朝鮮半島中世史研究 ⑦~「李氏朝鮮と日本の貿易問題」 |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

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山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ


詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。
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180頁本文

朝鮮半島では、1392年、倭寇を撃退して名声を得た武将の李成桂(1335~1408)が高麗を倒し、李氏朝鮮を建国した。

朝鮮も明と同じく、通交と倭寇の禁止を日本に求めてきた。幕府は直ちにこれに応じ、日朝貿易が始まった。

1419(応永26)年、朝鮮は200隻の兵船と1万7000人の軍兵をもって対馬を襲った。

これを応永の外寇(おうえいのがいこう)というが、朝鮮の目的はあくまで倭寇の激滅にあったので、貿易は一時の中断ののちに続けられることとなった。

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朝鮮の目的はあくまで倭寇の激滅にあった
え~!うそくさ~い!!!!!! (;一_一)



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   wikipedia.org/wiki/応永の外寇
「一般船舶129隻を焼き払い20隻を奪い、民家1939戸を焼き払い、また104の島民を殺害した」・・・・・・・・

目的はどうあれ「戦乱」なので酷いことしてるよね。朝鮮人も「倭寇でやられた仕返しニダ!!」って襲ってきたことでしょうよ。倭寇が「元寇でやられたお返しだ」って襲ったであろうと同じように。

戦後、室町幕府は九州探題渋川義俊と少弐満貞が注進、事実究明のため朝鮮へ使者を送り、その真偽を確かめさせた。翌年には朝鮮から回礼使として宋希璟が派遣され、4代将軍足利義持に拝謁して日本と和解した。対馬の宋貞盛も李氏朝鮮との関係修復・強化に努めた。

ということなので、この教科書の記載は不充分です。元寇→前期倭寇→応永の外寇と、対馬vs朝鮮半島、の対立怨恨関係はずっと続いていたのですよ。

邪馬台国のことが載っている「魏志東夷伝倭人条」の対馬の記述に「良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市糴す」とあります。

おそらくこの時代でも耕地に恵まれず、満足な食糧を得るためには南北と交易するしかなかったはずです。それゆえ、恨み憎しみはあっても、対馬の人たち・対馬を治めている守護大名の宋氏は、朝鮮との交易を止めてしまうわけにはいかなかったのでょう。


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180~181頁本文

九州・中国地方の守護大名や有力武士たちは競って朝鮮に使節を送り、交易の利をあげようとした。そこで朝鮮は交易の統制をはかり、1443(嘉吉3)年には、最も関係の深い宗氏との間に癸亥約条(嘉吉条約)を結んだ。

これにより宋氏も交易のための船を1年に50隻に制限された。また貿易船は富山浦(ふざんほ=釜山/プサン)・乃而浦(ないじほ=薺浦/セイホ=現・昌山)・塩浦(えんほ=蔚山/ウルサン)の三浦に限定され、三浦と首都漢城(現・ソウル)に使節の接待と貿易のための倭館がおかれた。



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三浦に定住する日本人も増加し、15世紀(1400年代)末には3000人を数えた。彼らは種々の特権を与えられていたが、1510(永正7)年、その運用をめぐって暴動をおこし、朝鮮の役人に鎮圧された。これを三浦の乱と呼び、貿易はこのあとしだいにふるわなくなった。

朝鮮への輸出品は銅・硫黄のほか、胡椒・薬剤・香木などの南海特産物であった。南海の産物は琉球の商船が博多や薩摩の坊津(ぼうのつ・地名)にもたらしたもので、博多商人が中継して朝鮮に運ばれた。

輸入品は繊維類で、とくに木綿①は当時日本では生産されていなかったので需要が多く、大量にもたらされて人々の生活様式に大きな影響を与えた。

①13世紀初頭から日宋貿易における輸入品となった木綿は、15世紀初頭から朝鮮との貿易によって大量に国内にもたらされた。当時の日本の衣料は麻であったが、木綿はよく寒さを防ぐので人々に喜ばれ、戦国時代末期に国内での生産が盛んになるまで、重要な輸入品で有り続けた。

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まず、「癸亥約条」という用語ですが、これは中華・朝鮮での用語です。干支を元にした年号で、日本でも「壬申の乱」「戊辰戦争」「丙午(ひのえうま)」などよく使われています。柵封支配下の朝鮮などでは中華王朝と同じ年号・同じ暦歴を使うことを強要されていました。

この時代の日本は、室町幕府が形式上だけ柵封体制下にはいり、朝貢貿易の形を取って「明」と貿易していましたが、奈良時代からやっている日本独自の年号は生きていました。したがって、日本側からの用語は「嘉吉条約」が正しくなります。

そういう書きっぷりなので、この部分を執筆した先生もうそくさい&うさんくさい、かな?と勘繰ってしまいました。大ざっぱな書き方ではありますが、書いてある内容は合ってます。

日朝貿易摩擦にともなう、朝鮮在留日本人(主に宗氏一族)と現地朝鮮役人との軋轢が生んだ暴動ですね。貿易がさかんになり人も増えて、治安も悪くなっていたようです。



詳しくは ↓
wikipedia.org/wiki/三浦の乱
wikipedia.org/wiki/嘉吉条約
wikipedia.org/wiki/宗貞盛




日本と明の間で行われていた勘合貿易が断絶した経緯を簡単に引用しておきましょう。豊臣秀吉の明への出兵の理由の一つに、この勘合貿易の復活がありました。朝鮮半島は通り道にしたかっただけです。
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180頁本文

応仁の乱後は室町幕府が衰退し、勘合貿易の実権は堺商人と結んだ細川氏、博多商人と結んだ大内氏の手に移った。両者は激しく争い、1523(大永3)年には寧波(ニンポー)で衝突を引き起こし、大内氏一行は細川氏の船を焼いた。


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これが寧波の乱(ニンポーノラン)である。乱は結局大内氏に利をもたらし、貿易は大内氏が独占するところとなった。1551(天文20)年、大内氏が滅亡すると、勘合貿易も断絶した。

wikipedia.org/wiki/寧波の乱
大内氏では家臣の謀反があり、その家臣が擁立した主君が毛利元就にやぶれて滅亡。
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この時代は日本史のなかでも特に人気のある戦国時代なので、簡単な年表でさらっと時代背景を頭に入れておきましょう。



1467年  応仁の乱<室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊らの有力守護大名が争う>

    ~ ~ ~ 戦国時代へ ~ ~ ~

1542年  種子島に鉄砲伝来
1549年  フランシスコ・ザビエルの来日

1560年  桶狭間の戦い
1573年  織田信長が室町幕府を滅ぼす。安土桃山時代へ
1582年  本能寺の変

1587年  文禄の役(朝鮮半島出兵・1回目)
1597年  慶長の役(朝鮮半島出兵・2回目)
1598年  豊臣秀吉が病死

1600年  関ヶ原の戦い


~おしまい~


半島史目次)
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11562567122.html

⑧~「豊臣秀吉の文禄・慶長の役」 【本編】
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11099212136.html