西暦2000年。SPEEDが解散し、モーニング娘。が黄金期をむかえていた年、ある地方都市で女の子三人組のアイドルが誕生する。彼女たちは自らを『ぱふゅ~む』と名づけた。

 

 広島に開校したアクターズスクールの一期生だった、西脇綾香(あ~ちゃん)、樫野有香(かしゆか)ともう一人の女の子でグループを組み「ぱふゅ~む」というスクール内ユニットとして活動する。翌年にメンバーの脱退を受けて、同じスクール一期生だった大本彩乃(のっち)が加入した。(Wikipediaより)

 

 2002年にはパッパラー河合のプロデュースでインディーズCDデビューしている。当初はベタベタのアイドル歌謡だった。広島県のイベントなどで多く活動していたため、ローカルアイドルとして認識されていた。

 

 この「ローカルアイドル」ということばも、このころから耳にするようになった。

 

 Wikipediaで「ローカルアイドル」の項目を見ると、2000年に活動をはじめているグループとして、青森の『りんご娘』と広島の『Perfume』の記載がある。

 

(ちなみに新潟での『Negicco』の活動開始は2003年である)

 

 安室奈美恵の沖縄アクターズスクール時代などを考えると、ローカルで芸能活動をする例は以前からあった。ただ、その多くは将来の東京進出をめざしたものだったし、音楽でデビューするハードルも高かった。

 

 それが少し変わりはじめたのが2000年以降だと思われる。デジタル技術の進歩によって、個人がコンピューターで音楽をつくり、CDを手焼きすることもできるようになった。インターネットの普及は地方からの情報発信を可能にすると期待された。

 

 経済学者の田中秀臣によれば、地方アイドルの出現は若者の地方回帰を背景としたものであり「デフレカルチャーの構造化の一面」だとしている。(Wikipedia「ローカルアイドル」より)

 

 安室奈美恵やSPEEDの成功をうけて、地方にアクターズスクールが生まれ、東京のメジャーな芸能関係者が関心をもつようになった。

 

 そして『モーニング娘。』の活躍が、「アイドル」ということばを復権させた。

 

 そこには未熟さや未完成さを感じさせるニュアンスもふくまれているが、それ以上に元気で明るい華やかさがある。

 

「アイドルとは『魅力』が『実力』を凌駕している存在」(※1)

 

 そう言ったのは、HIPHOPアーティストのライムスター宇多丸だ。彼が現在までつづくアイドルソング時評「マブ論」を月刊誌『BUBUKA』ではじめたのも2000年だった。

 

 広島でローカルアイドルとして活動していた『ぱひゅ~む』は、2003年、芸能事務所『アミューズ』の新人タレント育成プロジェクトにピックアップされ、上京する。

 

 このときユニット名もアルファベットの『Perfume』とした。

 

 彼女たちは、ほかの育成ユニットのメンバーと同じ女子寮に住み、合同のライブやイベントを行っていた。寮内の一室にはWebカメラが設置され、24時間インターネット生配信がされていたという。(※2)

 

 まだ、Ustreamもツイッターも存在しない時期としては、画期的な試みだといえる。(それだけに受け手側も限定されたと推測できるが)

 

 のちに未来的な詞を刻むテクノポップを歌舞し、いまやプロジェクションマッピングなどの最新テクノロジーをエンタテインメント・ショーに落とし込む依代(よりしろ)として活躍しているのを思うと、初期からそのDNAは吹き込まれていたように見えるから不思議だ。

 

 ただ、彼女たちの活動は順風満帆とはいかなかった。

 

 『Perfume』は2003年8月にインディーズ・シングル『スウィートドーナッツ』をリリース。このときサウンドプロデューサーとしてはじめて中田ヤスタカと出会っている。

 

 2004年に2枚のインディーズシングルを発表。

 

 2005年に『リニアモーターガール』でメジャーデビューするが、けっして売り上げは芳しいものではなかった。

 

 売上枚数は、以下のように推移する。(※2)

 

 『リニアモーターガール』 2630枚(2005年9月)

 『コンピューターシティ』 3841枚(2006年1月)

 『エレクトロ・ワールド』 1986枚(2006年6月)

 

  2004年11月、ライムスター宇多丸は『マブ論』のなかで、Perfumeの『ビタミンドロップ』(2004年9月リリース)を紹介し、称賛している。

 

 彼はPerfumeを「周辺領域」の存在とした。この「周辺」とはモーニング娘。を擁するハロー!プロジェクトをアイドル音楽の「中心」と位置づけたときの「周辺」なのだが、その「中心」であるハロプロの勢力が、このころ衰えてきたと感じ、再び「アイドル(ソング)冬の時代」に突入したのではないかと書いている

 

 2005年12月には「ハロプロ帝国の本格的な凋落」を語り、Perfumeの「リニアモーターガール」を評して、「アイドルのたたずまいを保ちながら、楽曲的にも高いレベルをキープしているほとんど奇跡的な存在」だとし、「頼むからこの調子で頑張ってくれ」と祈りにも似たエールを送っている。

 

 Perfumeのメジャーデビュー後の売り上げを見れば、彼が祈りたくなる気持ちもよくわかる。

 

 ライムスター宇多丸はハロプロへの愛ゆえに歯がゆさを覚え、王者であったはずのモーニング娘。の衰退が、アイドルシーンそのものを萎縮させるのではないかという焦燥から苦しみ祈っている。

 

 じっさいにアミューズの育成ユニットもPerfumeしか生き残らなかった。ほかにもアイドル的なアプローチをした多くのチャレンジャーたちが姿を消した。(※3)

 

 Perfumeを「最後の希望」と語り、「ハロプロ帝国の凋落」を嘆いた、2005年12月。じつはこのときこそ、ハロプロ帝国をも凌駕する巨大な存在への萌芽が生れていた。が、その話はもうすこし先になる。

 

 このころ外部環境はどうだったのだろう。

 

 1998年には史上最高の売上を誇った音楽CDである。しかし、6075億円あった売り上げは、2005年には4222億円まで落ち込んでいる。じつに33%の縮小で、市場が3分の2になってしまったことになる。

 

(日本の音楽CDと有料音楽配信の売上動向(不破雷蔵) 

 

 上のデータでは、2005年から有料音楽配信の売り上げも計上されている。この多くは携帯電話の着メロのデータだと思われるが、iTunesストアが日本でサービスを開始したのもこの年だ。あのYouTubeもこの年に設立されている。

 

(ちなみにツイッターは2006年にサービスを開始、Ustreamは2007年に設立)

 

 そして、2005年が日本のショウビジネス界にとって特別な年だったことを、後のわれわれは知っている。しかし、そのころはまだ、下がりつづける音楽CDの売り上げに困惑し、的はずれな悪者さがしに右往左往するばかりで、いかに適応するかの答えを持っているものはどこにもいなかった。

 

 

 ──「辺境とアンダーグラウンド【2】 『地下アイドル』とは?」につづく

 

 

 

(※1)「ライムスター宇多丸『アイドル幻想』変容の時代。」マガジンハウス「BRUTUS」2010年6月1日号p84

 

(※2)北川昌弘『山口百恵→AKB48 ア・イ・ド・ル論』 (宝島社新書) p162-163

 

(※3)同上『山口百恵→AKB48 ア・イ・ド・ル論』p159 

 

 

 

 

 

 90年代の半ばになると歌番組が復活しつつあった。

 

 ダウンタウンや石橋貴明、中居正広がMCをつとめ、バラエティー色を増した歌番組でも、モーニング娘。は活躍した。ASAYANのなかで課題や困難にさらされ、鍛えられてきた彼女たちは、個性豊かでバラエティー対応力にも優れていた。

 

 やがて彼女たちはさまざまなテレビ番組やCMに進出し、2000年には冠番組『ハロー!モーニング。』(テレビ東京・2000年~2007年)がスタートする。番組のなかでコントにも挑戦しているし、写真集では水着も披露し、主演の映画もある。

 

 モーニング娘。は「テレビが作った最後の音楽系テレビアイドル」だと『山口百恵→AKB48 ア・イ・ド・ル論』 の著者、北川昌弘は言っている。

 

 モーニング娘。の成功はドキュメントバラエティという手法にくわえて、集まったメンバーが個性的で多様であったことだという。見た目の身長もばらばら、年齢も加護亜依が12歳で加入したとき、最年長の中澤裕子は27歳だった。ヤンキーっぽい子から清楚な子まで、身長の小さな子から大きな子まで、とにかくテレビ画面のなかで判別がつきやすく、覚えやすかった。(上記著書参考)

 

 北川昌弘の著書で興味深いのは、モーニング娘。を誕生させた当時のマネージャー和田薫へのインタビューだ。彼が意識していたのは『SPEED』だったという。

 

「──いちばん意識していたのが『SPEED』でしたね。彼女たちはきちんとレッスンを受けて、やってきてるので。こちらは素人でテレビの企画でたまたま運良くタレントになれたんですよ。『SPEED』に追いつくにはどうすればいいんだろうってよく考えてましたね。(…)女の子が4人であんなに踊れて歌えてカッコイイなって思った時に、モーニング娘。があそこまで踊れなくても踊ってカッコイイって思われるためにどうすればいいって事を考える…」(※1)

 

 のちに二期メンバーの矢口真里が自身MCをつとめる『火曜The NIGHT』(AbemaTV)のなかで、自分はSPEEDにあこがれてオーディションを受けたのだと話していた。それを聞いたゲストの古川未鈴(でんぱ組.inc)も、「わかるー、私も!」と嬉しそうに同意していた。

 

 (で、未鈴ちゃんは歳いくつだ? とつっこまれるのだが)

 

 SPEEDは1995年に活動を開始し、2000年に解散している。人気まっただなかでの突然の解散宣言と活動期間の短さは、多くの人にキャンディーズ(1972年~78年)を想起させた。

 

 矢口真里は1983年生まれ、SPEEDの上原多香子と同い年だ。この世代の子どもたちにSPEEDが与えた影響は大きい。そして当時の大人たちが衝撃を受けた歌とダンスの完成されたスキルが、その後、モーニング娘。からハロー!プロジェクトへと浸透している「歌とダンスへの意識の高さ」につながっていると考えると面白い。

 

 ちなみに宇多田ヒカルも1983年1月19日生まれ、矢口真里は1月20日生まれなので、一日違いの同い年である。(Wikipediaより)

 

 ふたりがデビューするまえに、テレビのなかに見ていた景色は、意外と似ていたのかもしれない。

 

 モーニング娘。のデビュー曲「愛の種」はキャンディーズを意識してつくられたという話がある。(※2)

 

 しかし「LOVEマシーン」の成功によって方向づけられた、ダンサフルで楽しい曲調とユニークだけど真似したくなる振りつけは、ピンクレディーに近いものだと思う。

 

 とくに派生ユニット『ミニモニ』は子どもたちに大人気で、ファッションや玩具にまで商品展開された。70年代、下敷きや筆箱、アニメにまでなったピンクレディーの子ども人気を彷彿とさせる。ミニモニも『おはスタ』内でアニメになっている。

 

 つんく♂は70年代に小学生時代、80年代に青春時代を送っている。

 

 キャンディーズやピンクレディーが活躍し、山口百恵や松田聖子がテレビで歌声を響かせていた時代だ。そして彼は、菊池桃子やおニャン子クラブのファンだった。

 

 つんく♂は音楽的才能とアイドル的記憶をモーニング娘。にそそぎ込み、ハロー!プロジェクトに訓練を施した。ダサかっこいいと言われたハロプロのパフォーマンスと、規律を感じさせるプロフェッショナリズムは、つんく♂プロデュースがもたらした文化だ。

 

 20世紀の終わりから21世紀のはじまりに破格の活躍をした音楽プロデューサーを3人あげるとするなら、秋元康、小室哲哉、つんく♂で異論はないだろう。そのなかで、みずからのプロデュース相手と結婚しなかったのはつんく♂だけだ。

 

 彼は「王子様」ではなく「教師」だったのだ。

 

 2018年、モーニング娘。は20周年をむかえる。

 

 変化の激しいショウビジネスの世界で、メンバー・チェンジをくりかえしながらも、20年間、ひとつのアイドルグループが活動をつづけているのは偉業である。

 

 ここでもう一度、先ほどのことばを引用したい。

 

「──モーニング娘。はテレビが作った最後の音楽系テレビアイドルだ」

 

 そう書いたあと北川昌弘はつづける。

 

「──だが、いまは結果的にはテレビアイドルからライブアイドルに転換して継続できているのだ」(※3)

 

 1998年をピークに音楽CDの売り上げは下降をはじめ、情報のデジタル化とインターネットの拡大が世界の風景をかえていくことになる。

 

 

 ──「辺境とアンダーグラウンド【1】 Perfumeの苦闘」につづく

 

 

(※1)北川昌弘『山口百恵→AKB48 ア・イ・ド・ル論』 (宝島社新書) p137

 

(※2)【意外に知られてない】モーニング娘。のデビューの経緯 - NAVER まとめ

 

(※3)『山口百恵→AKB48 ア・イ・ド・ル論』p190

 

(ちなみに1999年はインターネット環境が整いはじめた時期だ。ADSLがサービスを開始し、ネット掲示板「2ちゃんねる」が起ち上がった年である)

 

 

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 90年代の前期から中期にかけては、のちに「アイドル冬の時代」と呼ばれる。

 1988年に菊池桃子が『ラ・ムー』を結成して脱アイドルを模索し、89年に森高千里が「非実力派宣言」をリリースしたあたりではもう、「アイドル」の退潮は明らかだった。

 その後、アーティスト・プロジェクト『ZARD』や実力派「安室奈美恵」の台頭があり、小室哲哉プロデュースのブームを経て、浜崎あゆみと宇多田ヒカルが現れた。時を同じくして、別方向から『モーニング娘。』が登場する。

 この時期、人気アイドルは誰だったかと問われたら、まっさきに頭に浮かぶのは「広末涼子」だ。

 1995年にクレアラシルのCMでデビュー。このとき彼女は15歳。96年にNTTドコモのポケベルのCMが話題になり広く認知される。(女子高生がポケベルを使っていた時代だ!)

 そして1997年4月、「MajiでKoiする5秒前」で歌手デビューし、約60万枚のヒットを記録した。

 この曲は竹内まりやによる作詞・作曲で、いまでも現役アイドルに歌われることの多い名曲である。「アイドルの歌は売れない」といわれていた時代に、真正面から正統派のアイドルソングをつくりあげたのは見事だ。

(竹内まりや自身、アイドルとアーティストのはざまで苦悩した経験があることを思うと感慨深い)

 ただ、広末涼子が「歌手」かと問われると、いや彼女はどちらかといえば俳優でしょう、と答える。

 CMから人気を得たアイドルとしては、宮沢りえ、観月ありさ、牧瀬里穂の後継にあたるし、歌う俳優としては、薬師丸ひろ子、原田知世、斉藤由貴の流れのなかにある。

 それでもアイドルソングだって売れるのだと示した広末涼子の存在は大きい。

 「MajiでKoiする5秒前」の一年後、モー娘。がメジャーデビューした同じ1998年に、ASAYANから「鈴木あみ」が登場する。

 彼女は小室哲哉プロデュースによってデビューする。しかし篠原涼子のデビュー時とはちがい、小室哲哉が鈴木あみと同じ舞台で演奏することはなかった。

 小室哲哉は後になって、鈴木あみの場合は自分が前面に出ることによる悪影響を避けようとした、と語っている。

 彼は人々の感じている小室ブランドの凋落に自覚的だったし、鈴木あみのもっていたアイドル性を活かそうとしたのだろう。アイドルソングだって売れることを広末涼子が証明していた。

 1998年7月に鈴木あみは「love the island」でCDデビュー、30万枚近くをセールスする。1999年1月には写真集『amigo』を発売し、20万部をこえる売り上げを記録する。3月に発売したファーストアルバム『SA』は、約180万枚を売り上げた。

 写真集の発売日には握手を求めて約5000人が集まったという。(Wikipediaより)

 「歌」と「写真集」と「握手会」、まさしくアイドルである。

 そんな鈴木あみとモーニング娘。は1999年6月に、ASAYANの番組内で、鈴木あみの7thシングル「BE TOGETHER」と、モーニング娘。の6thシングル「ふるさと」が、7月14日に同日発売となり、同じ番組からデビューしたアーティスト同士の直接対決だと煽られている。

 上の文の多くはWikipediaを参考にしているのだけれど、ここでもやはり「アーティスト」ということばが使われている。この時点でも音楽業界側からは「アイドル」ということばは持ち出さなかったのだろう。

 結果は「BE TOGETHER」がオリコン週間1位だったのに対し、「ふるさと」が同5位だった。その反省と大胆な方針転換から、7枚目のシングルとして「LOVEマシーン」が生まれることになったのだから面白い。

 ここで個人的な経験を書くと、ある日、僕の部屋に遊びにきた友人が、「いやあ、こんどモー娘。に入る後藤真希ってすごいね」と言うので、「へえ、そうなんだ」と生返事をすると、「え、おまえASAYAN見てないの?」と驚かれた。

 そのころ住んでいたアパートは、小田急線の新百合ケ丘駅に近い崖の斜面に立っていて、距離的にも角度的にもテレビ東京の入らない場所だった。

 僕はASAYANを見ていなかった。そもそも東京ローカルの番組なので、全国ではASAYANを見ないままモーニング娘。を知った人のほうが多いのではないか。

 モー娘。や鈴木あみを誕生させたのはASAYANだけれども、彼女たちの活躍の場はテレビ上にいくつも用意されていた。

 フジテレビにはダウンタウン司会の『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(1994年~2012年)があり、TBSには石橋貴明と中居正広がMCをつとめる『うたばん』(1996年~2010年)があり、テレビ朝日にはすでに老舗となっていた『ミュージックステーション』(1986年~現在)と毎週ゴールデンタイムに歌番組が放送されていた。

 80年代に隆盛を極めた『ザ・ベストテン』(1978年~1989年)の終了が象徴するように、80年代末にはテレビから歌番組がつぎつぎと消えていった。しかし90年代の半ばになると歌番組が復活しつつあった。

 これはCD売り上げの好調な伸びを背景として、音楽業界の企業自身がスポンサーになったり、CMを投入する資本力を得たことが大きい。

 なんども言うけれど、1998年が音楽CDのもっとも売れた年である。97年から98年の世相は金融危機や不景気に揺らいでいた。しかし音楽業界だけはこの世の春を謳歌していた。

 そう考えると、この時代に突然現れて不思議な輝きを放っている「LOVEマシーン」のつきぬけた陽気さと楽しさには、ちゃんと理由があるようにも感じる。

 モーニング娘。はブレイクし、のちに国民的アイドルとまでいわれるようになる。2000年にはTBS『シドニーオリンピック』中継の応援団に就任し、テーマソング「I WISH」を歌っている。

 「アイドル冬の時代」はモーニング娘。が終わらせたと言われる。

 ただ、『山口百恵→AKB48 ア・イ・ド・ル論』 の著者、北川昌弘はこんなふうに書いている。

「──今から思えば、モーニング娘。は音楽業界では続いていたアイドル冬の時代にたまたま例外的に起こった奇跡だった(…)」として、「──しかし、モーニング娘。が売れていた時代にアイドル音楽全体も盛り上がったということではない。(…)その時期の僕の印象は、アイドル総体よりもモーニング娘。の方が大きいのではないかと思えたほど。それほどの大ブレイクだったのだ」(※1)


 ──「つんく♂は無慈悲な歌の教師 『モーニング娘。』の成功」につづく




(※1)北川昌弘『山口百恵→AKB48 ア・イ・ド・ル論』 (宝島社新書) p121

 

 

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 モーニング娘。の誕生にテレビは欠かせない。

 

 70年代には、山口百恵から小泉今日子にいたるアイドルを生みだした『スター誕生!』があり、80年代には、おニャン子クラブをかたちつくった『夕やけニャンニャン』があった。そして90年代半ば、テレビ東京のオーディション番組『ASAYAN』(1995年~2001年)から『モーニング娘。』は生まれる。

 

 もともと彼女たちは落ちこぼれだった。

 

 1997年の4月から9月にかけて、ASAYAN内で「シャ乱Q 女性ロックボーカリストオーディション」が行われ、平家みちよがグランプリを獲得する。その最終選考で落選したメンバーから、中澤裕子・石黒彩・飯田圭織・安倍なつみ・福田明日香がピックアップされる。5人組ユニットを結成して「CDを5日間で5万枚売り切ることができたらメジャーデビュー」というミッションが与えられる。

 

 つんく♂は彼女たちのユニットを『モーニング娘。』と名づけた。

 

 これがモーニング娘。およびハロー!プロジェクトの現在までつづく物語のはじまりである。

 

(ユニット名が決定した9月14日が、モーニング娘。の公式誕生日とされている。Wikipediaより)

 

 ここで注目したいのは彼女たちのオーディションのタイトルのどこにも「アイドル」ということばがないことだ。現在のハロープロジェクトは歌とダンスを見事に訓練するアイドルのパワーハウスとして認識されている。どうしてそうなったのか?

 

 90年代の状況は、歌を売るなら「アイドル」というレッテルは避けるべき、というのが生産者側の常識だった。

 

 ただ、ここで当時のテレビ状況を見まわすと、すこし先行して歌で成功しているテレビ番組発のグループがあった。『ポケットビスケッツ』だ。

 

 お笑いコンビ「ウッチャンナンチャン」の番組から生まれた、ポケットビスケッツ(内村光良、千秋、ウド鈴木)とブラックビスケッツ(南原清隆、ビビアン・スー、天野ひろゆき)による音楽的な成功は、つねに対決と解散の危機をあたえつづけるドキュメントバラエティによる物語化と、企画ものでありながらもしっかりとした音楽的なクオリティーの高さ、とくに千秋の歌唱力とビビアン・スーの歌の魅力に支えられていた。

 

 ポケビのCDデビューは1996年。彼らの「女性ボーカルと男性2人による楽器サポート」というスタイルは、先行するドリカム(1989年デビュー)やglobe(1995年デビュー)のパロディーだった。

 

 もともと小室哲哉が音楽プロデューサーとして篠原涼子を「恋しさと せつなさと 心強さと」(1994年)でデビューさせるさいに、「若い女の子がひとりで歌っていると、どうしてもアイドルのように見えてしまう」のを避けるため、みずからキーボードを携えて同じステージに立ち、篠原涼子のボーカルに小室哲哉自身がコーラスを重ねることで、アーティスト性を演出したことに由来する。

 

 ウンナンのコントから生まれ、小室プロデュースのパロディとしてはじまったポケビとブラビだが、それぞれに100万枚以上のCD売り上げを記録し、1998年にはNHK紅白歌合戦にも出場した。

 

 興味深いのは、こんかいWikipediaをみて知ったのだけれど、ポケットビスケッツも、もともとは「落ちこぼれ」だったということだ。

 

 番組内のコントにからませた企画として、「3人組の女性ユニット」のCDデビュー話があり、そのオーディションで千秋だけが落選した。ショックを受け泣き出した彼女をはげますために、内村からとっさに出たアドリブ発言によって、対抗ユニットとしてのポケットビスケッツは誕生したという。

 

 観衆は弱いもの、苦しむものに感情移入し、その成功に自分を重ねて感動する。成長物語は挫折からはじまり、困難は大きいほど達成の喜びも大きい。

 

 「落ちこぼれ」だったモーニング娘。に、番組は「5日間で5万枚の手売り」という課題を与えた。彼女たちはその困難を乗り越える。

 

 1998年1月、つんく♂プロデュースの「モーニングコーヒー」でメジャーデビューを果たした。

 

(ちなみに手売りされたインディーズのCD「愛の種」につんく♂はかかわっていない)

 

 その後も、レコーディングやダンスレッスン、歌割りパートの争奪といった課題や、メンバーの追加や卒業というさまざまな困難が彼女たちには与えられ、それを苦しみながらも乗り越えていく姿を番組が映しだすことで、モーニング娘。の人気はどんどん高まっていった。

 

 1998年の5月に追加メンバーの保田圭・矢口真里・市井紗耶香が参加した2ndシングル「サマーナイトタウン」を発売。

 

 同年9月には3rdシングル「抱いてHOLD ON ME!」でオリコン1位を獲得。

 

 その年のレコード大賞で、最優秀新人賞を受賞。NHKの紅白歌合戦にも出場した。(ポケビ、ブラピと同じ年だ)

 

 結成から一年あまりで紅白に出場している。このスピード感はすごい。いかに盛り上がっていたのかが推察される。

 

(ちなみに浜崎あゆみが紅白に出場したのは翌年の1999年だった)

 

 1999年8月に3期メンバーとしてたった一人、後藤真希が加入する。そして9月9日、あの「LOVEマシーン」が発売される。

 

 同時代にはじめてこの曲にふれた人はみんな「なんだこれ!?」と思った。

 

 ちょっと古くさいようなディスコ調の曲に、サイケデリックなビジュアル。コミカルだけれど、やりきることによってカッコよさも感じられるダンス。決めポーズは『サタデー・ナイト・フィーバー』のジョン・トラボルタだ。

 

 歌詞には「不景気」や「就職」「インサイダー」という世相を反映したことばも顔をだし、「ニッポンの未来は WOW… 世界もうらやむ 恋をしようじゃないか」と歌いあげ、おまけに「モーニング娘。も…」とみずからの名まで刻みつけている。

 

 J-POPの歌詞に「ニッポン」なんて国名がストレートに入ってくるのに意表をつかれたし、その文脈も、日本の未来を世界がうらやんでいるのか、それとも、日本の未来はよくわかんないけど、とりあえず世界がうらやむような恋をしようぜ、と言っているのか、あいまいだけれど絶妙な感触を生みだしている。

 

 このころは1997年の金融危機にはじまる、不良債権、就職氷河期ということばがメディアにあふれていた時代で、底の見えない危機感と不安感がただよっていた。

 

 そんなときに、快活な女の子たちが自信たっぷりに明るく歌って踊ってみせたのである。

 

 「LOVEマシーン」はグループ初のミリオンを達成。「──みんなも社長さんも」カラオケで歌い。子どもたちは振りつけを真似した。

 

 前年に紅白に出場しているとはいえ、世に広く『モーニング娘。』を印象づけたのはこの一曲だろう。モーニング娘。最大のヒット曲であると同時に、この時代を代表する楽曲になった。

 

 落ちこぼれだった女の子たちが、時代を代表するアーティストになった──

 

 ん? アーティスト? 

 

 そういえば『モー娘。』はいつから「アイドル」と言われるようになったのだろう?

 

 ──「『アイドル冬の時代』の終わり?」につづく

 

 

 浜崎あゆみの歌手デビューの経緯は、華原朋美によく似ている。

 

 歌手デビューは1998年の4月、宇多田ヒカルより半年ほど早い。19歳だった。ただ、彼女は歌手になるまえからタレントとして活動している。

 

 小学生の頃に、地元福岡でスカウトされ、ポスターのモデルなどをやったあと、上京して1993年からドラマなどの出演や、グラビアもやっていたようだ。

 

 ようだ──と、あいまいに書くのは、僕がそういったことを知ったのは、彼女が歌手としてブレイクを果たし、「女子高生のカリスマ」などと言われ、メディアで語られるようになったあとだったから。

 

 彼女について、とくに関心を持っていなくても、エイベックスの創業者であるMax松浦との出会いや、ボイストレーニングのためのニューヨーク留学など、浜崎あゆみの歌手デビューまでのエピソードを、どこかで耳にしたことがあるだろう。

 

 それは小室哲哉と華原朋美の反復のようだ。

 

 でも、浜崎あゆみは、華原朋美ではない。

 

 1995年、橋口亮輔監督の映画『渚のシンドバット』に浜崎あゆみは出演している。

 

 僕はこの映画をタイムリーには見ていなくて、橋口監督の『ハッシュ!』(2001年)を観たあと、いい映画を撮る監督さんだなと思い、さかのぼって観た。レンタルビデオ屋さんの『渚のシンドバット』のパッケージには「歌手になる前のあゆが出演!」と手書きのポップがはりつけてあったのをよく覚えている。1995年の彼女はまだ誰も知らない新人女優だった。

 

 この映画の浜崎あゆみは、青春映画のトリックスターとして、心に傷を抱えたヒロインとして、かなり存在感がある。その後、野島伸司脚本の『未成年』や山田洋次監督の『学校Ⅱ』にも出演している。そう考えると、映画やドラマの関係者のなかで、面白い新人女優が現れたな、と感じた人は多かったのではないか。

 

 しかし、彼女は演技の世界を離れる。

 

 事務所の移籍や、ニューヨークでのレッスンを経て、1998年4月「poker face」でデビュー。作詞は浜崎あゆみ自身だ。

 

 1998年は安室奈美恵が産休のため不在だった。華原朋美のシンデレラストーリーはすでに幻滅の海に沈んでいた。

 

 あとからみれば、そのあこがれと共感の喪失による女の子たちの心の穴に、浜崎あゆみはすっと収まったように見える。

 

 そのタイミングは、どこまでが計算で、どこまでが偶然なのかはわからない。

 

 浜崎あゆみが事務所を移籍し、留学やレッスンを経て歌手デビューするまでに一年は準備をしている。プロデューサーの松浦氏も、「ソロの女性歌手は売れない」「スポンサー受けする顔じゃない」といわれて意地になっていたようだ。彼は当時、三十代前半でエイベックスを軌道にのせるために失敗は許されなかった。(※1)

 

 松浦氏のブログ「ayuとの出会い」をみると、デビュー曲の「poker face」はCDTV(カウントダウンTV)のテーマソングになっているし、3枚目の「Trust」は化粧品会社のCMソング、4枚目の「For My Dear...」は森永製菓のCMソングで、浜崎あゆみ自身が出演もしている。

 

 タイアップ・プロモーションとしてはできるかぎりのことをやったと思われる。

 

 そして1999年1月、アルバム『A Song for ××』をリリース。150万枚を売り上げた。

 

「──浜崎あゆみをスターダムに押し上げたのは、ちょうど彼女がデビューした1998年から小室哲哉プロデュース作品が失速していく中、浜崎あゆみのプロモーションに全精力を注ぎ込んだエイベックスだった(…)」(宇野維正『1998年の宇多田ヒカル』p195)

 

 浜崎あゆみは「女子高生のカリスマ」といわれた。それはファッションリーダーとしての安室奈美恵と、シンデレラストーリーとしての華原朋美を、やはり反復しているように見える。

 

 しかし、その二人と浜崎あゆみには決定的な違いがある。「作詞」だ。彼女は与えられたことばではなく、自ら生みだしたことばを歌った。

 

 そのことばは、時とともに「出会いへの期待」から内なる「葛藤」や「痛み」へと色合いを変えていく。

 

 ファーストシングル「poker face」で「──あなたの愛が欲しいよ」と歌い、サードシングル「Trust」では「──赤い糸なんて信じてなかった」女の子が、「──あなたに見つけてもらえた瞬間(とき) あの日から強くなれる気がしてた 自分を誇ることができるから」と歌う。

 

 この詞を見ると華原朋美の「I’m proud」の影響がとても大きい。しかし曲を聴くと印象が違う。「I’m proud」のような多幸感はなく、「Trust」から感じられるのは切実さや、うっすらと漂う不安だ。

 

 つづく「For My Dear...」では「──夢に見た幸せはつかむまでが一番いい 手に入れてしまえば今度は失う怖さ襲うから」とデビューして間もないのに、失う不安を訴え、「──誰もがキズを持って いるから時に優しさがしみてきて とても痛くって泣き出しそうになったりする」

 

 彼女の描く「傷」にとっては、やさしさすら「痛み」にかわってしまう。

 

 そして「A song for XX」、ミリオンを達成したアルバムの表題ともなっているこの曲は、A(あゆ)がXX(ママ)へと宛てた歌詞だとされている。

 

「──居場所がなかった 見つからなかった 未来に期待できるのかわからずに…」とドラマチックに歌いあげる浜崎あゆみの声は、多くの人の耳にとどき強い印象を残した。

 

 映画『渚のシンドバット』でひっそりと、心に傷を持つ少女を演じた女の子は、4年後には女子高生のカリスマと呼ばれるミリオンアーティストになっていた。

 

 当時、女子高生だった女性のブログに、浜崎あゆみへの視線と彼女たちの風景がこんなふうに書かれている。(※2)

 

「──当時は派手グループの女子も地味グループの女子も、少なからずあゆは自分の代弁者だと感じることができた存在だったからだ。派手女子たちは主に、ギャルの教祖としての華やかな見た目に大いに憧れた。地味女子たちは主に、自分自身の内面の葛藤や喪失というトラウマと向き合うような唯一無二の歌詞に強く惹かれた。そして見た目と歌詞を両立させたその存在こそが、グループを超えた女子の付き合いをひっそりと生み出していた(…)」

 

 浜崎あゆみは同時代を生きる女の子たちの代弁者であり、時代を代表するシンガーになっていた。

 

 2001年から2003年までレコード大賞を3年連続で受賞している。彼女の活躍がもっとも華々しかったのはこのころだろうか。彼女の熱心なウォッチャーでなかった僕には正直よくわからない。

 

 ただ、どの紅白だったかは忘れたけれど、大晦日のNHKの画面のなかで、彼女の歌う「SEASONS」(2000年)を聴いて、ああ、この人はほんとうに歌がうまいな、と感動したのを覚えている。

 

 彼女の物語やパーソナリティになんの関心もない人々の心をも揺さぶる力を、その歌声は持っていた。

 

 しかし、いつのころからか彼女に逆風が吹きはじめる。二度の結婚や怪我、悪評──

 

 ここでふと思うのは、インターネットの普及率だ。2002年に50%をこえている。2ちゃんねるも1999年から動いている。

 

 彼女のプロデュースチームにとって『浜崎あゆみ』の名を時代に刻み込むために必要だと考えたレコード大賞だが、その三年連続受賞という戦略は、この時代、あこがれや共感を呼ぶものだったのかどうか。

 

 インターネット・コミュニケーションが普及し、メディアの状況はだれもが経験したことのない変化をはじめていた。権威に疑いの目が注がれ、資本による強力なプロモーションは「ゴリ押し」とも呼ばれるようになる。

 

 批判は以前からあった、しかしインターネットはターゲットへの集中と情報の拡散スピードを加速させていく。マスコミとの相乗効果で良くも悪くも過剰さを増す。

 

 それでも『1998年の宇多田ヒカル』のなかで宇野維正は、彼女を晩年のマイケル・ジャクソンになぞらえつつ、浜崎あゆみは不当に叩かれすぎているのではないかとの記述をしている。(※3)

 

 時代を代表する存在になった者は、すこし時代が進んだとき、そのまま古い時代に取り残されることがある。ちょっと古いものが、いちばん古臭い。

 

 もしかしたら彼女の苦しみはそんなところにあるのかもしれない。でも、時代がさらに進めば、古さを増したものが、また別の輝きや新鮮さをもって、新たな時代に浮上することがある。

 

 ある詩人は言った。「詩人の仕事のひとつは、ゴミ箱に捨てられてしまったようなことばを、みつけて、とりだして、ていねいに磨きあげ、ふたたび新鮮なものとして人々のまえに差しだすことだ」

 

 ──いつの日か言いたい言葉だけ言えそうで

   歌をうたいつづけて行くのかもしれない

              「For My Dear...」

 

 彼女は詞を書く。そして歌いつづけている。

 

 季節はめぐる。

 

 

 

(※1)ayuとの出会い|松浦勝人オフィシャルブログ「仕事が遊びで遊びが仕事」Powered by Ameba

 

(※2)わたしたちが浜崎あゆみに共感できなくなった理由 - 音楽だいすきクラブ

 

(※3)宇野維正『1998年の宇多田ヒカル』(新潮新書)

   第6章 浜崎あゆみは負けない