美しくあれ・優しくあれ・強くあれ・賢くあれ という呪い | 自分大好きな人の頭の中

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私にとっては当たり前だけど、話すと驚かれるから書いてみる。

長い間、まるで女神のような

 

美しく優しく強く賢い

 

そんな女性像に憧れていた。

 

それが世の中が

 

女性に求める姿だからだと気付くまでに

 

時間がかかった。

 

自分の中から湧き出た憧れじゃなく、

 

『それが女として素敵なことだ』と

 

憧れさせられていたというか。

 

 

 

美しくあれって、

 

身もフタもない言い方をすれば、

 

要は性的な魅力のことだもんね。

 

誰にとっての魅力か、

 

誰の目を引くためなのか、

 

誰が気持ちよくなるためかって思うと

 

その主体が女性ではないことに気付いた。

 

 

 

優しくあれ と 強くあれ は

 

「どんな姿も受け入れろ」。

 

そして「笑って許せ、怒るな」ということでしょ。

 

「苦しんで耐えている姿を見せるな」と。

 

これは誰のため?

 

『苦しませている側だといちいち

 

思い知らされるのが不快だから、

 

笑って耐えろ』ってことだよ?

 

気持ち悪い…。 

 

 

 

さらに、優しくあれ と 強くあれ が

 

一緒になっていることで、

 

「たとえ強くても弱く見せろ(立てろ)」

 

「主張するな」という裏まである。

 

本当に勘弁してくれ。

 

 

 

強くあれ は理想の母像ともリンクしているよね。

 

『母は強いからと言って、

 

笑顔で耐えさせればいい』という

 

安い考えが透けて見えるんだよ。

 

母が耐えることで、

 

誰が得をするんだろう?

 

母が強いということにして、

 

母の辛さやしんどさを

 

ただ耐えるべきことだとして

 

母親を思考停止にさせると

 

誰にとって都合がいいんだろう。

 

そう考えていくと、

 

主体は常に女性本人の外側にあることに気付く。

 

 

 

賢くあれ には

 

恐ろしいことに「でも賢く見せるな」という

 

裏のメッセージまで入っている。

 

賢いのに賢く見せない人を、

 

「それこそが賢い」と言って褒めたたえる。

 

 

 

美しくあれ

 

優しくあれ

 

強くあれ(でも弱く見せろ)

 

賢くあれ(でも見せるな)

 

全部、誰を気持ちよくさせるためのものかと

 

考えたら、

 

それはもう私たちではないよね…。

 

 

 

たとえ血のにじむような努力で

 

それらを兼ね備えて、

 

やっと何か意見を口にしても

 

「ぶす」と「ばばぁ」の二語で封じられると

 

考えている人たちは

 

残念なことにまだ存在している。

 

自分はジャッジする側だと思い込んでいる人たちに

 

付き合うのはもうやめていいよ。

 

 

 

今の私の

 

自分の中から湧き出るなりたい女性像の憧れは、

 

今はそんな『誰かに都合がいい安い女神像』じゃない。

 

今の等身大の自分が大好きだし、

 

大好きな自分がもっと喜ぶ場所や環境に

 

自分を連れて行きたいと思っている。

 

自分以外に押し付けられた

 

そんな安っぽい女の理想像なんか、

 

早く脱ぎ捨てていこうよ。

 

私たちは、

 

誰かを気持ちよくさせるために

 

存在しているわけじゃない。

 

自分が気持ちよく生きていけるように、

 

ちゃんと怒っていいんだよ。