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アイビーリーグ学生の平凡な本・音楽紹介

アメリカ在住10年以上、某アイビーリーグ大学在学中のジャパニーズ・ボーイが気に入った本・音楽などを気ままに紹介するブログ。

こんにちは。eggstraordinaryです。

本当に久々の投稿となってしまいました。
色々と忙しかったのですが、特にワールドカップ観戦ブラジルサッカーボールに時間をかけすぎたかもしれません。
全ての試合がちょうどこちらの時間で昼か夕方なので、毎日1,2試合を観てたり。。。
侍ジャパン日本代表ユニが敗退してしまったのは残念ですが、やはりブラジル代表やドイツ代表のような強豪のプレーに比べると、余りにもレベルの差があるようですね。
アメリカが予想以上に頑張ったのでこちらはかなり盛り上がっていました。
残り4チームとなりましたが、そのうちヨーロッパが2チーム、南米が2チーム。どこが優勝するか楽しみです(個人的にはやっぱりホストのブラジルが勝たないと地元が暴動になったりしそうで危険な気がします)。


サッカー以外では、先週の金曜日がアメリカの独立記念日(Independence Day)でありました。アメリカアメリカアメリカ
台風のため、花火打ち上げ花火が4日でなく3日に移されたりしてましたけど。。。

独立記念日とは、植民地であったアメリカの人々が母国のイギリスから独立を宣告した日を毎年、7月4日に祝う祭日です。

1775年の夏から続いていたフィラデルフィア市で開催された大陸会議(2nd Continental Congress)で13の植民地から集まった代表たちが独立することを決断し、アメリカ独立宣言(Declaration of Independence)で正式にイギリスと離別することになったのです。

DoI
アメリカ独立宣言
超高画質なので、上のリンク先でじっくり鑑賞してください。アダムスのサインは一番右の、上から3番目にあります。他にも、中心に大きくサインしたジョン・ハンコックの名はイギリスの王ジョージ三世がメガネ無しで読めたという伝説があったり、エピソード満載です。アダムスから下がって3つ目のふにゃふにゃの字を痙攣する手でサインしたスティーフェン・ホプキンズは、「私の手は震えるが、心は震えなぬ!」と言ったことが有名です。


大陸会議での激しい議論の中、独立という結果を導くのに最も貢献したと言ってもいいのが、ジョン・アダムス(John Adams)という人物。

ジョン・アダムス、1793年

ということで、今日紹介したいのがDavid McCullough著、"John Adams"です。
John Adams/Simon & Schuster

ピューリッツァー賞を受賞した、650ページ越えの大作です(目次など入れると751ページ)。

アダムスはマサチューセッツ州、ブラントリー市出身の弁護士でした。ハーバード大学卒です。
背は平均くらい(170cm程度)で小太りなアダムスは全然パッとしない見た目と裏腹に、人一倍強い愛国心と情熱を合わせ持っていました。

1770年のボストン虐殺事件(Boston Massacre)と言われる駐屯イギリス兵がボストン市民に発砲し5人の死人が出た事件の際、イギリス兵側の弁護人として登場。事実と人権を護り、人間を不条理な刑罰から救えることがきれば世間を敵にまわしてもいい、という宣言で開いたアダムスは見事勝利しました。当時、イギリス側を弁護したせいで彼の人気は犠牲になりましたが、のちにその敵味方問わず正義を貫いた功績は称えられるようになり、アダムスはマサチューセッツ州代表の一人として選ばれ1774年の第一次大陸会議に出席します。まだ独立意識が民衆に浸透していない1774年にアダムスはすでに独立を提案したりしました。

Boston Massacre
ボストン虐殺事件

1775年に再開した第二次大陸会議では、強力になった独立派のリーダーとして、アダムスは熱弁を振るいます。さらに、細分化しておびただしい数になった委員会にも数多く参加し、一日16時間以上複数の会議にでるという三面六臂な働きっぷりを見せます。アダムスの労力のおかげで独立議案は可決するのですが、それ以外にもアダムスはアメリカ独立の歴史を大きく影響するのです。アメリカ軍の総指揮官にジョージ・ワシントンを推薦し、独立宣言の原稿執筆者にトーマス・ジェファーソンを推薦したのはアダムスであり、アメリカ歴代最も尊敬されている大統領と最重要な文書の影の生みの親ともいえるのです。

因みに、アダムス本人は独立議案が可決した2日のほうが、ただ公開発表されただけの4日より重要と思い、国民に覚えられるのは2日のほうだと予言していました。その晩、日記に彼はこう記述しました:「17776年、7月の2日目はアメリカの歴史でもっとも記念すべき日であろう。私はこの日が後続する世代に大記念祭として祝われると信じている。[中略] 豪華な行進、見せ物、遊戯、スポーツ、銃声、鳴鐘、焚き火、そして照明で大陸の端から端までこの日から未来永劫祝われることだろう。」

独立戦争後は初代大統領のワシントンのもとで副大統領になり、ワシントンが引退した1796年には、政治的宿敵となったジェファーソンに勝ち抜いて二代目大統領になります。
残念ながら、アダムス政権は革命から生まれた新・フランス政権とイギリスの戦争に巻き込まれ、惜しくも1期で絶たれます。
1794年にイギリスと結んだ和解協定をフランスが敵対視し、アメリカ商船を狩り始めたのがのちに言われる「疑似戦争」の勃発です。XYZ事件として有名になったフランスに送った特使が面会をするために多額の賄賂を請求された事件の報告も入り、民衆はフランスとの戦争を支持することに。
しかし、去って行ったワシントンの残した言葉に基づいて、アダムスは中立姿勢を死守することを誓い、宣戦布告を拒否したため、反感をかいました。
1800年にナポレオンとの和解でこの宣戦布告なき戦争は終結するのですが、アダムスの人気は復活できない打撃を受け、ジェファーソンに大統領選挙を負けます。

TJ
トーマス・ジェファーソン、1800年

強いエゴのせいか、自分や政府を批判することを違法にし、新聞社を拘束する法律を通したりしたのでアダムスの大統領としての実績は悪く言われがちです。しかし、本人は防衛のために海軍を設立したことと、自分の政治家としてのキャリアを犠牲にしてもフランスとの直接な戦争を避けたことを自分の最も誇る功績だと自負しました。1815年に彼はこう言います:「私はこの碑銘以外は自分の墓石に望まない:ここに、1800年のフランスとの和平の責任を自ら負った、ジョン・アダムス眠る。」"I desire no other inscription over my gravestone than: Here lies John Adams, who took upon himself the responsibility of the peace with France in the year 1800."


JA old
ジョン・アダムス、1823年
批判されつづけたせいか、険しい表情になっています。

引退後から数十年、77歳のアダムスは宿敵となったジェファーソンと和解し、12年間もつづく文通をはじめます。同期の英雄たちがほとんど死別し、新世代に取り残されていく自分達を感じる建国世代の生き残りとしての意識が二人をまた同朋にしたのかもしれません。

1826年、7月4日。
アダムスと生涯の友人・兼ライバルであったジェファーソンは偶然の中の偶然、別々にに息を引き取ります。アダムスは90歳、ジェファーソンは83歳でした。
アダムスは最後の息で、「トーマス・ジェファーソンはまだ生き残っている」と言ったそうです(実は数時間前にジェファーソンは死去していた)。
50年以上に渡った二人の愛国者たちの交流とともに、アメリカ合衆国建国者たちの世代に幕が下りたのです。
ちょうどアメリカ独立の記念日とは、なにか詩的なものを感じる最後ですね。
やはり、歴史は奥が深いです。
ではまた!




追記:時代に珍しく、夫婦平等な同輩関係であったアビゲール・アダムス夫人との結婚もアダムスをすべての面において影響したのですが、それも書いているとさらに長くなってしまうので、やはり紹介の伝記を是非独自で読んでいただけると幸いです。こちらもとても興味深い(ラブ)ストーリーです。


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アビゲール・アダムス、1766年

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アビゲール・アダムス、1800年