家庭の裁判と法19号で紹介された事例です(東京高裁平成29年8月31日判決)。
本件は遺言当時(平成23年6月)87歳で,その約6年前にはアルツハイマー型認知症にり患していた高齢者(平成26年2月死亡)が行った公正証書遺言につき,遺言能力を欠いていたとし無効と判断した事例です。
遺言者は平成17年3月頃から認知症により物忘れがひどくなるなどの症状が現れ,平成23年5月に作成された医師による後見申立用の診断書では後見相当とされ平成23年2月実施のHDS-R(長谷川式検査)は9点とされていました。なお,HDS-Rで9点というと後見相当とされるレベルになります。
本件では,遺言を作成した公証人が,遺言者と面談した際のやり取りとして
・同居していて跡取りになる二女には多くの財産を残す
・近くに住んでいる長女は手助けしてくれるので不動産をあげる
・長男,次男とは付き合いがあまりないが山をあげる
・金融資産については9割は長女,次女とそれらの子にあげる
と発言したと証言し,これだけ具体的に遺言者の意向を公証人が聞き取ったという証言がされてしまうと,遺言能力を否定するのはなかなか難しい感じがするというのが実感ではあります(実際に本件一審判決は公証人の証言の信用性を肯定したうえで前記のような遺言視野の発言があったことも一つの根拠として遺言能力を肯定していた)。
しかし,控訴審判決においては,そもそも,遺言者による前記のような発言があったこと自体についてこれを認めるには不十分としています。その理由として,
・1年間に300件程度の遺言を作成しており,個々の事案については特に印象に残るもの以外は記憶が無くなるため,できるだけ遺言作成した当日に業務日誌に記録するようにしていたが,本件については問題案件であるという認識がなく,受付メモ等を作成したものの,間もなく廃棄した。
・受付メモには当事者の生の発言を記載していたものの(廃棄),公証人が記憶を喚起するために用いた業務日誌には「遺言者来訪」「4人の子に不動産相続 長女二女に手厚い」「男子二人は財産を狙っており問題があるが一筆づつ相続させる」「金融資産は換価清算の上長女二女に25パーセントづつ相続,甲に10パーセントの割合で相続,残40パーセントは乙外5名に均等の割合で相続」「遺言執行者行政書士」という記載があるが,遺言者の生の発言ではなくその概要や抽象的な評価等を記載しており,長女二女にそれぞれ取得させる財産が記載されておらず,長男二男について行政書士から事前に聞いた情報と評価が記載されている。
ことから,遺言者が実際に発言したという前記の発言内容について公証人が記憶していたということについて信用性を認めず,前記の発言が存在したとは認められないとしました。
そして,当時の遺言者の認知症の症状の状況や遺言の内容が単純なものではなかったことなどから,遺言者の遺言能力について否定したものです。
本件控訴審判決が,遺言者の前記発言の存在を認められないとしたのは,問題案件との認識もなかった本件について,遺言者の生の発言を記録したメモも廃棄しているのに,公証人がそのような具体的な発言があったと証言したことについて疑問を呈したものであり,この点については,掲載紙である家庭の裁判と法の解説において,「公証人が自己の行った業務について不適切なものであったと評価されることを避けようとするインセンティヴがあることもある」としているように,公証人が遺言を有効である方向に印象付けようとして記憶があいまいな点について口が滑りすぎたのではないかという印象です。
もつとも,本件控訴審判決が遺言能力を否定したのは,前記発言が存在しなかったということだけを根拠しているのではなく,当時の客観的な遺言者の認知症による判断能力の状況を踏まえたものです。
結論としての公正証書遺言の有効性に対する評価についてはなかなか微妙なところで,判断する裁判体が異なっていればまた別の判決となっていた可能性も高いように思われます。
業務日誌に遺言者による生の発言が記載されていなかったとしても,前記のような概要が記載されていたのであれば作成された遺言内容とそれほど大きくは違っていないという評価も可能であるような気もするからです。
遺言能力の有無についての争いは多く,これからもますます増えていくものと考えられ,なるべく争いを少なくするように,せめて,公正証書遺言については記録を廃棄などせずにしっかりと残すようにしておくべきであり,きちんと規則の整備などが必要ではないかと思われます。