今日は孫のヴァイオリンの発表会を観てきた
孫は10月から始めているので
そんなにうまくはない
よくがんばっているけど
まだこれからという感じ
他の子は
すごくうまくて
モーツアルトのヴァイオリンコンチェルトの5番の第一楽章とか
ブラームスのハンガリア舞曲第5番の合奏とか
演奏して
すごいなあと思った
ぼくはクラシック音楽の愛好家でもあるので
まあ、すごいと思った
それから派生して思ったことを
書いてみる
このごろは
何かお稽古事?をしている子は
すごくうまくなってる
それは昨今の指導技術の進歩があると思われる
たとえば水泳なら50m自由形は
昔は30秒がチャンピオンになれたが
今はどうだろう
ぼくが教えていた時は
28秒台だった
今はもう
27秒台にはいってると思う
それと同じように
野球
サッカー
などのみんなで遊べるスポーツで
クラブチームに入っている子は
ものすごくうまくて
体育の時間
他の子と一緒にできない
特に女の子をその中にいれると
危険を感じる
テニス
柔道
空手
レスリング
体操
バレエ
ダンス
ピアノ
ヴァイオリン
そろばん
書道
絵
そして
勉強
普通の子とは
まるで
レベルが違う
相手にならない
普通の子では
昔は
みんなでワイワイやれていたものが
今はできない
やっている子は
めちゃくちゃできる
それってどうなのかなあって思う
まず
すばらしい能力をもっていても
学校で見られないのなら
すごいことがわからないし
わかったらわかったで
みんなと一緒にできないこともある
みんなでワイワイできた方が楽しいのに
最近そういうことが少なくなっているような
それに
野球がうまい子は
他のものがうまいか?と聞かれて
そうでもない
当たり前だけど
鉄棒とか
マットのような
器械運動系はできないことも多い
技術・能力のアンバランスさを感じて仕方ない
一芸主義ってやつでもいいんだけど
AO入試で入れるぐらいならそれはそれでいいけど
勉強はどうなのかといえば
クラスで多くの子が受験する学校はいいけど
クラスの1割ぐらいしか受験しない場合は
二つのタイプがある
一つはあまりわからない場合
そうか受験するのかっていう場合
もう一つは
えらそうになるタイプ
勉強してるってことは
当然受験しない子と次元の違う能力をもっているので
そういう子の中に
こんなこともわかんねえのかって
えらそうにする子がいる場合がある
先生の教え方に文句をつけたりすることもある
受験している子は次元が違うのだから
特殊なもっといい解き方をマスターしている場合が多い
そういう子にクラスの舵をとられると
困ることになる
もちろんとてもいい子もいる
こういう解き方もあると教室の前に出て
説明してくれる子もいる
だけど
進学塾で心が病んでしまう子もいる
そういう子が
クラスで毒を巻き散らかすことがある
そういう子もいるってことだ
何が一番いいって言って
勉強ができることが一番いいとぼくも思ってる
だけどそれで
人格がゆがむのは困りものだ
本人にとっても
クラスにとっても
「いい人」になることが
教育の仕事だと
ぼくは思っている
夢みたいなことばかり言っていても
現実はよくならないと言わればそれだけだけど
みんなで楽しく過ごせることが
今の世は求められているのでは?
でも一人一人の力ものばしたいし
結局
両親
指導者が
そのあたりをきちんと教えること
人としての価値を大切にすること
に尽きる
現実はきびしいけれど
みんなが過ごしやすいように
考えるべきだ
なんてことを
ヴァイオリンのすごくうまい子たちを観て
考えたわけです
受験される子のご両親
失礼があったらごめんなさい