38 避難生活の慰めと警護 | 広瀬氏族の広瀬康述とその一族

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40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。

避難生活の慰めと警護

広瀬氏族研究所代表です。40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。大切なことは、ご先祖様が何時もお守り頂いているから今日の私が生かされているということです。何よりもご先祖様への感謝の念が大切です。心豊かに行動します。

 広瀬兵庫助は、秀吉から次の通り功績を称えられています。
①甲津原文書=秀吉家族・避難警護(1582/6/19付)知行書500石(高山・甲津原・杉野)
②広瀬文書=戦争功績(1583/11/12付)知行書1500石(美濃国広瀬・坂本、近江国新庄・高山・甲津原・杉野)

 広瀬兵庫助は、「本能寺の変」(1582/6/2)直後に長浜城・使者からの要請を快諾し、秀吉家族を美濃国広瀬村への避難警護のお世話をする予定でしたが、長浜城~甲津原へと来た所で旧知の館で10数日間の滞在をしていただき警護と逃避行の慰労に努めました。

 甲津原では、安全が確認されるまでの10数日間、秀吉の家族(母・夫人・夫人の親族)の避難生活の寂しさを慰め、手厚くおもてなしと警護に努めました。
 幸いにも甲津原には、猿楽・楽人の家元が住んでおり秀吉・家族の慰労ができ、兵庫助は誠意をもって一行のお世話をして、その役割と責任を立派に果たしました。

【広瀬兵庫助の活躍を記した「浄休寺寺誌」】
 広瀬兵庫助は称名寺の性慶から白羽の矢が立てられなければ活躍の機会もなかったのです。
 性慶は、近江国小谷村(滋賀県長浜市)にある称名寺・住職の性宗の子でした。元亀3年(1,572年)に江北(近江国の北部地区)10ヵ寺の一揆が起こり、その首謀者が称名寺の性慶でした。その寺院は信長の命で焼き討ちとされて、性慶はと捕らわれの身となりました。

 性慶らが中心となって一揆を起した元亀3年(1,572年)といえば、兵庫助の父・康則が稲葉一鉄の攻撃で落城した年です。兵庫助の祖父・康利の時代から守護大名(戦国大名)の台頭に警戒をしていた関係者(国人・地頭・浄土真宗などの有力な寺院の住職)は、内密に様々な情報交換をしていたのです。

 こうしたことから、称名寺の性宗・性慶の親子も寺院関係者として、以前から美濃国の広瀬城主であった康則の一家に注目しており兵庫助の活躍ぶりや評価などの動向を十分に承知していました。
 そうして、天正10年(1,582年)に「本能寺の変」が起きました。この時、性慶は秀吉家族の避難先の話を聞き、そのお世話役として兵庫助が最適であると進言したのです。性慶は、こうした機転により兵庫助とともに、秀吉家族らの避難のお世話をしたのです。

【広瀬兵庫助の事跡が掲載の「東浅井郡志」】
 事態が落ち着いて後、性慶は秀吉によって罪が許され、晴れて長浜城の使用人となりました。その後、性慶は秀吉から天正18年(1,590年)に、秀吉の江北(近江国の北部地区)直轄領8万石の代官を命じられました。

研究者:愛知県春日井市藤山台 

広瀬氏族研究所代表広瀬まさのり

 

 

 

 

                    広瀬家伝 ー38ー