1998年の12月に宇多田ヒカルは「Automatic」でCDデビューしている。

 

 彼女をはじめて見たのは、「Automatic」のTVスポットだった。あの、腰を低くして踊る印象的なMVのCMバージョンだ。テレビ画面のなかでカワイイ女の子が大人びた歌をうたいながらカッコよく体をゆらしていた。

 

 カーキ色のペインターパンツに真っ赤なタートルネックのセーターで、黄色くほのかに浮かび上がったシングルソファのまえに存在する彼女のビジュアルは、多くの人の記憶に焼きついた。

 

 印象的な歌声にストリートファッションにカジュアルなダンス、そんな十代の女の子の登場は、ちょっと『SPEED』を思わせるところもあった。

 

 ただ、とにかく元気の良さが前面にでていた『SPEED』にたいして、宇多田ヒカルの歌声はすでに洗練されていて、どこか憂いを含んでいた。

 

 この歌の上手な女の子はだれだろう? とみんなが思った。

 

 「Automatic」が彼女の作詞作曲で、有名な歌手の娘さんで、まだ15歳だと知るのに、そんなに時間はかからなかった。

 

 あの独特のダンスは計算されたものかと思っていたが、のちに裏話で、撮影がはじまってから即興でつくりあげたものだと知った。

 

 いざ、ミュージックビデオを撮影をする段になって、セットの幅とカメラ位置の関係からあまり広い画をつくることができないと判明した。そのとき宇多田ヒカルの方から、「じゃ、このくらいしゃがめば映りますか」と確認しながら、その場にあわせて、音楽に身をゆだねる。

 

 そんな話を聞いても、粋だな、と思った。

 

 1999年3月にリリースしたファーストアルバム『First Love』は767万枚を売り上げ、オリコンによれば日本の音楽史上もっとも売れたCDアルバムとなっている。(※1)

 

 おそらくパッケージメディアとしての音楽CDがこの記録をぬりかえることはもうないだろう。

 

 この時代、携帯電話はまだ半分のひとが使っていない。若者はネットでメールやブラウザーくらいは使っていても、音楽やましてや映像なんてあつかえる容量がなかった。

 

 いましらべてみると1999年の2月にドコモの「iモード」がはじまっている。ようやくモバイルインターネットの兆しが現れたばかりの時代だ。「iPhone」の登場まではあと10年近く待たなければならない。

 

 宇多田ヒカルのセカンドシングル「Movin' on without you」の歌詞では、「──枕元のPHS 鳴るのを待っている」と、女子高生は通信料の安いPHSを持っていたのがわかって面白い。

 

 「Automatic」では、「──七回目のベルで 受話器を取った君」と、彼の家では固定電話が鳴っている。彼はまだケータイもPHSも持っていなかったのだ。ちょっとしたことだけれど時代の風景がよく描きだされている。

 

 宇多田ヒカルの歌を聴いていて感じるのは、「出会えた奇跡」なんて信じていないことだ。

 

 華原朋美の歌には出会いの喜びがあふれていた。

 

 小室哲哉の歌詞はさすがに「奇跡」ということばを避けているが、「──輝く白い恋の始まりは とてもはるか遠く昔のこと」(I BELIEVE)とその運命を強調し、「──いつからか自分を誇れるように なってきたのはきっと あなたに会えた夜から」(I'm proud)と、わたしがわたしになれたのは、あなたのおかげだと歌う。

 

 感動的だけれど、それは誰かに与えられたものだ。その歌詞が彼によって与えられたように。

 

 「Automatic」も恋の歌だ。でも「出会えた奇跡」は感じられない。

 

「──嫌なことがあった日も君に会うと全部フッ飛んじゃう」し、「──見つめられるだけでドキドキ止まらない」から、「──体中が熱くなって…ハラハラ隠せない」と歌う。

 

 そこにあるのは、はじまったばかりの「かわいい欲望」だ。

 

 それは誰かに与えられた奇跡でも、どこかで決められた運命でもなく、どうしようもなく自分の内から現れてくる感情なのだ。

 

 宇多田ヒカルにとっての「恋」は、DNAのスイッチが入ってしまう、あたりまえの出来事だ。そう「Automatic」=自動的に。

 

 宇多田ヒカルはじぶんの感情をみつめて、メロディをさがし、リズムをきざみ、ことばを生みだす。

 

 だから彼女は、「──おとぎ話みたいに ガラスのハイヒール 見つけてもダメ」だと歌うのだ。「Movin' on without you」=あなたなしでどんどん進もう。

 

 王子様のいなくなった世界で、立ちつくす女の子たちに、彼女はよりそい、そう語りかけた。

 

 宇多田ヒカルが音楽史に打ち立てた偉業は、奇跡でも、魔法でもない。

 

 でも、ほんとうに王子様はこの世界にいないの?

 

 

 ──『「SEASONS」季節はめぐる  浜崎あゆみ』につづく

 

 

(※1)【オリコン“平成セールス”ランキング】シングルはSMAP、アルバムは宇多田ヒカルが1位 “平成No.1”アーティスト別セールスのB’zからはコメント到着 | ORICON NEWS

 

 1998年は音楽業界にとって画期的な年だった。史上もっともCDが売れた年として記録される。

 

 ただ、裏返していえば、この年以降、音楽CDの売上は下降をはじめる。そのため、パッケージメディア衰退のはじまりの年として語られることにもなる。(※1)

 

 以前、書いたように雑誌の売り上げがもっとも多かったのは前年の1997年である。

 

 このころ何が起こっていたのかというと、97年には山一證券や拓殖銀行の破綻、98年には長銀、日債銀が破綻して、不良債権がクローズアップされる。

 

 1989年に株価がピークをむかえ、90年代にはいってから明確になったバブル崩壊が、ここにきて金融機関の破綻をまねき、いよいよ日本経済がヤバイんじゃないかと誰もが実感していた。

 

 97年にピークをむかえた雑誌の売上や、98年に史上最高を記録した音楽CDの売上を考えると、メディア業界のバブル崩壊が10年遅れてやってきたように見える。

 

 おそらく、若者人口(団塊ジュニア)の増加によって恩恵を受けたのがマンガ、雑誌、書籍という出版メディアと音楽業界だろうし、これ以降はじまった、パソコンの普及によるデジタル化、インターネット化の影響をジャブのように受けはじめるのも出版、音楽のメディア業界だった。

 

 金融危機による「不景気」のひとことでは語れない複雑な外部環境の変化が、このころ起こりはじめていた。

 

 企業の新規求人が激減し、第一次「就職氷河期」とよばれる世代が生まれるのもこの頃だ。(第二次は2008年のリーマンショック以降)

 

 ちなみに、青森出身のロックバンド『スーパーカー』がデビューしたのが1997年で、アルバム「スリーアウトチェンジ」のリリースが1998年だった。

 

 リリース時のインタビューで、インタビュワーがしきりに「もう親の世代よりも豊かになれない若者たち」という印象づけをおこなっていたのを覚えている。

 

(1977-79年生れのメンバーたちはみな二十歳前後だった)

 

 スーパーカーのメンバーたちに自覚がどこまであったのかはわからないけれど、CDが史上もっとも売れていた音楽業界であっても、先の見えない不安な時代の気分が漂っていた。

 

 そんなとき、魔法からさめてしまった女の子たちの目には、なにが映っていたのだろう。

 

 そこにいたのは──

 

 王子様の手をつかみそこねて、自力ではいあがった『モーニング娘。』

 

 世界の残酷さや自らの痛みをその手で詞にして歌う『浜崎あゆみ』

 

 そして、等身大のことばを使いながら、音楽の豊かな才能を輝かせていった『宇多田ヒカル』だった。

 

 

 ──「『Automatic』それは自動的に  宇多田ヒカル」につづく

 

 

 

 1998年、1月に「モーニングコーヒー」でモーニング娘。がメジャーデビュー、4月に「poker face」で浜崎あゆみが歌手デビュー、12月に「Automatic」で宇多田ヒカルがCDデビューしている。(椎名林檎とaikoのデビューもこの年である)

 

(※1)日本の音楽CDと有料音楽配信の売上動向(不破雷蔵) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

 音楽の王国で、魔法の技に磨きをかけていた王子様は、深夜のテレビ画面のバラエティーのなかに、彼女を見つけた。

 

 小室哲哉は1984年、3人組のエレクトロ・ロックバンド『TMネットワーク』としてデビューする。もともと作曲家指向の強かった彼が、はじめて楽曲を提供したのはアイドル歌手の岡田有希子だった。(※1)

 

 1986年、渡辺美里『My Revolution』のヒットで作曲家として注目され、その後、中山美穂、原田知世、松田聖子、沢口靖子、小泉今日子、宮沢りえ、観月ありさ、東京パフォーマンスドール、牧瀬里穂、中森明菜、──と80年代末から90年代はじめにかけてのそうそうたるアイドルたちに楽曲を提供している。

 

 ここまでは作曲家としての仕事で、小室哲哉が本格的に音楽プロデューサーとして動きはじめたのは1993年頃だとされる。

 

 この年、『trf』がデビューしている。

 

 名前の由来である「テツヤコムロ・レイヴ・ファクトリー」には、まるで工場のように楽曲を量産したい、との彼の考えが滲んでいるようだ。

 

 1994年、小室哲哉は『TMネットワーク』のプロジェクト終了を宣言する。プロデューサー活動を本格化させ、trfの「survival dAnce ~no no cry more~」が小室プロデュースとして初のミリオンを達成する。

 

 東京パフォーマンスドールのメンバーだった篠原涼子をソロデビューさせ、「恋しさとせつなさと心強さと」が翌年にかけてロングセールスを記録、結果的にダブルミリオンの200万枚を売り上げた。

 

 そんな1994年の秋、小室哲哉は深夜のテレビ番組のなかに、ひとりの女の子を見初める。彼は人を通じて彼女との出会いをセッティングし、そして新しい名前を与え、音楽という魔法をかけた。

 

 ──I’m proud

 いつからか自分を誇れるように

 なってきたのはきっと 

 あなたに会えた夜から

 

 華原朋美の最大のヒット曲「I’m proud」には、キツくて孤独なこの世界のなかで、やっとあなたに出会えた喜びがあふれている。

 

(「I’m proud」は名曲だと思う。正直、泣ける。そしてひと泣きした後に、作詞が小室哲哉だと知って、さらに衝撃を受けるのだ。彼は鏡を見ながら、少女の出会いと救いの物語をつむいでいる)

 

 1995年9月、「keep yourself alive」で華原朋美は歌手デビューする。10月にはセカンドシングル「I BELIEVE」をリリース、この曲で年末の新人賞を総なめにした。そして1996年3月「I'm proud」をリリース。先行した「I BELIEVE」とともに2作品つづけてミリオンを達成する。6月リリースのファーストアルバム『LOVE BRACE』はオリコン首位を獲得し、250万枚以上を売り上げた。

 

 深夜番組のなかで水着になり、ずぶ濡れになって泣いていた女の子は、ある夜、音楽という魔法の国の王子様に出会って、一年後にはミリオンセラーを連発するアーティストになっていた。

 

 目のまえで展開された、そんなおとぎ話の主人公を、人々は親しみをこめて「トモちゃん」と呼んだ。トモちゃんをスターダムに押し上げ、さらには彼女の王子様とその王国「小室ファミリー」の人気をささえたのは、トモちゃんへの共感と、あこがれと、おとぎ話のハッピーエンドを望む、たくさんの彼女に似た女の子たちだった。

 

 安室奈美恵のようにはカッコよく歌えない、SPEEDのようには元気よく踊れない、でも、もしかしたら、奇跡のような出会いがあって、だれかが魔法をかけてくれるなら、トモちゃんのようにステキな歌をうたえるかもしれない。わたしがそうなれないとしても、せめてトモちゃんだけは幸せになって欲しい──

 

 小室哲哉自身も、そういった視線に自覚的だったのではないかと思う。1996年(「I'm proud」の年だ)に刊行された村上龍『ラブ&ポップ』の単行本の帯に、小室哲哉がコメントをよせている。

 

「──この小説の主人公の〈裕美〉みたいな子がいるから、僕だっ て毎日、毎日、曲をつくっているんだよ。

〈裕美〉みたいな子が、もし、1人もいなくなっちゃうんだったら、もういつでもいいからやめたい。

そのくらい音楽を創る原動力になっているんです、彼女の、というか、あなたたちの感性は……。 小室哲哉 ──」

 

 『ラブ&ポップ』は渋谷の街を背景にした、援助交際をめぐる女子高生たちの物語で、主人公はトパースの指輪にひかれ、その輝きを手にするために、決意し、街をさまよい、さまざまな人々に出会い、傷つき、世界を見る。

 

 98年には『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明が実写映画化している。エヴァ劇場版の制作で疲れはてた庵野監督が、当時、普及しはじめていた家庭用デジタルビデオカメラを駆使して、渋谷でのロケーション撮影を敢行した。フットワークを活かした画面構成と軽快な編集は、じつに画期的で、90年代を代表する青春映画の傑作になっている。

 

(脱線ついでに書いておくと、『欅坂46』デビュー時のCDパッケージやMVにおけるアートワークで印象的な渋谷川や工事現場のビジュアルに庵野監督の『ラブ&ポップ』からの強い影響を見ることができる)

 

 「援助交際」は96年の流行語大賞にもノミネートされている。このころ新しく生まれたことばだった。そこには、これまでと違った、若者風俗や価値観が感じられ、大人には不穏に見えただろう。

 

 小室哲哉はこのとき38歳。彼は音楽で時代を切りひらき、ヒットチャートを自分の色に染めながら、女の子たちの新しい感性と変わらない夢に共感をつたえた。

 

 〈街中で居る場所なんてどこにもない〉女の子に、いつか〈自分を誇れるように〉なれる出会いがあるよ、と励ました。

 

 小室ブームのピークは1996年前後だといわれる。

 

 プロデュース作品の年間ヒットチャートを見てみると、

 

 1996年は2位にglobe「DEPARTURES」、8位に華原朋美「I'm proud 」、9位10位13位が安室奈美恵で「Don't wanna cry」「Chase the Chance」「You're my sunshine」、27位と38位にも華原朋美がいる。トップ10のうち、4曲が小室作品だ。(※2)

 

 1997年は1位が安室奈美恵「CAN YOU CELEBRATE?」、4位にglobe「FACE」、7位にTKファミリーの「YOU ARE THE ONE 」、13位に安室奈美恵「a walk in the park」、14位に華原朋美「Hate tell a lie」となっている。トップ10に3曲。

 

 これが1998年になるとトップ10には姿がない。最高が43位の、安室奈美恵「Dreaming I was dreaming」、48位にglobeの「wanna Be A Dreammaker」がいるだけだ。

 

 小室プロデュースの魔法は急速に衰えていった。(※3)

 

 1997年の終わりころ、どこかのホテルで小室哲哉と華原朋美が大喧嘩をして騒ぎになったという小さな記事を見た。そのときに、「いや、それはちょっとまずいよ、小室さん」と思った覚えがある。

 

 やがて、TKファミリーの影が薄れていき、トモちゃんのつらい噂だけがときどき聞こえてくるようになった。

 

 おとぎ話に、幸せな結末はおとずれなかった。

 

 王子様の魔法からさめてしまった女の子たちは去っていき、王国は静かに崩壊した。

 

 世界は残酷なのだとあらためて思い知った1998年──しかし、王子様を必要としない歌姫たちが現れる。

 

 

 

(※1)宇野維正『1998年の宇多田ヒカル』p46

 

(※2)1996年間シングルヒット曲(平成8年)【PRiVATE LiFE】年間ランキング

 

(※3)『1998年の宇多田ヒカル』の宇野維正によれば、「小室ブームの終焉」は、小室哲哉を中心とした音楽ビジネスが拡大しすぎて、資本や権利関係が複雑化し、制御不能に陷って自滅を招いたという。そこに安室奈美恵の1年間の産休があり、同じくバンド出身のプロデューサー「つんく」の台頭があり、なによりも約5年間にわたってチャートを独占しつづけたことによる大衆の「飽き」と「反動」があったのだとしている。そして新たな歌姫たちの時代がやってくる。

(詳しくは『1998年の宇多田ヒカル』p74「小室ブームの終焉」)

 

 

※『ラブ&ポップ』単行本帯 1996年

 

 いぜん書いたように「アーティスト」が同性のファンからもささえられるものだとすれば、たしかに『SPEED』にはそういった印象がある。

 

 主なファンは同世代を中心とする男女双方だっただろう。ストリートなファッションでヒップホップなダンスを踊る子どもたちに、同世代はカッコよさを、それ以上の大人たちは新鮮さを感じた。

 

 では、音楽業界が遠ざけた「アイドル」ということばに含まれていた〈異性としての魅力〉への視線はどこへむかったのか。

 

 それが「グラビア・アイドル」だった。

 

 もともと歌手以外にもアイドルという呼称はさまざまに使われた。スポーツ界にもアイドルはいたし、映画界にももちろんいた。

 

 80年代の薬師丸ひろ子や原田知世はアイドル女優といわれ、、斉藤由貴、南野陽子、浅香唯などがつづいた。(ここにあげた彼女たちはみんな歌でも活躍している)

 

 CMから人気がでた宮沢りえ、観月ありさ、牧瀬里穂は当時3Mといわれた。(この三人はいずれも90年代に小室哲哉が提供した楽曲がある)

 

 その女の子がはじめに多くの人から認知されたメディアが、その後のイメージを印象づける。活躍の足場をどこに置くか、記憶に残る代表作は何かで、漠然と、「歌手」「女優」「バラエティータレント」と区分けされていく。

 

(バラエティーアイドル=「バラドル」ということばは80年代末の井森美幸、山瀬まみ等の活躍から使われはじめた)

 

 90年代、音楽業界は右肩上がりで、市場はどんどん拡大している。

 

 もちろん100万枚をこえるような売上をつくるには周到な戦略と時の運が必要だった。しかしそこに「アイドル」という戦略は、この時代、なかった。

 

 ほんらいタレントのマネジメントをおこなう芸能事務所は、コンテンツの製作はしない。(いまは大手でクリエイティブ部門を持つ事務所はめずらしくないけれども)

 

 音楽会社のおこなう楽曲制作やそのプロモーションには多くのコストとノウハウが必要だし、映画の製作には多大なな資本とスタッフと設備が必要とされた。

 

 90年代前半は、まだ「Windows95」さえない。デジタル化、IT化によってコンテンツ制作やプロモーションにかかるコストが低廉化できるようになったのは2000年をすぎてからだ。

 

 ある女の子が歌でデビューしようとするなら、その才能が試される。芸能事務所のオーディションを受けるか、曲をつくれるのならデモテープをレコード会社に送る。

 

 女優でデビューしようとするなら、舞台演劇からはじめるか、やはり芸能事務所に所属することになる。

 

 映画やドラマのキャスティングはほとんどオープンではない。台本をもとに役柄によって指名される。無名の若い女の子にチャンスが有るとすれば、それほど重要ではないけれども、印象的な女の子を使いたい、あるいは、こんごのキャスティングの幅をひろげるために新鮮な女の子を試したい、そんな時だ。

 

 公募をかけると手間とコストがかかるので、制作側はなじみのプロダクションに声をかけて、おすすめの女の子たちを紹介してもらう。そこから可能性を感じる数人、ときには数十人に会い、絞り込むことになる。

 

 そこで芸能事務所の得意、不得意があらわれる。人気俳優やタレントをかかえる事務所であるなら、つねに映画やテレビの現場に出入りしている。キャスティングでどんな人物が必要とされているか情報を得やすい。

 

 新番組のためにたくさんの女の子を必要としているらしいとか、ドラマで印象的なちょい役をさがしているとか、耳にすると、担当者に、面接による絞り込みなのか、オーディションをやるのか、確認することができる。そして持ち歩いてるプロフィール・カタログから、求められている年齢やキャラクターのタレントを提案する。

 

 しかし小さなプロダクション、あるいはできたばかりの新興のプロダクションは情報を得ることすら難しい。

 

 そんな彼らは雑誌のグラビアというルートを見つけだした。

 

 もともと山口百恵だって、松田聖子だって、中森明菜だって、水着のグラビアはやっていた。ただ当時は歌をうたっているアイドルが水着になったのであって、水着のグラビアがアイドルとしてのデビューの場ではなかった。

 

 90年代になってその様相が変化した。

 

 音楽業界は歌い手の魅力に歌唱力やダンスのスキルを求めたが、水着は必要としなくなっていた。

 

 映画やドラマに女優として登場するのは、あいかわらず狭き門だった。

 

 しかし、男の子たちは魅力的な水着の女の子をいつだって求めている。

 

 団塊ジュニアのピークである1973年生まれが思春期をむかえ、成人になろうとしている時代だ。青年向けのマンガ雑誌がつぎつぎと創刊され、すべての雑誌の創刊点数も増えつづけていた。(※1)

 

 まだ、歌やダンスのスキルはない、演技の経験もない、でも女の子としての魅力はじゅうぶんにある。そんな未知の可能性にあふれた可愛い女の子がはじめてメディアに現れる場所として、週刊誌やマンガ雑誌のグラビアページは最適だった。

 

 それは新人タレントの「プロフィール・カタログ」としても機能した。

 

 80年代末、のちにグラビアアイドルを多く抱えて業績を伸ばすことになる芸能事務所がいくつか創業している。そこから堀江しのぶは生まれ、1994年に雛形あきこがグラビアデビューしている。

 

 そのころ、グラビアアイドルにはテレビ出演のチャンスも多くあった。若者が見る深夜番組には、とにかくたくさんの若くて可愛い女の子を集めて、お笑い芸人とからませるバラエティーがあり、それは若手芸人の腕だめしの場であり、無名の女の子たちが認知を広げる場でもあった。

 

 そんなグラビアアイドルとして水着の仕事をしながら、テレビやCM、雑誌のさまざまなオーディションを受けつつ、深夜の番組でバラエティーをこなす多くの女の子のなかに、「遠峰ありさ」という女の子がいた。

 

 1995年に改名して歌手デビューし、翌1996年にはCDを100万枚以上売り上げることになる。

 

 それが「華原朋美」である。

 

 

 ──〈王子様の魔法「TKプロデュース」小室哲哉と華原朋美〉につづく

 

 

(※1)雑誌の総販売額でいえば1997年にピークをむかえているが[日本の出版販売額]、出版点数では2005年がピークのようだ[雑誌の販売間隔別出版点数動向をグラフ化してみる]。

 

 

 彼女たちをはじめて見たのは1996年のデビュー曲「Body & Soul」のテレビCMだった。

 

 画面のなかで溌剌と元気いっぱいに踊り歌う彼女たちは、まだ、子どもにしか見えなかった。しかし、ダンスも歌唱も完成されていて、とても驚いた。いまでもその映像と歌声を思いだすことができる。

 

 このとき最年少の島袋寛子は小学校の6年生、グループの平均年齢は13.5歳だった。

 

 沖縄アクターズスクールの牧野アンナによれば、「(島袋)ヒロコは4歳のころからあんな歌いかた」だったという。(※1)

 

 彼女たちは子供のころからデキすぎたことから、とにかく飽きさせないように、パフォーマンスを舐めないようにさせることが必要だったと話している。

 

 1995年の春、新垣仁絵、上原多香子、今井絵理子、島袋寛子の4人がピックアップされて、デビューの誘いを受ける。その年の11月には、テレビ番組『THE夜もヒッパレ』に出演し、グループ名の『SPEED』も番組内の公募で決定した。(Wikipediaによる)

 

 SPEEDは今井絵理子、島袋寛子のツインボーカル、新垣仁絵、上原多香子のダンス&コーラスをベースにして、ヒップホップ的なストリートファッションとダンスを取り入れたパフォーマンスで成功した。

 

 同世代の子どもたちはそのカッコよさにあこがれ、大人たちは歌とダンスの完成度に衝撃を受けた。

 

 小学生がボーカルをつとめる沖縄出身のグループということで『フィンガー5』のことを連想した人もいただろう。そう考えれば、ショウビジネスの世界で小学生がステージに立つのも、それぼど馴染みのないことではなかった。

 

 フィンガー5には子どもの可愛らしさがあった。しかし、SPEEDは大人顔負けのパフォーマンスが魅力だった。

 

 沖縄アクターズスクールの訓練が彼女たちを育て、安室奈美恵とMAXの成功がSPEEDを生みだした。

 

 パフォーマンスが大人びているとはいえ、素にもどればただの子どもである。

 

 災害や事件、金融危機で暗くなりがちだった90年代後半の世相のなかで、子どもたちが明るく元気に踊り歌うのは、こんなにも人をほっとさせるものなのかと、彼女たちを見て感じた大人も多かったと思う。

 

 子どもたちが今を楽しみ、未来を信じることができるなら、それこそが希望だ。

 

 1998年には『アンドロメディア』という映画に4人で主演している。

 

 テレビ番組から誕生して、人気がでると映画に主演というコースは「アイドル」のキャリアのようにも見える。けれどもSPEEDをアイドルと言うのは、どうもしっくりこない。

 

 デビュー時からすでに歌も踊りも彼女たちなりのスタイルが完成されていたのと、音楽を売る側ではもう「アイドル」という肩書は使わないようになっていたからだろう。

 

 彼女たちのころから「ダンス&ボーカル・グループ」という肩書があったように思う。そのことばがいつから使われはじめたか定かでないけれど、SPEEDの先輩であるMAXや、さらに先行する、『TRF』や『ZOO』などがその先駆けだろうか。

 

 『TRF』は1993年デビュー。名前の由来は「テツヤ・コムロ・レイヴ・ファクトリー」でボーカル、ダンサー、DJによって構成されている。

 

 『ZOO』は1990年デビュー。のちに『EXILE』を結成するHIROがダンサーとして所属。最大のヒット曲「Choo Choo TRAIN」に見られるように、ダンサーがボーカルよりも前に出てパフォーマンスをするのが画期的だったとされる。HIROはこの経験をもとに、もう一度、〈バック〉ダンサーではなく、〈フロント〉ダンサーでパフォーマンスをする「ダンス&ボーカル・グループ」をめざし、2001年『EXILE』へと至る。

 

 マイケル・ジャクソンに代表されるMTV文化になじみ、ユーロビートなどのダンス音楽を経て、ブレイクダンスやラップなどのヒップホップ文化が浸透しはじめていた。

 

 1994年には、小沢健二&スチャダラパーの「今夜はブギーバック」とEAST END×YURIの「DA.YO.NE」(ダ・ヨ・ネ)がリリースされている。

 

 「歌謡曲」ということばは耳にしなくなり、「J-POP」ということばが使われるようになっていた。

 

 SPEEDはダンス&ボーカル・グループであり、J-POPアーティストとされた。

 

 では、この時代、「アイドル」はどこにいたのだろう?

 

 

 

(SPEEDは1999年10月に解散を発表し、2000年3月に活動を終了した。結成から5年ほどの活動期間だった。その後はメンバーそれぞれにソロ活動をし、何度か再結成をしている)

 

 

 

(※1)安室奈美恵は歩いてるだけで歌と踊りの才能を見いだされた【牧野アンナが語る】(TBSラジオ「アフター6ジャンクション」音声 21分12秒あたり)