで主従関係を結んだ。

家臣たちは、幕府から宗氏に課された、朝鮮おさえの役(軍役)を奉公としてつとめた。対馬は耕地に恵まれなかったので、貿易利潤は封建的主従関係の知行のかわりになったのである。
※筆者注)
ややこしく書いてあるけど武士の貿易商売利益が対馬藩では特例として幕府への奉公事になったってこと。長崎の出島は幕府直轄だからね。


朝鮮からは、使節が前後12回来日した。1回目の1607(慶長12)年から3回目の1624年(寛永元)年までは、回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)と呼ばれ、4回目の1636(寛永13)年から12回目の1811(文化8)年までが通信使と呼ばれた。

回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)というのは、日本からの国書に対して朝鮮国王が回答するという名目であり、刷還使とは、文禄・慶長の役で日本に連行されたままの朝鮮人捕虜の返還を目的としていた。

捕虜の返還は、1回目1240人、2回目321人、3回目146人が実現した。これらの使節はまた、日本の徳川政権の性格を確かめる使命も任されていた。慶長の役で朝鮮に侵略した日本の将兵が引き上げて、まだ9年しか経っていなかったため、1回目の使節はとくに警戒心を強く抱いていた。

$ Egi Shun,s  BLOG



しかし、4回目以降はそれまでの日本に対する警戒感を解いて、信(よしみ)を通じるという意味の通信を使節の目的とするようになった。それには大きな理由があった。

明清交替期に清が明を攻撃するため南下した際、朝鮮をも攻めた。朝鮮李王朝は明に朝貢することで明の柵封を受けてきており、清に対して抵抗の姿勢をとった。「援明抗清」を貫く朝鮮は、北辺で清と戦うためにも、南方の日本と友好関係をつくる必要に迫られたのであった。
※筆者注)
そんな下心があるんなら信(よしみ)は通じてないんじゃ?まあ国家間の外交なんてそんなものだけどさ。


日本・朝鮮両国の親善関係を象徴する朝鮮使節の人数は、国書をもった正使と副使のほか、平均440名を超えたが、この一行は各所で国家の賓客として丁重に扱われた。その経費はオランダ商館長の自弁とは異なり、沿道の大名などの負担と地域の人々の国役負担でまかなわれた。

そのため、天明の飢饉後は通信使の招へいは延期され、1811(文化8)年の12回目は、江戸ではなく対馬で迎える形がとられた。
※筆者注)
『通信使 鶏』で検索するとすぐにヒットする有名な画像↓
http://livedoor.blogimg.jp/rakukan/imgs/5/b/5bafcd2a.jpg
京都新聞さん、こんな細かい論点はどうでもいいです。通信使のルート(大坂まで海路・東海道で江戸へ)


   <中略・以下の画像のことが琉球と蝦夷に関して書いてあります>

$ Egi Shun,s  BLOG


こうして長崎・対馬・薩摩・松前の四つの窓口を通して、幕府は異国・異民族との交流をもった。

近世の東アジアにおいて、伝統的な中国(明・清)を中心とした柵封体制が存在する一方、明清交替期を契機に日本を中心とした四つの窓口を通した外交秩序が形成されたことに注目する必要がある。
※筆者注)
鎖国の完成は1641年の家光のときね。家康はむしろ朱印船貿易にとても積極的だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いまだに「謝罪と賠償は豊臣秀吉の侵略にまでさかのぼって」なんて戯言を堂々と発表する韓国の学者がいらっしゃいますけど、とっくに己酉約条(1609年)と回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし=朝鮮通信使)で国交上のケリはついているのですよ。

「韓国有識者が秀吉侵略の賠償責任を永久保持し続けると宣言」 数百年前の侵略で日本を避難し続ける韓国学者http://u1sokuhou.ldblog.jp/archives/50404171.html


こちらの陶工の方たちは、おそらく半島に帰りたがらなかったのでしょうねえ?
李氏朝鮮では貴族階級の両班たちが「職人・工人」をひどく差別して嘲ったと聞いてます。
wikipedia.org/wiki/伊万里焼

では、「李氏朝鮮王朝」と「明清の王朝交替」について、教科書の記載をひろっていくことにしましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
詳説日本史研究247頁本文ならびに詳説世界史研究287.302頁

1616年(元名2)年、中国東北部の女真族の首長ヌルハチは興京を首都にアイシン国(満州語)=後金国(中国語)を建て、帝位について明を攻撃し、南下した。
※筆者注)
映画「ラストエンペラー」で有名になった愛新覚羅(あいしんかくら)って氏名は満州語を漢字であてたモノ。


1625(寛永2)年には瀋陽(シンヨウ:沈阳)を都とし、36年には国号を清(シン)と改め、朝鮮を侵略し、さらに明(ミン)を攻めて44(正保元)年には、明の首都北京(ペキン)に遷都した。

後金(清)のホンタイジ(太宗)は、明に朝貢していたことから、清の建国を認めない李氏朝鮮に、1627年と36年の2回にわたって攻撃を加え、この結果、李氏朝鮮は1637年に清と臣属関係を結んだ。
※筆者注)
この部分(上の2行)が詳説世界史からの引用部分です。頁が分かれてるけど3行しか記載がない。あとここにも『朝鮮を侵略』と書いてあります。女真族だからですかね?w


明朝の滅亡後、(明朝の)一族の福王が南京に、唐王が福州、魯王や桂王も中国南部に亡命政権を樹立して、清に抵抗した。

福州(現・福建省)の唐王は、海商の鄭芝龍(ていしりゅう)とその息子鄭成功(ていせいこう・母親は平戸の田川七左衛門の娘)を後ろ盾にした。国姓爺(こくせんふ)の名を与えられた鄭成功は、抗清のために日本に援軍と武具の支援を求めた。

幕府は援兵を拒み、唐王政権も滅んだ。鄭成功は台湾に渡り、抵抗を続けたが1662(寛文2)年死去した。また桂王も滅亡して清朝は安定した王朝となった。

くわしくは →wikipedia.org/wiki/鄭成功


この間の明清交替を、江戸幕府は「華夷変態」と唱えた。

漢民族(明)の中華が、女真族(清)の夷狄(いてき)にとって変わられた、という意味である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

高麗や李氏朝鮮では、中華大陸東北部にルーツを持つ女真族のことを、自分たちと同じ夷族と考えていました。ところが朝貢して臣属してきた中華王朝の皇帝が、その夷族であるはずの女真族にとってかわったわけです。

高麗の時代には南宋と金(女真王朝)に朝貢し、李氏朝鮮の時代には後金(清)に朝貢する羽目になったのです。そこで朝鮮民族が民族の尊厳と対面を保つために、唱えて頼ったのが『小中華思想』と『事大主義』です。

$ Egi Shun,s  BLOG

$ Egi Shun,s  BLOG

        wikipedia.org/wiki/小中華思想      wikipedia.org/wiki/事大主義

『小中華思想』と『事大主義』は、現代でもまだ多くの韓国人・朝鮮人のあいだに深く根付いています。皮肉なことに、このような卑屈で歪んだ思想や主義をもっていることが、朝鮮民族の尊厳を貶めてしまっています。

そして、いまだに多くの韓国人・朝鮮人は、そのことに気付いていません。理解しようともしません。

教科書記載からの引用に戻りましょう。

これ以降に、歴史教科書に李氏朝鮮王朝が登場するのは、日本史の幕末期になってからになります。約250年間のあいだ李氏朝鮮王朝は、世界史にも日本史にも全く影響がなかったといえるでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
詳説世界史研究403頁本文

17世紀以降、清の属国の立場にあった李氏朝鮮では、19世紀になると官僚間の党争や権門などによる政治独占など、政治的動揺が続き、農村では貧富の差の拡大やあいつぐ災害などにより、社会不安がた高まっていた。

1812年におこった洪景来(こうけいらい)の乱は、不安を抱く官人層に指導された大規模な農民反乱であった。

こうした状況のなか、1860年代になると、欧米列強は鎖国政策をつづける李朝にも開国をせまるようになった。
<後略>

くわしくは、→wikipedia.org/wiki/李氏朝鮮後期の農民反乱

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


~おしまい~



朝鮮半島史目次)
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11562567122.html

次は近現代史になります。

序文~「日本列島防衛線の構築」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11628589380.html