80年代、松田聖子のライバルは誰だったかひとりだけ選べ、と聞かれたら、「中森明菜」と答える。「小泉今日子」ではない。

 

 中森明菜と小泉今日子は1982年デビューの同期だ。(ちなみにこの年、薬師丸ひろ子と原田知世も歌手デビューしている)

 

 デビュー当時のふたりの髪型からもわかるように、中森明菜と小泉今日子は、アイドルとして最も成功していた松田聖子のフォロワーとして誕生した。もちろん彼女たちを売り出そうとした大人たちがそう演出した。

 

 ライムスター宇多丸はこんなふうに書いている。

 

「──当時はそうした流れのいちフォロワーとして登場した小泉今日子が、先端的な『リアル』(例えば山口百恵~中森明菜ラインの土着的ワケあり感とは一線を画す、あくまで自然体なイマドキの不良性)の体現者として、次第に頭角を現していく…」

(マガジンハウス「BRUTUS」2010年6月1日号p84)

 

 小泉今日子は自らの意志で聖子ちゃんカットの髪を切り、ショートカットにする。彼女は誰でもない自分の場所をさがして、活躍の幅をひろげる。もちろんスタッフも「──ほかの人との差別化をしないといけないというのがいちばんにありました」と話している。(※1)

 

(そういえば80年代には広告代理店が「差異化」ということばを好んで使っていた印象がある。「アイディンティティ」なんてことばもよく耳にした)

 

 中森明菜はセカンドシングル「少女A」でがらりと印象を変える。大人びていて反抗的な印象は、あきらかに山口百恵を意識している。ライムスター宇多丸のコラムにもあるように、松田聖子のフォロワーとして誕生したアイドル歌手「中森明菜」は山口百恵の後継者と見なされるようになった。

 

 当時、「少女A」を歌唱している中森明菜を見ると、山口百恵的な演出を施されているのだけれど、どうしてもときおり小さな笑顔を見せてしまっている。彼女はこのとき17歳。歌うことが好きで、ステージに立てることが嬉しくてしかたがなかったのだろう。

 

 歌唱するときの力強い印象とは違い、ふつうに話す彼女は、とても線が細くて優しい話しかたをする人だな、と思った記憶がある。

 

(いま「少女A」を検索して見た感想は、率直にいって「超かわいい」だった。17歳の彼女に、そんなに頑張らなくても良いんだよ、と声をかけたくなる)

 

 1985年、中森明菜は映画にも出演する。『愛・旅立ち』は近藤真彦とのダブル主演だった。

 

 彼女のなかには、松田聖子のライバルであり、山口百恵の後継者である、という意識がどのくらいあっただろう。あるいは他者からそう期待されているという視線が。そう演出されているというプレッシャーが。

 

(山口百恵も松田聖子も映画の共演者と結婚している。いま書いていると、中森明菜にとっては、まるで罠のように見える)

 

 1989年、彼女は恋人の部屋の浴室で、左腕の内側を刃物で切る。

 

 だれだって恋には悩み傷つくものだし、恋に限らず、あまりにも苦しい思いをして世界から消えてしまいたいと考えることくらいある。その苦しみに年齢や性別や場所や時代は関係ない。

 

 この件で大切なことは、命が失われることがなくてほんとうに良かったということだ。

 

 中森明菜は1年間、芸能活動を休止する。

 

 1989年は、「昭和」が終わって「平成」がはじまった年であり、手塚治虫と美空ひばりが亡くなった年であり、日経平均株価が史上最高値を記録した年である。

 

 そのようにして、80年代は終わる。

 

 

 ──そのあと、

 1992年、中森明菜はテレビドラマ『素顔のままで』に出演する。安田成美とのダブル主演で、視聴率は31.9%を記録し高評価を得る。女性ふたりの友情を描くドラマだった。

 

(※1)第2回 小泉今日子が“女の子”に支持された理由 (1/3) |AERA dot. (アエラドット)

 

 1985年が、80年代のアイドルブームのピークだったといわれるのには理由がある。

 

 それは、松田聖子が結婚した年であり、小泉今日子が「なんてったってアイドル」を歌った年であり、おニャン子クラブが登場した年だった。

 

 山口百恵、中森明菜、小泉今日子など多くのアイドルスターを輩出したオーディション番組『スター誕生!』は1983年に終了していた。1985年にはじまった『夕やけニャンニャン』は、オーディション企画「アイドルを探せ」によって、「おニャン子」の加入と脱退をくりかえしながら、その勢力を拡大していく。

 

 クリス松村は『「誰にも書けない」アイドル論』のなかで、「──おニャン子クラブの出現はアイドルという存在の価値、チャートの持つ意味を一気に変えたと私は考えています。86年の1年間、52週のうち、おニャン子クラブ関係の楽曲が、なんと36週も1位に君臨していました」と書いている。(p135)

 

「彼女たちの人気、レコードの売上は、一部の学生たちだけをピンポイントでターゲットにしていた結果」だとクリス松村は分析し、「彼女たちが出現して消えるまでの期間は実はレコード市場が最も低迷した時期と重なる──」としている。(p136)

 

  この時代はちょうど、アナログレコードからデジタルCDへの移行期で、シングル曲をどう売っていくのか、レコード会社が試行錯誤をしている時期でもあった。ミニサイズの8センチCDが登場するのは1988年だ。

 

 おニャン子クラブがレコード市場を席巻していた1986年。その年には、とても悲しい出来事があった。

 

 ライムスター宇多丸は「『アイドル幻想』変容の時代。」というコラムのなかで、「臨界点としての80年代中盤」として、こんなふうに書いている。

(マガジンハウス「BRUTUS」2010年6月1日号p84)

 

「──おニャン子クラブ~小泉今日子『なんてったってアイドル』という、秋元康による2大『アイドル幻想解体』仕事で記憶される85年は、それと呼応するかのように松田聖子が結婚=『アイドルというゲームからの一時撤退」を表明した年でもありました。そして翌86年には、ポスト聖子の担い手となるはずだった岡田有希子が……」

 

 自らその人生を終えるという選択をした。

 

 このとき彼女は18歳。1983年に『スター誕生!』に出場し、1984年にデビューした。1986年1月には「くちびるNetwork」でオリコンチャート初登場1位となった。この曲は休業中だった松田聖子が作詞をし、坂本龍一が作曲をしている。彼女は4月に亡くなった。この曲が生前最後のシングル曲となった。

 

 岡田有希子に楽曲を提供していた竹内まりやは対談のなかで、こんな話をしている。

(クリス松村『「誰にも書けない」アイドル論』p237)

 

「──ユッコちゃんは河合奈保子ちゃんに憧れていて、ずっとアイドルになることを夢見ていたらしいんです。すごくがんばり屋さんで、オーディションを受けて見事に勝ち残ったんですよね。愛らしくて笑顔のとてもかわいい女の子でした。レコーディングスタジオで会うと、いつもニコニコほほえんでましたよ。

 でも『哀しい予感』っていう6枚目のシングルを書いた直後のライブを観に行った楽屋で、それこそ〈哀しい予感〉じゃないけれど、ひさしぶりに会ったユッコちゃんから、デビューのころのあの笑顔が消えていたのがすごく心配になったんです。言葉少なに『じゃあ、がんばってね』と声をかけて帰ったのが結局最後になってしまって……。彼女が突然いなくなったのは本当に残念でした」

 

 ライムスター宇多丸はラジオ番組のなかでこう言った。

 

「──僕自身にとってもこの事件が本当に大きくてですね、それまでアイドルファンだったのを、やめてしまったくらいなんですね。それから10年近くやめてしまったんです。(…)岡田有希子さんが亡くなった時に、まさに僕らの幻想を押し付けるのがアイドルだとしたら、不可避的に『アイドルを好きだ』ということはイコール『生身の彼女たちを抑圧して傷つけているのではないか』ということに真面目に悩んでしまいまして。で、僕は『もうアイドルファンという形で、アイドルという残酷な産業というかシステムに加担するのはやめようかな…』と思って、アイドルファンをやめた、という経緯があったりして。…」

(ライムスター宇多丸の『ウイークエンドシャッフル』2007年5月5日 ※1)

 

 彼女が亡くなったのは宇多丸が17歳のころの出来事だ。彼と同じように感じ、アイドルや芸能界への熱が急速に冷めてしまった同世代も多いだろう。

 

 クリス松村は自身の感想として、「アイドルが輝いていたのは84年あたりまで」だと言っている。

 

 輝きが強くなれば、影も濃くなる。

 

 このあと、時代はバブル景気のピークへとむかうが、「アイドル」ということばにむけられた視線には、影が差しこんでいく。

 

 

 

 

(※1)それは悲しいくらいのピンク色だった : ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル 2007年5月5日 宇多丸のアイドル論「岡田有希子・しょこたん・鈴木亜美」(書き起こしブログ)

 80年代のアイドルでふれておかなくてはいけないのは、いまとなっては巨大なフラグ(伏線)のように見える『おニャン子クラブ』だ。

 

 1985年、松田聖子が結婚し、小泉今日子が「なんてったってアイドル」と歌った年に、フジテレビで『夕やけニャンニャン』という番組がはじまる。

 

 先行して成功していた深夜番組『オールナイトフジ』が、女子大生アシスタントによる「オールナイターズ」でアイドル的な人気を得ていたため、その女子高生版として発案された。

 

 「オールナイターズ」は素人の女子大生で構成されていた。それにそって「おニャン子クラブ」も夕方の女子高生の放課後感がコンセプトになり、その素人っぽさが親しみやすさや共感を生んで注目された。

 

 番組内には新規メンバーを選ぶオーディション企画「ザ・スカウト アイドルを探せ!」があった。毎週オーディションがくりかえされ、合格者が「おニャン子クラブ」に加入していく。その過程を見せることで、番組の盛りあがりと「おニャン子」たちへの人気につながった。

 

 番組の主題歌でありデビュー曲の「セーラー服を脱がさないで」が大ヒットして人気を決定づける。作詞を担当したのが、構成作家として番組に参加していた秋元康だ。

 

 彼は、おニャン子クラブのメンバーが、学校の中間テストを理由に欠席しているのを見て、プロフェッショナルな芸能人であればありえないことだが、ファンの中高生にとってはその「テレビ出演」より「中間テスト」の価値観こそが画期的で共感をよんだのだ、と話している。(※1

 

 ただ、その共感される素人感こそが「おニャン子クラブ」の限界のひとつだった。

 

 プロフェッショナルを目指すのであれば、ずっとそこにはいられないし、もともと「女子高生の放課後感」がコンセプトの番組だ、人は必ず歳をとる。

 

 1986年の3月には初期メンバーから二人が卒業している。数十人におよぶ大規模なアイドルグループが「おニャン子クラブ」以前にあったのかどうかはわからない。すくなくとも彼女たちほどは成功してはいないはずだ。グループからの脱退を「卒業」と位置づけて、コンサートでの最終公演を卒業式イベントとしたのは「おニャン子クラブ」がはじまりではないかと思う。

 

 Wikipediaによると、1986年ころには、TBSのランキング歌番組『ザ・ベストテン』にたいして、フジテレビの『夕やけニャンニャン』側が「おニャン子クラブ関連の順位が低い」と異議をとなえ、おニャン子関係の出演を半年以上ボイコットしていたらしい。

 

 他局の番組から生まれたアイドルであり、10曲しかない歌唱のわくを複数「素人感」を売りにする少女たちに占められてしまうのを嫌がって、ポイントを意図的に操作しているのではないかと疑ったのだろう。

 

 「おニャン子関連」という書き方をするのは、メンバーのソロ曲や、派生ユニットの曲が多くあったからだ。このころにはおニャン子関連の楽曲がつねに2、3曲はランキングされている状況だった。もっとも勢いのあった時代だ。

 

 しかし『夕やけニャンニャン』という番組そのものの勢いは、あっけなく衰えていく。

 

 番組の「マンネリ化」とひとことで言われたりもする。それは、おニャン子の人気メンバーの卒業や、人数の拡大による印象の希薄化(番組末期にはとんねるずが新人の名前が覚えられないと嘆いていたという)、そしてオーディションの質の低下。

 

 考えてみれば、オーディションに来ることができる場所に住む10代後半の女の子で、おニャン子になりたいと思う子がどれだけいただろう。そのなかでスタッフや視聴者が、おニャン子になって欲しいと思う子がどのくらいいるのか。いくら素人感を売りにしているとはいえ、やはりそこには人を引きつける魅力が必要だ。

 

 それはまだテレビに出ることが特別な時代で、ビデオで自分が動く姿を見ることすらめずらしかった。映ること自体を心からは恥ずかしいと思う人も少なくなかった。カワイイからといって誰もがテレビに出たいわけじゃない。

 

 毎週毎週オーディションをくりかえせば、人材が底をつくのはあたりまえだった。

 

 視聴率の低下とともに、番組はあっさりと終わる。そして番組の企画としてはじまった「おニャン子クラブ」も消滅した。活動期間は2年半にすぎなかった。

 

 このとき秋元康は29歳。

 

 優秀な放送作家であり、才能ある作詞家として、すでに一目はおかれていた。しかしプロジェクトの決定権をもてるような立場ではなかった。

 

 テレビ局がはじめたものは、テレビ局の都合で終わる。

 

 多くの人は秋元康が「おニャン子」をつくったのだと思いこんでいる。しかし彼自身は、おニャン子についてはじぶんが「仕掛け人」というわけではないと言っている。

 

「──おニャン子クラブはあれはあくまでフジテレビありきで、フジテレビの具現化するスタッフとして僕がいたわけで、プロデューサーではないからね」

(※『ライムスター宇多丸のマブ論』文庫版・秋元康☓宇多丸対談 p519)

 

 彼はまだ若く活きのいい優秀なひとりのスタッフとして「おニャン子クラブ」を手がけ、それが巨大なムーブメントになるのを体験した。しかし番組終了と同時に、あっさりと消え去る。

 

 情熱をかたむけた仕事の終焉に、青年だった秋元康は何を思っただろう。

 

 じつは「おニャン子クラブ」が、秋元康という人物をつくりあげたのではないか。

 

 80年代の半ばにあだ花のように咲き散ったアイドルグループの影が、20年後、再び巨大な亡霊のように立ち上がるのをわれわれは知っている。

 

 「おニャン子クラブ」消失後、フジテレビは1989年の「乙女塾」や1998年の「チェキッ娘」など、番組先行のアイドルグループを試みたものの、どちらも1年ほどで終了している。(乙女塾には永作博美がいた)

 

 「乙女塾」の番組に秋元康の姿はない。「チェキッ娘」の番組には秋元康事務所として協力していたようだが、グループには作詞もせず、プロデュースはしていない。

 

 

 

(※1)秋元康氏、革新を起こし続けてきた男の頭の中 (2ページ目):日経ビジネスオンライン

 1985年、松田聖子は結婚する。23歳。お相手は同年に公開された映画『カリブ・愛のシンフォニー』で共演した神田正輝だった。

 映画の共演をきっかけとして愛を育み結婚、という流れは山口百恵と同じだ。

 ただ、松田聖子と神田正輝はこの作品が初共演だたっだ。こんかいWikipediaを確認して驚いたのは、あの郷ひろみとの破局会見からひと月後には、神田正輝との交際を認めている。

 1月に「生まれ変わったら一緒になろうね、と話し合った」との破局会見で話題になり、2月には神田正輝との交際を認め、4月には婚約を発表し、映画が公開。そして6月には結婚式をあげている。

 時系列だけで見ると、なんでそんなに慌ててるんだろう? と感じてしまうけれど、愛とはそういうものだともいえるし、人にはそれぞれ事情がある、としかいいようがない。

 ちなみに娘の神田沙也加の誕生は翌年の10月1日である。

(『カリブ・愛のシンフォニー』の同時上映が大林宣彦監督の『さびしんぼう』だったことを知り、しみじみしたことをメモしておく)

 その後、松田聖子は二度の離婚を経験し、神田正輝をふくめて三度の結婚をしている。(2019年現在)

 そして歌いつづけている。

 もし100年後の日本の歴史教科書にアイドルの名前がのっているとしたら、それは山口百恵と松田聖子だと僕は思っている。

 彼女たちは芸能文化のわくを超えて、20世紀後半から21世紀にかけての女性の生き方のロールモデルとして、象徴的なふたつのケースだと注目されるだろう。

(ちなみに「男女雇用機会均等法」が成立したのは1985年である)

 ただ、ここで忘れてはいけないと思うのは、彼女たちは時代の気分や抑圧から自らの人生を選択しているのではなく、生まれ育った環境や、好きなものへのあこがれや、思い描いた未来の幸せな暮らしのために、その時々に彼女たちが立っている場所から見える選択肢を慎重に考え、ひとつひとつ選んだ結果が、時と場所をへだてた他者からはロールモデルに見えてしまうということだ。

 山口百恵は引退時に発表した自叙伝『蒼い時』のなかで、自分が引退し家庭に入ることが、社会で活躍するためにがんばっている女性たちをがっかりさせるのではないか、との意見があることを自覚した上で、それでも自らが幸せになるためにはこの選択が必要なのだ、という旨を書いていた。

 彼女がその選択をした理由は、『蒼い時』を読むとよくわかる。山口百恵にとって、もうひとつのあこがれが「家庭」だった。

 一見、とても自由に見える松田聖子はどうだろう?

 ステージに立ちつづける彼女は、ずっと自らに求められる理想像と、現実の自分とのあいだで苦闘しつづけているように見える。そしてときおり現れる破綻が、結果として古い常識を打ち破り、新しいモデルのように見えてしまう。

 不思議なのはさまざまな破綻や失敗、その痛みや滑稽さを経ても、彼女の歌声にはいっさい影がささないことだ。声質は時とともに変わっても、その明るさや魅力は失われない。

 松田聖子がいつまでアイドルだったのかを考えても、答えをだせる人はいない。それが偶像や虚構だったとしても、彼女は最後までそれをやり通そうとしている。ステージの上では。

 山口百恵と松田聖子に共通点があるとすれば、自分の意志でその人生を選択した女性ということなのだと、僕は思う。

 

 

 

 ──「おニャン子クラブ」その可能性と限界、につづく

 

 1980年、山口百恵の去ったショウビジネスのステージに、入れかわるようにして現れたのが、松田聖子だった。この交代劇をいまの視点からみて、ショウビジネス界にとどまらない大きな時代の変化として語る人も多い。

 

 戦後、人々が抱えていた喪失と貧困の「悲しみ」から、高度成長を経て、その意識が、モノには満たされているが何かが足りない「寂しさ」へと変わる。

 

 ある小説家はこんなふうに書いている。「──演歌や歌謡曲は、集団の最大公約数的な悲しみが消えたときに、存在理由を失った」

(村上龍『寂しい国の殺人』1998年)

 

 山口百恵は高度成長の最後のところに立つ歌手だと思う。「緑の中を走り抜けていく真紅(まっか)なポルシェ」は、あこがれと強さの象徴で、それをドライブする女性は素直にカッコよかった。がんばれば、もしかしたら手が届くかもしれない夢だった。

 

 松田聖子が歌うのは、シャイなボーイフレンドと汽車に乗って海へ行き、「煙草の匂いのシャツに、そっと寄りそう」姿だ。そして心の岸辺には「赤いスイートピー」が咲く。ささやかな一瞬の夢。

 

 華やかだけれど、ちょっとさみしい80年代のはじまりである。

 

 松田聖子の存在を振り返ったとき、その明るさと華やかさ、そして虚構性は80年代という時代をよく象徴していると感じる。ただ同時に、その時代は尾崎豊の時代でもあった。

 

 僕の通っていた中学校では、何人もの女の子が聖子ちゃんカットをまねていたし、何枚もの窓ガラスが不良と呼ばれた男の子たちによって割られていた。

 

 記憶のなかでは松田聖子の登場は負の印象からはじまっている。いわゆる「ぶりっ子」という批判だ。流行りことばにもなった。ある授賞式で彼女が泣きながら「お母さ~ん」と叫んだのに、涙が流れていない、という出来事があった。嘘泣きまでしてカワイ子ぶっている、といわれて、やっかみまじりで広まった。当時、僕のまわりの女の子たちからもずいぶん嫌われていた。小学校の6年生くらいだったと思う。

 

 嫌われていたはずの松田聖子が、いつのまにか、その髪型をまねされるほどの人気者になっていた。なにがきっかけでそんな変化が起こったのかはよくわからない。ただ、悪名は無名にまさる。そして、彼女の歌はいつも素敵だった。

 

 松田聖子の魅力はまず歌唱力。なんといってもその甘く軽やかな声。いつも明るく、ときに切ない、圧倒的な歌声の魅力だと思う。そして楽曲。当時、ポップソングの最前線を切り拓いていたミュージシャンたちがずらりとならんでいる。『赤いスイートピー』を作曲した「呉田軽穂」が松任谷由実だと知ったのはずいぶんあとになってからだった。

 

 ちなみに聖子ちゃんカットといわれ、多くのフォロワーを生んだあの髪型は、じつはオリビア・ニュートン・ジョンが原型なのだと最近になって知った。(※1)

 

 松田聖子はオリビア・ニュートン・ジョンのファンであり目標だと語っていたという。彼女の「あこがれ」が、同時代を生きる多くの女の子たちに、「あの髪型カワイイ」と受け入れられて社会現象にまでなった。

 

 中森明菜や小泉今日子もデビューのころは聖子ちゃんカットだった。

 

 そしてオリビアがショートヘアにすると、松田聖子も髪を切る。ショートヘアになった彼女がはじめて歌ったシングル曲が『赤いスイートピー』だった。

 

 彼女の歌声はそっと寄りそう、僕らが寂しくないように。

 

 

 (※1) クリス松村『「誰にも書けない」アイドル論』p68