11 白羽の矢が立てられなければ | 広瀬氏族研究所発表の広瀬康述とその一族

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40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。

白羽の矢が立てられなければ

40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。

「本能寺の変」直後の状況
 「本能寺の変」直後の状況については、史実に基づき東浅井郡志(発行:滋賀県東浅井郡教育会)などの書物や浄休寺 寺誌など広瀬家の古文書に詳細に書かれています。
 その後の調査を含め、これらを総合的にまとめた内容は、次のとおりです。

 天正10年(1,582年)6月2日の早朝、「本能寺の変」(京都の本能寺で織田信長の家臣・明智光秀の反乱による突然の攻撃で信長が負傷して自害した)が起きました。(当時は旧暦の時代で、現在の暦では7月中旬にあたります)。

 この直後の状況は、2日の巳刻(午前10時)になって京都の本能寺での異変が、風の便りに信長の居城である近江国の安土城〔滋賀県近江八幡市安土町=平成22年(2,010年)3月21日から近江八幡市〕に伝わってきましたが、はっきりとしたことは分からないまま時間がたちました。

 その日の未刻(午後2時) になって、ようやく京都の本能寺から寺の使用人の男達が安土城に駆けつけて実情を伝えたのです。城内は熱湯で手を洗うような驚きの騒ぎとなり、城の留守番役家老の蒲生右兵衛太夫は皆の動揺をしずめようとしましたが治まらなかったのです。

 2日の夜になって、美濃国(岐阜県)や尾張国(愛知県西部)出身の武将や武士たちが多数で安土城から逃亡を始めました。

 やっと、3日の卯刻(午前6時)になり、信長の夫人と側室(第二夫人)や子供たちが安土城から隣村の蒲生郡日野村(滋賀県蒲生郡日野町)に避難することができたのです。

 一方、羽柴秀吉の居城である長浜城に「本能寺の変」の知らせが入り、秀吉の母(なか)と夫人(おね)に伝わったのは、丸一日たった3日の朝のことでした 長浜城には、秀吉の母と夫人の他に秀吉の親族たちが身を寄せていました。そして秀吉の母(なか)と夫人(おね)を、夫人の兄・木下家定や夫人の姉の夫・浅野長政たちで警備護衛していたのです。

 ところが、今にも反乱者の明智光秀が長浜城を攻める動きにある中で、秀吉は兵士とともに備中国(現在の岡山県)の高松城攻めで不在のため、長浜城には攻撃に対応できる十分な警備護衛が可能な者は全くいなかったのです。

「本能寺の変」直後の兵庫助の活躍
 この時、長浜城に罪人として軟禁されていた近江国小谷村(現在の滋賀県長浜市)の称名寺・住職の子で性慶という僧の機転により、お城の留守番役たちは避難の援助を依頼するために、急いで使いの者を美濃国広瀬村の広瀬兵庫助の館へ馬で走らせて、兵庫助を迎えに行かせました。

 兵庫助は状況を理解し快く引き受けて、兵庫助が警護して治安が落ち着くまでの間、秀吉の母と夫人を長浜城から美濃国広瀬村へ避難していただくこととなったのです。

 急いで避難する人たちの一行は、秀吉の母(なか)と夫人(おね)、夫人の兄(木下家定)とその夫人、夫人の姉(やや)とその夫(浅野長政)でした。当初の予定では、長浜城から美濃国広瀬村までの道中を兵庫助が警護して広瀬家の館へ避難することとしていました。

 3日の午前中に、一行は称名寺の性慶の先導により長浜城を早々に出発しました。秀吉の母と夫人は、下げ髪うちかけ姿で輿(長柄でかつぐ乗り物)に乗り、秀吉夫人の兄・木下家定は武士の正装をした裃侍姿でした。

 戦国時代における一国一城の主の家族と親族の避難行動とはいえ、その服装は現在でいえば、ご婦人の皆さんはドレス姿で、紳士の皆さんはスーツ姿という正装だったのです。その心は、近江国から美濃国への亡命という様な神妙な心境だったに違いありません。

 この時、木下家定には第4子の「秀秋」(3歳で秀吉の養子となった=後の小早川秀秋)がいましたが、7歳と幼く長浜城下町の総持寺(滋賀県長浜市)という寺院へ、供の家臣とともに預けられました。

 避難する人達の一行は、長浜城から上草野村岡谷(滋賀県長浜市)へと来た所で、広瀬村から急ぎ駆けつけた兵庫助と合流することができ、兵庫助は鎧武者の姿でお出迎えをしました。
 ここからは、兵庫助の警護のもとで七廻り峠、東草野村吉槻(滋賀県米原市)のルートで移動し曲谷(滋賀県米原市)に着いたのは、3日も陽の傾きかけた頃でした。

 ちょうど、この地に白山神社が祀られており、この神社で今後の安全祈願のご祈祷を済ませたのです。そうこうする内に辺りが薄暗く夕やみがせまる頃となり、この里人(村人)の長義という庄屋(村長)の計らいにより、一行の隠れ家として相応しい8畳ほどの岩屋(天然にできた岩間の洞穴)で避難の最初の一夜を過ごすこととなりました。

 翌4日になり、近江国甲津原(滋賀県米原市)に入りましたが、ここから目的地の広瀬村にたどり着くには5里(約20km)の遠い距離にあったのです。

 5里(約20km)といえば、平地を成人男性が徒歩で5時間位はかかる距離で、ここは厳しい山道であり女性の足では10時間以上はかかるとみられました。

 さらに、輿を降りて徒歩で辛抱峠(この辺りの人たちは新穂峠のことを、体力的にも精神的にも辛抱強く峠を越さなければならない事から、新穂峠に良く似た通称で辛抱峠と呼んでいた)のある険しい山を越えなければならなかったのです。

 もう一つの理由に、ちょうどこの頃は夏の暑い時期に入っており、天候により時間帯によっては陽射しが強く、さらに険しい山道を移動するのは女性にとっては過酷な状況だと思われたからです。

 こうした様々な状況から安全な避難行動をとるための判断として、一行は甲津原にある兵庫助の知り合いの寺で暫くの滞在をし、兵庫助は警備護衛に専念することとなったのです。

 甲津原には、兵庫助の良く知る寺がありました。それは、8年前の天正2年(1,574年)に長浜の秀吉へ大量の竹を輸送した際に利用したルートに、この寺があったのです。兵庫助が美濃国の日坂村から近江国の長浜へ幾度も竹を輸送した際には、日坂村から辛抱峠(新穂峠)を越えて、この甲津原を通り長浜へ入いるのが最適なルートで慣れた道でした。

 当時は何回もこの寺に宿泊したことがあり、住職やその家族とは親しい付き合いのある寺でした。人生とは本当に不思議なもので意外なところで、お世話になった人間関係や経験が役に立ったのです。

「本能寺の変」直後の兵庫助の活躍

 参考までに、交通手段が未整備であった古い時代において、寺院は宗教上の重要な役割の他に社会福祉への貢献として、現在でいえばホテルのような宿泊施設の提供もありました。

 そして、一行の身の回りをお世話するために、広瀬村の兵庫助の館へ使いを走らせて、この寺まで食料や身の回りの品を急いで運び込ませました。さらに、兵庫助の手助け役の人たちが駆けつけて、精一杯の手厚いおもてなしをすることとなりました。

 この日から安全が確認されるまでの10数日間、兵庫助は秀吉の母と夫人を猿楽(仮面をつけて、面白い言動をする古くからの芸能)などで避難生活の寂しさを慰め、手厚くもてなし警護に努めたのです。

 幸いにも甲津原には、以前に春日(岐阜県揖斐郡揖斐川町春日)に住んでいた楽人(舞楽の芸能者のこと)で観世流の太夫(結崎流家元)が住んでおり、子孫が代々にわたり伎を伝えていたのです。こうして、兵庫助は「まじめに・こつこつ・一生懸命」「世のため人のため」と、誠意をもって一行のお世話をして、その役割と責任を立派に果たしたのでした。

 ところで、兵庫助は称名寺の性慶から白羽の矢が立てられなければ活躍の機会もなかったので、その辺りを解明してみたいと思います。

 性慶は、近江国小谷村(滋賀県長浜市)にある称名寺・住職の性宗の子でした。元亀3年(1,572年)に江北(近江国の北部地区)10ヵ寺の一揆が起こり、その首謀者(中心的な役割の人物)が称名寺の性慶でした。

 その寺院は信長の命で焼き討ちとされて、性慶は捕らわれの身となりました。その後、秀吉が長浜城を築城し、性慶は長浜城の牢屋に入れられていました。

 性慶らが中心となって一揆を起した元亀3年(1,572年)といえば、兵庫助の父・康則が稲葉一鉄の攻撃で落城した年です。兵庫助の祖父・康利の時代から守護大名(戦国大名)の台頭に警戒をしていた関係者(国人や地頭という領地の支配者、浄土真宗などの有力な寺院の住職)は、内密に様々な情報交換をしていたのです。

 こうしたことから、称名寺の性宗・性慶の親子も寺院関係者として、以前から美濃国の広瀬城主であった康則の一家に注目していました。また、性慶は甲津原の寺の住職とは旧知の仲で捕われの身となる前に、この住職を通じて兵庫助の活躍ぶりや評価などの動向を十分に承知していました。

 そうして、天正10年(1,582年)に「本能寺の変」が起きました。この時、性慶は捕えられてから10年が経過していたこともあり、長浜城では軟禁状態で多少の自由がありました。秀吉家族の避難先の話を聞き、そのお世話役として兵庫助が最適であると進言したのです。

 性慶は、こうした機転により兵庫助とともに、秀吉家族らの避難のお世話をしたのです。
 事態が落ち着いて後、性慶は秀吉によって罪が許され、晴れて長浜城の使用人となりました。
 その後、性慶は秀吉から天正18年(1,590年)に、秀吉の江北(近江国の北部地区)直轄領8万石の代官(封建時代の領主に代わる役人)を命じられました。

 

研究者:愛知県春日井市藤山台 

広瀬氏族研究所代表広瀬まさのり

 

 

 

 

 

                    広瀬家伝 ー11ー