判例時報2563号などで紹介された裁判例です(札幌高裁令和4年3月8日判決)。
本件は、病院の臨床検査技師として稼働していた労働者が、雇用契約上の地位確認などを求めた事案ですが、労働者が面談において、病院の事務部長に対し、「退職さしていただきます。」と述べ、事務部長は、その場で「はい。わかりました。」と述べたことにつき、口頭での退職合意が認められるかが争点の一つとなりました。
この点につき、下記の通り、裁判所の判断は第一審と控訴審で評価が別れています。
第一審判決(退職合意を否定)
「退職さしていただきます」との発言をしているが、労働者にとって、労働契約を解消して退職することは極めて重要な意思決定であるから、労働者の口頭での発言を退職という法律効果を生じさせる程度の確定的な意思表示であると評価するには慎重な判断をする必要がある。
そうであるところ、前記認定によれば、原告は、本件面談において、予め準備した書面に基づいて、被告が指摘する非違行為には事実誤認がある旨の弁明をしたものの、被告に弁明を聞き入れられそうもなかったことから、非違行為に関して、懲戒解雇を含め何らかの処分がなされることを恐れて、自主退職する旨の発言をしたことが認められる。
このような原告が置かれた状況に照らすと、原告は、被告が指摘する非違行為について処分を受けることに思いを巡らせ、衝動的に退職する旨を述べた可能性が十分に考えられる。ま
た、前記認定のとおり、原告は、本件面談において、事務部長から退職願を出すよう伝えられてその用紙の交付を受け、後日、被告から書面等で退職願を提出するよう催促されたにもかかわらず、退職願を提出しなかった。
その間、原告は、原告訴訟代理人に対応を委任し、令和元年12月19日付の書面で、被告に対し、退職するとの原告の発言が合意解約の申込みであると解されたとしても、同意思表示を撤回する旨を述べ、また、その後、仮処分事件を提起した。このように、原告は、退職する旨の発言をした後、被告から繰り返し退職願の提出を求められたにもかかわらず、これに応じず、かえって合意解約の申込みを撤回する旨を述べるなど、被告を退職することに反する言動をとっている。これらの事情を考慮すると、退職する旨の原告の口頭での発言をもって、退職の確定的な意思表示をしたと評価することは困難である。その他、原告が退職の確定的な意思表示をしたものと認めるに足りる事情はない。
控訴審判決(合意を肯定)
・本件面談が、事務部長による退職勧奨当日ではなく、その3日後に行われ、その際、一審原告側は本人1名であるが、一審被告側も事務部長及び一審被告事務職員の2名であり、また、一審原告が長時間にわたって弁明した後に、上司への不満を述べたうえで、退職する旨を述べ、事務部長が確認したのに対して、一審原告が再度退職する旨を述べていることに照らすと、一審原告の退職する旨の発言が、一審被告側からの圧力に抗しきれずに意に反して行ったものであるとか、精神的に動揺した中で衝動的にしたものであるとは認め難い。
・一審原告は、退職する旨述べた後に、有給休暇の残日数を全て取得したい旨を述べ、これを前提とした退職日を事務部長及び一審被告事務職員との間で打ち合わせたり、令和元年12月7日に私物の持ち帰りをしたいと述べたりしていること、また、事務部長が、一審原告が自己都合退職する旨をその上司に話しておく旨述べても、一審原告は異議を述べなかったことに照らすと、本件面談の時点で、一審原告は自らが退職することを前提とした発言をしたというべきであり、特に、一審原告が退職する旨をその上司に話しておくと事務部長が述べたのに対して一審原告が異議を述べなかったことは、一審原告が退職することが一審被告病院内で広く知られることを容認するものであって、一審原告が確定的な退職の意思を有していたことを示す事情というべきである。
・なお、一審原告は、本件面談の際、その場で退職願の作成を求められたのに対し、印章を持ち合わせていないことを理由として退職願用紙を持ち帰っているが、一審原告は積極的に退職願の持帰りを希望したものではなく、かえって自ら、印章を持っていないがそれでよいかとか、母印でもよいかと尋ねていることからすれば、事務部長又は一審被告事務職員が印章なしでもよいとか、母印でもよいと答えれば、一審原告はその場で退職願を作成して提出する意思を有していたと推認することができる。この点について、一審原告は、当審における本人尋問において、本件面談の際に退職願を作成しなかったのは、退職したくなかったからであって、母印でもよいかと尋ねたのは、これを認めるのであればこの職場はおかしいと思ったからだと供述するが、上記の発言の経過に照らして不合理であって、採用することができない(なお、一審被告事務職員が、退職願に押印することを求めたのは、一審被告内部の事務処理上の形式を整えようとしたものに過ぎず、一審原告の発言が本件労働契約の合意解約の申込みの意思表示に当たらないことを前提とするものではないと解される。)。
・一審原告は、本件面談で打ち合わせた令和元年12月に、一審被告病院を訪れ、私物の持帰りと机の引出し及び更衣ロッカーの鍵の返却をし、さらに、一審被告病院のコンピューターネットワークから、自らの氏が付されたサブフォルダ内のデータ全てをサブフォルダごと消去しているところ、これらは自らが退職し、職場に戻らないことを前提とする行為であり、とりわけ、コンピューターネットワークからのデータの消去は、確定的に退職をするのでなければ通常行わない行為というべきである。
・一審原告は、本件面談後、上記の令和元年12月7日以外に、一審被告病院に出勤していない。
・以上のとおり、一審原告が、本件面談の際に、退職する旨を述べるにとどまらず、退職することを前提とした打ち合わせを事務部長及び一審被告事務職員と行ったり、一審原告が退職することをその上司に伝えると事務部長が述べたのに異議を述べなかったり、本件面談の後にも、退職することを前提とする行為を行っていることに照らせば、本件面談の際に一審原告が述べた、「退職さしていただきます。」との発言は、退職を考えているという趣旨の発言にとどまらず、確定的な退職の意思に基づいてされた、本件労働契約の合意解約の申込みの意思表示であると認めるのが相当である。
・なお、上一審原告は、現在まで、一審被告病院の職員証及びICカード、健康保険被保険者証並びに制服3着を、一審被告に返還していない。
しかしながら、上記認定事実のとおり、本件面談において、一審原告の退職日は令和2年1月20日と打ち合わせられ、退職後の健康保険の任意継続についても確認していたのであるから、一審原告が上記物品を同日まで所持し続けることは、本件面談時に一審原告が本件労働契約解約の意思表示をしたことと矛盾しない。
・そして、一審原告が、令和元年12月16日、弁護士である一審原告訴訟代理人に相談し、爾後の手続を委任して、一審被告に対する通知などを行っていることに照らせば、一審原告は、同月7日に一審被告病院から私物を持ち帰るなどした時点から、上記一審原告訴訟代理人に相談した時点までのいずれかの時点で、退職の意思を翻意させたと認めることができる。
社員の厚生年金の加入手続を一定期間しなかったために生じた将来の年金受給額の逸失利益の賠償請求 | 弁護士江木大輔のブログ (ameblo.jp)