1996年、「アムラー」が流行語となり、レコード大賞も受賞する。

 

 その同じ年、彼女は「安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S」としての活動を終了し、SUPER MONKEY'Sは「MAX」となって、それぞれに独立して活動するようになる。

 

 SUPER MONKEY'Sのデービュー時に、リーダーとして共に活動していた牧野アンナは、安室奈美恵の才能を目のあたりにして早期に脱退した。彼女は沖縄アクターズスクールのインストラクターとなり、のちにAKB48グループの振りつけも担当する。

 

 牧野アンナは、彼女の父であり沖縄アクターズスクールの設立者でもあるマキノ正幸が、安室奈美恵に出会った瞬間をこんなふうに話している。

(※1 TBSラジオ「アフター6ジャンクション」2018.9.17)

 

「──最初に彼女が11歳ぐらいの時、アクターズスクールにフラッと入ってきた時から、もう、うちの父は『この子!』っていう風に言いだしたんです。でもその時は全然、歌もダンスもやっていないし、聞いてないし(…)

 

 彼女が歩いている姿だけを見て『この子、絶対に歌えるし踊れる!』って言いだして。

 

 彼女はオーディションで友達の付き添いで来ていたんですよ。で、彼女がフラーッと帰ったのを追いかけていって。呼び止めて。それで「入りなさい」っていう説得をして(…)」

 

 マキノ正幸はアクターズスクールの全員に、安室奈美恵をひいきすることを宣言した。「──お前たちはそこにいちいちヤキモチを焼いたりとか、文句言ったりするな。お前らとはぜんぜん才能が違うから。奈美恵がスターになったら絶対にお前たちの道を彼女は切り開くから。だからみんな、黙ってついて行け」

 

 安室奈美恵は「平成の歌姫」と呼ばれるほどのスターになり、MAXは2019年の現在も活躍している。

 

 誰も知らない女の子がアイドルとして現れてスターになる。そういう反復のなかに安室奈美恵もいる。ただ、彼女が画期的だったのはダンスだった。

 

 ピンクレディーの魅力はそのダンスにもあった。子どもたちがみんなピンクレディーの振りつけのまねをした。その後、ユーロビートというダンスミュージックでブレイクし、スターになった安室奈美恵のダンスは、素人が容易にまねられるものではなかった。

 

 安室奈美恵とそれ以前との違いは、やはりマイケル・ジャクソンの存在が大きい。1982年の「スリラー」や87年の「BAD」などのミュージックビデオが人々をとりこにした。そのビジュアルやダンスを「とんねるず」の番組がパロディにし、評判になったのも記憶にある。

 

 80年代、アメリカで「MTV」が放送開始され、「見せる音楽」の時代がはじまる。そこで歌いながらダンスをするマイケル・ジャクソンは、ハイクオリティのビデオクリップを制作し、ひとつの時代をつくる。彼はのちに「キング・オブ・ポップ」と呼ばれた。

 

 安室奈美恵が沖縄アクターズスクールに現れたのは11歳。1988年ころだ。彼女自身はスクール内で見たジャネット・ジャクソンのミュージックビデオに衝撃を受けたと話している。

 

 先出の牧野アンナは、アクターズスクールでのレッスンについてこんな話をしている。(※1)

 

 ──安室奈美恵(SUPER MONKEY'S)以前には、ただ可愛いだけの女の子も東京の芸能界に送りだしていた。しかし、沖縄から海をこえていくと、どうしてもホームシックになったり体調を崩したりしてダメになってしまう。

 

 そこで、精神面が重要だと考え、徹底的に鍛え上げることにした。その最初の試みが。安室奈美恵とSUPER MONKEY'Sだった。

 

 まず、歌って踊る海外アーティスト、「マイケル・ジャクソン」「ジャネット・ジャクソン」「マドンナ」などの研究をした。

 

 なぜ、あれだけ踊っているのに、歌がぶれないのか?

 

 どんなにビートを踏んでもぶれない。縦ゆれで、頭がゆれると、どうしても声がぶれるはずなのに。

 

 アメリカの彼らは自然にやっている。ふだんの歩きかたがビートを踏んでいる。すでにダンスになっている。歩きかたが、頭がぶれない。打ったビートが、声になってもじゃまにならない。

 

 日本人はそうじゃない。歩きかたが、膝が曲がっていて、上下に頭がぶれてしまう。なので声をだすと、ゆれてしまう。

 

 そして研究の結果、「打ったビートを、ちゃんとかき消して、歌のじゃまにならないような身体のこなしを発見して──」訓練をした。

 

「──ただ、(安室)奈美恵は教えなくてもできた」

 

 ライムスター宇多丸はその話を聞いて、だから「歩きかたを見て、この子はイケる!」とマキノ正幸は言ったのかと、その彗眼に感嘆している。

 

 沖縄アクターズスクールでは、「歌いながら踊る」というレッスンをやる。歌とダンスは別物というスタートラインには立たない。

 

 牧野アンナは言う。──歌いながら踊ることをフリースタイルでやる。振りつけではなく、自分で動きだす。自分で考えさせる。でも、はじめはできない。カッコ悪い。もっとカッコよくなりたい、と思うようになったら、自分で研究をはじめる。そこに創造性が生まれる。

 

 安室奈美恵が「TRY ME ~私を信じて~」でブレイクしたのは1994年。その次の年、同じ沖縄から4人の少女が現れる。

 

 

 

 

*牧野アンナ氏の発言は筆者が省略し構成しています。詳しくは下記(※1)の公式ラジオ音声をご確認ください。

 

(※1)安室奈美恵は歩いてるだけで歌と踊りの才能を見いだされた【牧野アンナが語る】(TBSラジオ「アフター6ジャンクション」音声)

 

牧野アンナと宇多丸 安室奈美恵引退を語る(「アフター6ジャンクション」書き起こし)

 

 1991年、『ZARD』がデビューしたのと同じ年、安室奈美恵が『SUPER MONKEY'S』の一員として沖縄でデビューしている。

 

 彼女は14歳。翌年の92年に東芝EMIからメジャーデビュー。ただ、ヒット作にはめぐまれず、プレイクをしたのは1994年の「TRY ME ~私を信じて~」だった。

 

 「TRY ME~」はエイベックスの創業者Max松浦のプロデュースによるユーロビートのカバー曲で、その時代を共にした者ならタイトルを見ただけで、軽快なリズムと彼女の歌声をすぐに思いだせるだろう。

 

 そして1995年、レコード・レーベルをエイベックスに移籍し、小室哲哉のプロデュースがはじまる。

 

 翌年にはセカンドアルバム「SWEET 19 BLUES」で350万枚以上を売り上げ、これは当時のレコード売上枚数の過去最高記録となる。全国ツアーでは8万人を動員し、街には女子高生を中心に彼女のファッションをまねする「アムラー」が現れる。「アムラー」はこの年の流行語大賞にも選ばれた。

 

 安室奈美恵は19歳にして時代を代表する歌い手になった。

 

 いまから思えば、同世代からのファッションへのあこがれは松田聖子を感じさせるし、歌い手としての貫禄は山口百恵を思わせる。ただ、CDの売上枚数は桁が違う。

 

  松田聖子が100万枚以上を売り上げたのは1996年の「あなたに逢いたくて~Missing You~」がはじめてである。(カセットテープの売上を入れれば80年代の作品でもミリオンを達成していたのではないかという話もある)

 

 山口百恵は1976年の『横須賀ストーリー』の66万枚が最高のようだ。こういった数字は人気の指標として比べても意味がない。やはり時代の影響が大きい。山口百恵の時代にはアナログレコードとカセットテープしかなかった。

 

 音楽CDが発売されたのは1982年。売上枚数でアナログレコードLPを抜いたのが1986年だった。(Wikipediaより)

 

 1990年ころになると、「団塊ジュニア」と呼ばれる第二次ベビーブーム世代(1971年~74年生まれ)が成人をむかえる。1995年にはその多くが社会人になり、収入を得て、消費をはじめる。いわゆる人口ボーナスだ。(※1)

 

 この頃はまだ、携帯電話が巨大で高価で、ビジネスマンとお金持ちが使うものだった。パソコンもようやく「Windows95」が出たばかりで、インターネットも普及していなかった。

 

 団塊ジュニアが社会人になり、手にした可処分所得がむかった先は、ファッションであり、カラオケであり、音楽CDだった。

 

 そこに、安室奈美恵や小室哲哉はいた。

 

 世相としては1995年は神戸の震災とオウム事件の年であり、1997年が山一證券の破綻にはじまる金融危機の年だ。バブル崩壊がだれの目にも明らかだった。

 

 90年代に入り、経済的には長い下り坂がつづいていた。しかし、音楽業界だけは1998年までCDの売上を伸ばしつづけている。

 

 「アムラー」が流行語となった1996年、安室奈美恵は「日本レコード大賞」を受賞する。19歳で史上最年少の受賞だった。

 

 

 ──「ダンス・ダンス・ダンス」安室奈美恵の発見につづく。

 

 

(※1)「団塊ジュニア」とよばれる第二次ベビーブーム世代(1971年~74年生まれ)が成人をむかえるのが1992年前後、95年にはその多くが新社会人になり収入を得て消費をはじめる。

出生数・出生率の推移 - 少子化対策 - 内閣府

・ちなみに携帯電話の人口普及率が50%をこえたのは2000年。

総務省|移動体通信(携帯電話・PHS)の年度別人口普及率と契約数の推移

・インターネットは2002年に人口普及率50%をこえている。

[インターネット普及率の推移をグラフ化してみる(2017年) ガベージニュース

 

 

 坂井泉水は作詞をしていた。デビュー曲の「Good-bye My Loneliness」をはじめ、「負けないで」「揺れる想い」など、その楽曲のほとんどが彼女による作詞である。

 

 「アーティスト」の条件として、〈自作自演〉をあげる人がいる。シンガー・ソング・ライターや自作曲を演奏するバンドは「アーティスト」といえるけれど、提供された曲を歌うだけのシンガーを「アーティスト」と呼んでいいものか。

 

 あるインタビューで、山下達郎がこんなことを言っている。彼は「嫌いな言葉は?」ときかれて、こう答えた。

 

「アーティスト。自分が言われるのも嫌だし、口にするのも嫌い。いま日本で使われてたり、メディアが言ってるアーティストは、本来の意味じゃないですからね」(※1)

 

 多くの尊敬をあつめるミュージシャンからして根本から否定している。

 

 そもそも歌手やミュージシャンにたいして、「アーティスト」ということばを持ちだしたのは音楽を売る側であり、それは単にプロモーションの戦略だった。なので受け手であるわれわれが困惑するのもあたりまえで、もともとズレがあったのだ。

 

 そのズレを埋めあわせる方法のひとつとして、ボーカリストによる「作詞」というのは機能する。〈自作〉を〈自演〉しているので「アーティスト」と呼んでなんの問題もない、と言える。

 

 すこし意地の悪い言いかたに見えるかもしれない。個人的にはそのことの良し悪しは考えても仕方がないと思っている。それは外側のかたちだけの問題で、けっきょくは人の心に届いたものだけが残る。それが「アーティスト」と呼ばれた人のものであっても、「アイドル」と呼ばれた人のものであっても。時が過ぎればおのずと答えはでる。

 

 ただ、いまを生きるためには、売上が必要になる。そのためのマーケティングなのだ。世の中を見渡して最善だと思う方法をとらなければならない。

 

 さらに身もふたもないことをいえば、前回引用した宇野維正『1998年の宇多田ヒカル』のなかで、著者はこう言っている。

 

 ──「アイドル」と「アーティスト」の違い。それは、「同性の支持を得られるかどうか」がほぼすべてである。(p42)

 

 音楽ライターでありジャーナリストとして、長年にわたり音楽産業を見つめてきた著者は「現在のレコード会社や音楽系事務所の関係者なら誰もが身にしみてわかっていること──」だと書いている。

 

 たぶん、それだけのことである。

 

 音楽業界はカッコ悪くなった「アイドル」ということばを遠ざけ、カッコ良く感じる「アーティスト」ということばを持ってきた。

 

 だが、彼らが遠ざけたはずの「アイドル」ということばもやがて変容し、再び大きな力を持つ時がきてしまう。でも、それはまだ先の話だ。

 

 

 

(※1 山下達郎 100Qインタビュー/チケットぴあ〈Q8〉おそらく2011年ころ)

 

 個人的な経験から──

 

 僕が社会人になって働きはじめたのは1990年だった。そのころ仕事で、ミュージシャンが使う練習用の音楽スタジオに、下見をしに行ったことがある。

 

 ちょうど『イカ天』(※1)後のバンドブームの時代で、プロもアマチュアも使うような都内のレンタル・スタジオは、とても賑わっていた。

 

 下見をおえた帰り道に、いっしょにいた同僚が怪訝な表情で言ったことを今でもよく覚えている。

 

「あの店のやつら、客のバンドマンのこと『アーチスト』って言ってましたよ。絵描きでもないのに、おかしいですよねえ──」

 

 僕がミュージシャンのことを「アーティスト」と呼ぶのを聞いたのは、この時がはじめてだった。

 

 それまでは「アーティスト」といえば、画家や彫刻家のことで、なにか前衛的な舞踏やパフォーマンスをする人や、音楽の世界でもクラッシクの作曲家や演奏家ならしっくりきたかもしれない。

 

 たとえ洋楽の大物ミュージシャンでも、ロックやポップスなどの大衆音楽をやっている人物を「アーティスト」と呼ぶことはなかった。

 

 それが変わったのがこの時期だ。

 

 宇野維正『1998年の宇多田ヒカル』のなかに、こんなエピソードがある。

 

 工藤静香へのインタビューで、アイドルとしてデビューした彼女が、中島みゆきなどに提供された深い詞を歌うようになったころから、雑誌などに〈アーティスト工藤静香〉と書かれるようになった、と話している。

 

「──ああ、アーティストって言葉が今の流行りなんだろうな、くらいに思っていたんです」

(『1998年の宇多田ヒカル』p38)

 

 『夕やけニャンニャン』が終了したのが1987年8月31日。その同じ日に工藤静香は『禁断のテレパシー』でソロ歌手としてデビューしている。

 

 中島みゆきの作詞曲は1988年の『FU-JI-TSU』から。その後、『MUGO・ん…色っぽい』や『黄砂に吹かれて』などをヒットさせる。同世代の者なら誰でもそのメロディを口ずさむことができるほど売れた。

 

 90年代の初頭には彼女は実力派のシンガーだったと言っていい。アイドルを終わらせた『おニャン子』出身の彼女は、数年後にはアーティストと呼ばれていた。

 

 本人の自覚もないまま、雑誌のキャプションに使われていたという「アーティスト」ということばは、このころ街場のレンタル・スタジオの店員が使うくらいには浸透しはじめていた。

 

 そのことばを持ち出したのは、おそらく音楽をプロモーションする側だ。たとえば工藤静香のスタッフは雑誌をチェックして、彼女の歌の実力をしめすために「アーティスト」という表現を求めるのが仕事だった。

 

 歌をうたう若い女の子を売るためには、「アイドル」ということばからは離れるべきだと音楽業界の人々は考えた。

 

 1991年に坂井泉水が『ZARD』としてデビューしたのは、そのような時代だった。

 

 彼女が「坂井泉水」というひとりの歌手ではなく、『ZARD』というプロジェクト名義で現れたのは、いまから見れば象徴的だ。ただ、その音楽を生産し販売する人々にとっては当然の仕事だった。

 

 『ZARD』が、アイドル的なルックスの若い女の子がボーカルを務めるバンド構成だと解釈するなら、菊池桃子の『ラ・ムー』が先行している。

 

 しかし決定的な違いがあった。菊池桃子はすでにアイドルとして圧倒的な人気と認知をもっていた。彼女がそこから脱皮するために記者会見までひらいて売りだされたのが『ラ・ムー』だった。

 

 坂井泉水のことは『ZARD』としてデビューするまで、ほとんど誰も知らなかった。

 

 彼女が「スターダスト」という、(そのころの僕の個人的な印象からすると)若手できれいな女優さんをメインとするプロダクションに所属していて、デビュー前はモデルやレースクイーンの仕事もしていたと知るのは、少しあとになってからだった。

 

 『ZARD』のもうひとつの特徴はメディア露出をおさえたプロモーションだった。デビューの年こそライブも行い、翌年にはミュージックステーションにも出演しているが、それも数回のことで、93年以降のテレビ出演は、わずかなコメントVTRをのぞけば、まったくないと言っていい。

 

 はたしてそれがマーケティングによってはじめから計画されていたことなのかはわからない。(※2)

 

 ただはっきりしているのは音楽を売るのなら「アイドル」というレッテル張りだけは避けるべき、という判断だ。

 

 すでにバブル経済のピークは過ぎていたが、その余韻はまだ充分にあった。音楽業界には勢いがあり、CDはとても売れていた。

 

 CDさえ売れるなら、テレビに出ることもステージに立つ必要もない。ミュージックビデオの限定されたイメージが彼女の魅力的な姿を印象づけ、ドラマやCMのタイアップがその歌声を多くの人々にとどけた。カラオケが、その楽曲の魅力を友だちから仲間へ、家族へ、会社の同僚へ──と伝えていった。

 

 音楽事業者がみずから、CDを売るために直接テレビCMを打つようになったのもこの時期だ。

 

 結果的に露出を控えた坂井泉水のプロモーションは大成功した。彼女は神秘性をまとい、その澄んだ歌声の価値はどこまでも高まった。

 

 そして、主を喪ったいまでも、複製された美しい歌声が未来に向かって響きつづけている。

 

 

 

 

(※1)『三宅裕司のいかすバンド天国』TBSで放送された深夜番組『平成名物TV』の1コーナーである。1989年2月11日に始まり、1990年12月29日に多くのバンドを輩出して幕を閉じた。──Wikipediaより

 

(※2 )坂井泉水がテレビ出演やライブを避けたのは、もともと彼女の体調が不安定だったからとの証言もある。

没後10年 ZARD・坂井泉水との最後の会話 ビーイング創業者 長戸大幸 (2/6) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

 ──「テレビ出演やライブのスケジュール調整が困難でした。2004年に初めて行ったツアー、『What a beautiful moment Tour』の再追加公演ではフェスティバルホール(大阪)の開演直前に、体調不良でバックステージの化粧室から出られなくなりました。遅れてステージに現れ、1曲目の2コーラス目から歌っています」

 

 「オタク」ということばが使われるようになったのも80年代だった。

 

 1989年には「オタク」ということばが一般にも注目される。きっかけは「宮崎勤事件」だった。アニメや特撮などの大量のビデオテープを収集し、コミュニケーションも苦手としていた人物像から、彼は「オタク」と見なされ、それによって「オタク=偏っていて危ない人」という偏見が広まる。

 

 個人的には、最初に「オタク」ということばを見かけたのは80年代のアニメ雑誌だった。それは『機動戦士ガンダム』が発見され支持がひろがっていく時代であり、宮崎駿が描く美少女キャラ「ラナ」や「クラリス」に夢中になるオタクを「ロリコン」と揶揄しはじめた時代だった。(「萌え」ということばはまだ存在していなかった)

 

 SF的な面白さを追求したロボットアニメが大量に生産され、魔法少女アニメには男性のファンもついた。(『ミンキーモモ』には泣ける話がいくつかあった)

 

 もともと、アニメやSFファンの界隈で、相手を呼ぶ時の「YOU」にあたる二人称が、「あなた」でも「おまえ」でもなく、「オタク(お宅)」であったことから、──「オタクそのフィギュアどこで買ったの?」という感じで使われており──、その集団を「オタク」と呼ぶようになった。(諸説ある)

 

 「オタク」は、ロリコンや美少女マニアという関連から、熱心なアイドルファンをも含むようになり、のちには鉄道に夢中になる「鉄オタ」などに派生していく。やがて、何かを熱心に応援したり、収集したり、知識や情報を貪欲に求めつづけるマニアのことを指すことばになった。80年代には、博識だけれど、どこかコミュニケーションの苦手な人たちという印象があった。

 

 宮崎勤事件をきっかけに、「オタク」はヤバイ、社会にとって危険ではないか、というネガティブなイメージが増す。ロリコンや美少女マニアは異常、そんな視線がそそがれた。

 

 この時代には「ネクラ(根暗)」ということばもあり、陰気さやコミュニケーションの不具合、ノリの悪さは嫌われた。若者は「ネクラ」や「オタク」というレッテル貼りを恐れていた。

 

 あとから見れば、時代はバブル景気のピークへと駆け上がっていた。日本の株式市場の最高値は1989年末の大納会であり、地価のピークは1990~91年だとされる。(※1)

 

(ちなみに当時はまだ「バブル」ということばもなかった。ニュースでは「未曾有の好景気」なんて言っていた。「バブル」の文字は景気の後退がはっきりとしてきた1992年ころから目にするようになったと記憶している)

 

 なんとなく、騒がしくて、綺羅びやかで、軽薄な街、楽観的な空気。時代は明るかったが、軽さが好まれ、深刻さは「重い」と疎まれた。ともすれば何かに夢中になることはかっこ悪かった。

 

 1989年は森高千里が「17才」を歌ってヒットした年でもある。

 

 もともと彼女はバンド活動をしており、ドラムやベースギターを担当していた。1986年に「ポカリスエット」のイメージガール・コンテストに合格し、CMでデビューする。翌年、映画に出演し、その主題歌で歌手デビューをした。1988年、アルバムをリリースし、表題曲の「ミーハー」は彼女が作詞している。

 

 そして、往年のアイドル、南沙織の歌った「17才」をカバーしてブレイクする。同じく1989年にリリースしたアルバム『非実力派宣』のビジュアルはとても強い印象を残す。

 

 足が魅力的に見えるよう、極端に広がったミニスカート。白地に青いストライプに黄色いエッジという、清潔感はあるが派手な衣装。彼女は無機質なお人形さんのようなポーズで、真っ赤な背景に立っている。

 

 アイドルのセルフパロディとして先行した小泉今日子の影響もあるし、もちろんスタッフとの共同作業ではあるけれど、もともとミュージシャンとしての資質のある人が、ここまで派手にアイドルのパロディをやるのかと感心した。

 

 あえての「カッコ悪さ」を、「センスの良さ」として受け入れる余裕もあった。というか、そういった形でなければ、「アイドル」は注目されない時代になっていたのだ。

 

「オタク」は気持ち悪くて、「アイドル」はカッコ悪い。そんな気分が広がっていく。

 

 小泉今日子や森高千里の活躍があらわしているのは、アイドルの時代からアーティストの時代への変化だった。

 

(ちなみに菊池桃子が「ラ・ムー」を結成したのは1988年である)

 

 

 

(※1)[PDF]バブル期の地価高騰及び下落過程についての考察 - 国土交通省04.pdf