自分でも整理するために、これまでの「目次」とこれからの「予定」をここで書いてみます。(2019年10月22日時点)

 

manufactured girls chronicle

マニファクチャード・ガールズ・クロニクル

 

 [目次]

 

1.マニファクチャード・ガールズ・クロニクル はじまりに 

 ブログを書くきっかけと、「manufactured girls chronicle」の意味について。

 

2.「アイドル」と「アーティスト」のはざまで  ──東京女子流 TIF 2017

 ブログの入り口として、2017年の東京アイドルフェスティバルでのパフォーマンスと「アーティスト宣言」について。

 

 

 ■ 1970年代──

 

3.「アイドル」って、なんだっけ? ──1970年代の山口百恵とキャンディーズ 

 

 

 ■ 1980年代──

 

4.松田聖子の登場 ──80年代のはじまり 

 

5.山口百恵と松田聖子  それぞれの選択 

 

6.「おニャン子クラブ」 その可能性と限界 

 

7.1986年の岡田有希子 

 

8.80年代の終わり【1】 中森明菜と小泉今日子 

 

9.80年代の終わり【2】「オタク」「バブル」「森高千里」

 

 

 ■ 1990年代──

 

10.「アーティスト」ってなんだっけ? ──坂井泉水『ZARD』

 

11. アーティストは自作自演? 

 

12. 90年代 安室奈美恵の登場 

 

13. ダンス・ダンス・ダンス 安室奈美恵の発見 

 

14. 神の子どもたちはみな踊る 『SPEED』の衝撃 

 

15. 彼女が水着に着がえたら ──CMとグラビアと深夜番組と

 

16. 王子様の魔法「TKプロデュース」 小室哲哉と華原朋美 

 

17. 「1998年」音楽CD、史上最高の売上 ──宇多田とあゆとモーニング娘。 

 

18. 「Automatic」それは自動的に  宇多田ヒカルの偉業 

 

19. 「SEASONS」季節はめぐる 浜崎あゆみへの共感 

 

20. 落ちこぼれたちの逆襲  『モーニング娘。』誕生 

 

21. 「アイドル冬の時代」の終わり? 広末涼子と鈴木亜美とモーニング娘。 

 

22. つんく♂は無慈悲な歌の教師 『モーニング娘。』の成功 

 

 

 ■ 2000年代──

 

23. 辺境とアンダーグラウンド【1】 Perfumeの苦闘 

 

24. 辺境とアンダーグラウンド【2】 「地下アイドル」とは? 

 

25. 辺境とアンダーグラウンド【3】 ローカルとしての木村カエラ そして「ポリリズム」の奇跡 

 

26. 辺境とアンダーグラウンド【4】 「秋葉原」都市の重力 

 

27. 辺境とアンダーグラウンド【5】『秋葉原48』始動 

 

 

 

 これからの「予定」(あくまで目安です) 2019年10月22日時点

 

  • 起業としての「AKB48」【1】 三人の若者
  • 起業としての「AKB48」【2】 CMとテレビ
  • 起業としての「AKB48」【3】 CDの衰退
  • 起業としての「AKB48」【4】 青春の場
  • 成長する「AKB48」 前田敦子は14歳だった
  • 「帝国の逆襲」と「新たなる希望」たち【1】AKB48とアイドリング!!!
  • 「帝国の逆襲」と「新たなる希望」たち【2】挫折からの反転攻勢
  • 「帝国の逆襲」と「新たなる希望」たち【3】総選挙から戦国時代へ
  • 2010年「アイドル戦国時代」【1】 戦うアイドル
  • 2010年「アイドル戦国時代」【2】 群雄割拠
  • アイドルとアーティストのはざまで【1】東京女子流
  • アイドルとアーティストのはざまで【2】二度の武道館
  • アイドルとアーティストのはざまで【3】アーティスト宣言
  • アイドルとアーティストのはざまで【4】もうひとつの理由
  • アイドルとアーティストのはざまで【5】 再会
  • アイドルとアーティストのはざまで【6】アイドル性その光と影
  • アイドルとアーティストのはざまで【7】 再建のサマー
  • アイドルとアーティストのはざまで【8】 TIF2016
  • アイドルとアーティストのはざまで【9】 深海
  • アイドルとアーティストのはざまで【10】おんなじキモチ
  • アイドルとアーティストのはざまで【11】TIF2017

 

■ マニファクチャード・ガールズ・クロニクル 2018

 2018年の渡邉幸愛|mikio EG|note

 

 2018年のアイドルと『SUPER☆GiRLS』についてはnoteで並行してアップロードしようと試みたのだけれど、ブログを日々更新するのが精一杯で、一章アップしただけで滞ってしまった…

 

 2018年については、こんご手を付けられればnoteで──、どちらにしろブログでつづけて更新するつもりです。

 

 これ、毎日やってもあとひと月かかりそうだな…

 

 コツコツやります^^;

 

 

「ショークラブをプロがやったらどうなるか、面白いと思わない?」秋元康は言った。「女の子もたくさん50人くらいいてさ」

 

 秋元康、窪田康志、芝幸太郎の三人が食事をしているとき、そんな話になった。芝幸太郎が言う。

 

「50人にするんだったら、48人にしてください」

 

 芝は48という数字が好きで、すでに『office48』という会社を経営していた。

 

「ショークラブだったら、うちの会社に戸賀崎という10年現場を経験している、うってつけの人間がいますから、ぜひやりましょう」

 

 その場で芝は戸賀崎に電話をかける。

 

「明日から物件探しに行ってきてくれ」

 

 ──それが2005年の7月のことだったと、戸賀崎氏は話している。(※1)

 

 彼のブログを見ると、いま確認できるもっとも古いものは2005年7月14日の「内見」というタイトルだ。(※2)

 

「今日は例の秋葉原48劇場 の候補地のとあるビルに面接に行って来ました。まだ、契約はしていないのですが、多分ここでやることになるでしょう!」

 

 秋元氏の会食と電話が7月のことだとすれば、わずか二週間で秋葉原の物件にめどがついたことになる。このスピード感には驚く。

 

 秋元氏は同じ『QuickJapan vol.87』のインタビューで、「はじめは青山とか渋谷で拠点となる場所を探していたんですけど、たまたまその時に秋葉原が盛り上がっていて、街の熱、『地熱』があったんですね。たまたまスタッフがドン・キホーテの八階に今の場所を見つけてきて──」と話している。(※3)

 

 別の本『48現象』には、──メンバー募集と並行して物件探しも行われたが、予想以上に難航。スタッフがドン・キホーテのメイド喫茶に行ったとき、使われていない上りのエスカレーターがあることに気づいて、不動産では取り扱っていなかったドンキ8Fを発見。賃貸契約をしたのが9月。──とある。(※4)

 

 ステージ前に残ることになる2本の大きな柱はじゃまだったが、不完全な方が人は安心するし、工夫もする。そして秋葉原には「地熱」もあった。

 

 当初はアルファベットではなく「秋葉原48」と戸賀崎氏はブログに記述している。8月25日には「あきはばら48」のロゴデザイン案を上げて、閲覧者に意見を求めている。内容の真面目さや、語りかけるような文体は、のちに劇場支配人となり、ヲタとの交流を通じでAKB48のスタイルをつくりだしていった姿勢を、すでに感じさせる。

 

 11月16日はまだ「秋葉原48劇場」という記述で、21日にはじめて「AKB48」という名前がでてくる。この間に正式な決定がなされたのだろう。(その経緯については触れられていない)(※5) 

 

 12月8日、「AKB48劇場」の幕が開く。公演タイトルは「PARTYが始まるよ」だった。しかし初日の入場者は72人、関係者を除いた一般の観客は7人しかいなかった。(Wikipedia「AKB48の歴史」より)

 

 当初は集客に苦労し、「250人が定員の劇場に十数人。一番ひどい時はひとケタ(!)ということもあった──」(※6)

 

 AKB48のメンバー自身が道行く人に声をかけチラシを配る。

 

 当時、広報だった西山恭子と支配人の戸賀崎智信は振り返ってこう話している。(※7)

 

 西山「──『上でショーをやってるんで観に来てください!』って文字通り『客引き』してました。でも、『秋元康がプロデュースってことは、おニャン子みたいな感じでしょ?』って、まず先入観を持たれちゃう」

 

 戸ケ崎「──ひとことで言うと、観るまでは『誰もなんにも期待してなかった』ってことですね(笑)」

 

 秋元康が新しくはじめた仕事に、多くの人は興味をもっていなかった。

 

 当時の彼にたいする視線は、大物ではあるけれど、最前線にいるトレンドメーカーではなく、〈むかし〉いろいろなヒット曲や番組を流行らせた人。つまり、スゴロクでいえば、すでにゴールを決めた「あがりの成功者」だった。

 

 ビッグネームなので、企業や官庁に企画書をもっていくとき「秋元康」の名前が使えればありがたいことだっただろう。でも、消費者にとっては、なにか新しいことを期待させる名前ではなかった。

 

 個人的な記憶をたどると、このころ秋元康を見かけた番組に、NHK・BS『おーい、ニッポン 今日はとことん◯◯県』の「県のうた」がある。

 

 1998年から2004年ころにあった企画で、衛星放送(BS)の普及をはかるNHKが、毎回、ある県を特集して、地域の人や食、伝統芸能などを現地から生放送していた。不定期ではあるけれど月に一度くらい、日曜日の朝から夜までの長時間番組だった。

 

 その番組で彼は、特集された「県」にまつわる歌をプロデュースしていた。作曲を後藤次利が担当し、作詞はもちろん秋元康だった。

 

 歌手のオーディションも彼がおこなった。各県のNHK放送局に自ら足を運んで、一般参加者のなかから歌い手を選んだ。

 

 歌詞の内容は、気候風土にちなんだものだけでなく、オーディションで選んだ「人」によりそったものもあったようだ。

 

 「おーい、ニッポン」との出会い: 室山哲也公式ブログ 2001.3.3(※8)

 

 1998年から2004年といえば、モー娘。の勃興から失速の時期である。小室哲哉のブームが終わり、つんく♂の勢いが衰えはじめたとき、「つぎは誰だろう」と人々はあたりを見まわしていた。

 

 中田ヤスタカはまだPerfumeと出会ったばかりで、ヒャダインもニコニコ動画も存在していなかった。(ニコ動は2006年開始)

 

 そんなころ、秋元康は「地上」よりもさらに上の「衛星」にいた。雲の上とはいえ普及期にあった衛星放送(BS)もまた、ある種の辺境だった。彼は日本のローカルをめぐり、一般参加者をオーディションし、地域の人々のために歌をつくった。

 

 秋元康といえば、つんく♂、小室哲哉より前に名を成した、すでに「偉人」のようなプロデューサーだった。見方によっては「おニャン子クラブ」と「なんてったってアイドル」で80年代のアイドルブームを終わらせた張本人だと見なされていた。

 

 「偉人」といえば聞こえはいいが、ようは「時代遅れの権威」である。お役所企画の名義貸しや、どこかの審査員でもやって、悠々自適の暮らしをしているのだろう、と多くの人が(もちろん僕もふくめて)思っていた。というよりも関心さえなかった。

 

 みんな忘れているかもしれないが、このころの彼は「終わった人」だと思われていたのだ。

 

 そんな歴史上の人物が、まさか、いま最前線で進行しているゲームに常識を変えるような影響をあたえるとは、だれも考えてはいなかった。

 

 彼のはじめた新しい仕事は、秋葉原というローカルに密着し、地下アイドルと呼ばれた。それが『AKB48』だった。

 

 

 ──「起業としての『AKB48』【1】 三人の若者」につづく

 

『AKB48ヒストリー』p2

 

(※1)『QuickJapan vol.87』(2009年12月発行) 戸ケ崎智信・西山恭子インタビュー p82

 

(※2)内見 | AKB48 Official Blog ~1830mから~ Powered by Ameba(2005-07-14 00:11:59)

 

(※3)『QuickJapan vol.87』秋元康ロングインタビュー p74

 

(※4)『48現象 極限アイドルプロジェクトAKB48の真実』(2007年11月 ワニブックス)p35

 

(※5)2005年11月のブログ|AKB48 Official Blog ~1830mから 

 

(※6)『AKB48ヒストリー ~研究生公式教本~ 』(2011年 週刊プレイボーイ編集部)p18 

 

(※7)『QuickJapan vol.87』インタビュー p84

 

(※8)──「おーい、ニッポン」には、「川の流れのように」などの作品で知られる作詞家の秋元康さんが作る「県の歌」というコーナーがある。その県在住の人からオーディションで選ばれた1グループが、秋元さんが作った「県の歌」を番組の中で歌うという企画である。

 去年7月、神戸放送局が放送した「おーい、ニッポン~兵庫県」のとき、秋元さんはおびただしい参加者の中から浜田さんという小学校の先生を選んだ──

「おーい、ニッポン」との出会い2001.3.3: 室山哲也公式ブログ

 

 

 

 

 

 

 東京における都市開発の歴史について、60年代は「官」による『新宿』の時代、80年代は「民」による『渋谷』の時代、そして00年代は「個」による『秋葉原』の時代──だと森川嘉一郎はいう。(『趣都の誕生~萌える都市アキハバラ』第5章、参照※1)

 

 高度成長期の資本の蓄積と国家的プロジェクトによって西新宿の高層ビル群は生まれた。硬質で権威的な高層建築がスカイラインをつくり、そのお膝元に湿ったネオンの輝きがつらなる歌舞伎町がある。新宿は清潔で明るい未来と、混沌として複雑な未来の双方を抱えていた。

 

 やがて低成長の時代がおとずれる。80年代は民間商業資本によるコマーシャリスティックな都市開発がはじまる。西武による渋谷の公園通りパルコなどがその例だ。渋谷、原宿、六本木は、おしゃれの象徴だった。

 

 「高度消費社会」ということばも聞こえるようになり、大衆の購買力を喚起するためにテーマパークのような街づくりがおこなわれていく。地方ではそれがショッピングモールという巨大で隔離された空間として現れる。

 

 欅坂46に「渋谷からPARCOが消えた日」という曲がある。ゆいちゃんずの「渋谷川」や「サイレントマジョリティ」における映画『ラブ&ポップ』からのアートワークへの引用も含めて、クリエイティブ・チームに都市とカルチャーの関係、その歴史に自覚的な人物がいるのだろう。

 

 彼女たちはポストAKB48を担うために、秋葉原のプレ・カルチャーとしての渋谷を暗示する(広末涼子が「──渋谷はちょっと苦手~」と歌ったあの90年代半ばの渋谷だ)。そして「ガラスを割れ!」のMVでは崔洋一監督の『花のあすか組!』(1988年公開)を引用しているように見える。こちらは80年代に現れたヤンキー・カルチャーが生みだした物語だ。高度成長期が終わったあとの廃工場で、ローカルな存在であるヤンキーを装い踊る欅坂46を見て、妄想するのは、いずれ彼女たちはショッピングモールでゾンビのように踊りだすのではないか、あるいは朽ち果てた銀座の百貨店で鎮魂歌をうたうのか──、とても興味深いし、ドキドキする、しかし、それで彼女たちの未来をつくることになるのかな。(と思っていたら、「黒い羊」でゴーストになってしまった…)

 

 ちょっと先走りすぎて、話がそれた。

 

 1990年をピークとするバブル経済が崩壊し、長くつづく不況が「高度消費社会」の勢いを奪う。「おいしい生活」にあこがれていた人々は、職を失うことに怯えて無駄遣いをしなくなった。

 

 ただ、自らの趣味の領域には身を削ってでも潤沢な資金を投入する人々もいた。彼らは「オタク」と呼ばれていた。彼らの消費行動がひとつの都市の様相を変えていく。

 

 00年代に個人の趣味が姿を現したような都市、『秋葉原』が注目されはじめた。

 

 2000年は経済的に見ると、すこし持ち直した時期だった。1997-98年の金融危機で底を打った株価も、上昇に転じ、アメリカ発のインターネット関連企業への投資ブームが、日本へも波及する。「楽天」や「サイバーエージェント」、堀江貴文の「オン・ザ・エッジ」(のちに「ライブドア」に改名)が株式を上場したのが、この2000年だ。

 

 しかし、アメリカで、ITベンチャー企業の株価が下落をはじめると、日本の株価もあっさりと下降に転じた。2000年3月におきた「光通信」による架空の携帯電話契約による不正は、根拠の薄い投機的資金によって再び生みだされたIT株価「バブル」崩壊の象徴とされた。

 

 「ITバブル」は一瞬にして崩れ去ったけれど、新たな技術革新が世界を変えつつあるのは、だれもが感じていた。

 

 この年の流行語は「IT革命」と慎吾ママの「おっはー」だった。

 

 そのころ秋葉原には、アニメやゲームの美少女キャラクターがあふれ、歩行者天国にはコスプレイヤーがいた。電気店のソフト販売イベントには、グラビアや歌手のアイドルもやってきた。

 

 興味深い動きとして、店員のコスプレを売りとした喫茶店が現れはじめ、その流れから、2001年にメイド喫茶の元祖とされる『Cure Maid Cafe(キュアメイドカフェ)』が開店する。(※2)

 

 もともとコスプレのブームにのって、アニメやゲームのキャラクターに生身の女の子を押し込んでいたものを、カフェという舞台装置にあわせて、メイド・キャラを演じさせることで、エンタテインメント飲食店としての持続性を得る。

 

 店ではメイド店員とゲームやチェキの撮影をおこなうことができ、CDデビューをはたすメイドたちもいた。

 

 2005年にデビューした「完全メイド宣言」は、秋葉原のメイド喫茶『@ほぉ~むカフェ』で働くアイドル・メイド(通称メイドル)9人によって結成された音楽ユニットである。

 

 彼女たちはまさに「会いにいけるアイドル」だった。

 

 同時に2005年は『電車男』のヒットした年だった。ネット掲示板「2ちゃんねる」への書き込みがもとになった物語で、2004年3月から投稿されたものが、10月には書籍化し、2005年6月には映画が公開された。7月からはテレビドラマも放映されている。

 

 インターネットの人口普及率が70%をこえ、アキバ系カルチャーが一般にも浸透した。

 

 2005年は、Perfumeがメジャーデビューをした年である。しかし「リニアモーターガール」の売り上げは2630枚だった。モーニング娘。では前年の安倍なつみにつづき飯田圭織が卒業し、矢口真里が突然の脱退をした。

 

 『マブ論』のライムスター宇多丸は「アイドル冬の時代」への再突入を嘆いていた。

 

 そんなころ、戸賀崎智信という人物が東京の街を歩きまわっていた。

 

「じつは、いろんな街で物件を探したんですけど、まあ断られつづけたんですよ。そうこうするうちに、当時、立ち入り禁止だった秋葉原のドン・キホーテ八階の存在を知ったんです──」(※3)

 

 戸賀崎智信は、のちに「AKB48劇場」の支配人となる人物である。

 

 

 ──「辺境とアンダーグラウンド【5】『秋葉原48』始動」につづく

 

 

(※1)森川嘉一郎『趣都の誕生~萌える都市アキハバラ』幻冬舎2003年

 

(※2)秋葉原におけるメイド喫茶・コスプレ喫茶の歴史

 

(※3)『QuickJapan vol.87』(2009年12月発行) p82

 

 おまけ^^

 

 

 

 秋葉原に「アイドル」はいつからいたのか?

 

 北川昌弘の『アイドル論』によれば、「──すでにグラビアアイドルたちはソフマップや石丸SOFTの会場でDVDを購入した人向けにトーク&握手会を開催していた。00年頃からこのスタイルは存在し…」、水着の撮影会や、ツーショットチェキの撮影、チェキにサインを入れてもらうこともできた、という。(※1)

 

 さかのぼれば、80年代アイドル、あるいはもっと以前から歌手のプロモーション活動として、イベントやレコード店でのサイン会や握手会はあった。

 

 ただ、秋葉原の場合はいつの頃からか、イベントの頻繁性と催されるショップの密集性、そして歩行者天国での路上ライブなどによって、マニアの間からは「アイドルの聖地」としても認識されるようになっていく。

 

「アイドルの聖地」秋葉原石丸ソフト、ついに閉店。秋葉原からイベント会場が消えてゆく。 - Aerodynamik - 航空力学

 

 上記のブログは2011年3月の石丸SOFTの閉店を悼んでいる。と同時に、Perfumeの石丸SOFTにおける最後の出演が『Baby cruising Love』のリリースイベントだったことを教えてくれる。

 

 『Baby cruising Love』のリリースは2008年の1月。そのひとつまえが2007年9月にリリースされた「ポリリズム」だ。

 

 Perfumeのブレイクを目撃した人々にとっては、「ポリリズム」という楽曲と、それを用いた公共広告機構のCMが大きな要因であったことを知っている。

 

 耳に心地のよい音と、クセになるリズム。かわいい歌声とダンス。この子たちは誰だろう? と多くの人が思った。

 

 ここで個人的な経験から思い起こすと、『ポリリズム』以前にもPerfumeの歌声を聴いたことがあった。ただ、姿を見たことはなかった。ラジオだったからだ。

 

 よく知られた話として、Perfumeのブレイクには木村カエラのあと押しがあったといわれる。

 

 [木村カエラ] Perfumeをラジオで大推薦 - 音楽ナタリー(2007年3月30日付)

 

 上記のラジオをぼくも聴いていた。

 

 バレンタインデーでもないのに、なんども『チョコレイト・ディスコ』がかかった。「チョコレイト」ということばの響きがかわいらしく、軽快なリズムの反復が記憶に残った。

 

 中田ヤスタカのサウンドメーカーとしての優秀さはもちろんなのだけれど、作詞家としての「ことば」のチョイスの見事さには、ときどき驚く。のちの「きゃりーぱみゅぱみゅ」にいたっては、その描き出された風景に、涙したこともある。

 

(だって、あの交差点で、みんながスキップして、手をつないで、空を見上げるんだぜ、2011年の夏に──)

 

 木村カエラについても、ちょっと考えておきたい。

 

 なぜ、彼女のラジオ『カエラジ』(J-WAVE『OH! MY RADIO』)を聴いていたかというと、『saku saku(サクサク)』を見ていたから。

 

 『saku saku』はtvk制作の音楽情報番組で、木村カエラは2003年3月から2006年3月までMCをつとめていた。

 

 CGの(いい意味で)安っぽい合成背景をバックに、木村カエラとディレクターが操る腕人形との他愛もないやりとりや、世代間ギャップですれちがうサブカルトークが面白かった。

 

 『ガンダム』ネタをどれだけカエラに吹き込んでいたことか。

 

 ローカルな街や出来事についてのオリジナル・ソング(これはディレクターの才能)、投稿イラストやメール、ときどき現れるミュージシャンの大物ゲスト、出演者、スタッフ、それぞれの個性的なキャラクターもあいまって、低予算ながらとても豊かで魅力的な番組だった。

 

 本放送は早朝(出勤、通学前)に、その再放送が深夜にあり、月曜日から金曜日まで毎日30分放送された。

 

 見ようと思えば毎日、平日であれば彼女の顔を見ることができた。3年間だったのだから、朝ドラのヒロイン以上だ。

 

 はじめは、怪獣みたいな名前の女の子だな、と思った。『セブンティーン』の雑誌モデルで、やる気があるのかないのか、わからないけれど、どうやら気さくで人柄も良く、おしゃべりも面白いな、くらいの感じで日々なんとなく眺めていた。

 

 ある日、番組オリジナルのローカル街ソングを歌ったときに、「あれ、この子、歌うまいじゃん!」と視聴者は感じはじめる。

 

 2004年5月に番組の企画で、インディースCD「Level42」を制作し、限定発売すると評判になる。そのまま同じ曲でひと月後にはメジャーデビューをしていた。

 

 10月にリリースされた2ndシングル「happiness!!!」では、カエラ自身が登場するリップクリームのCMソングに採用され、12月には1stアルバム『KAELA』を発売、オリコンチャートで初登場8位を記録する。CDデビューから半年後のことだった。

 

 その後、奥田民生プロデュースの曲があったり、サディスティック・ミカ・バンドにボーカリストとして参加したりと、彼女の歌声は先輩ミュージシャンたちからも高く評価される。彼女は2000年代後半を代表する人気アーティストになっていく。

 

 木村カエラの登場のしかたを見ていると、彼女はローカル・アイドルだったように見えなくもない。

 

 神奈川県の低予算ローカル番組で、手足の生えたサイコロやら、帽子をかぶったネコもどきやらと毎日、他愛もないおしゃべりをして、地元のネタソングを歌い、ときどき「月に変わってお仕置き」をするコスプレをし、おっさんの「ガンダム」ネタに、はじめは素っ気なく、やがて楽しくマニアックにつきあう。

 

 彼女のトークは肩の力がぬけていて、番組のつくりもゆるかった。でも、オリジナルソングの完成度は高かったし、カエラのボーカルも魅力的だった。とても快適なバランスで、だから毎日見つづけることができた。

 

 番組を見ていた人はみんな、彼女のことが好きになった。

 

 しかし、彼女を「アイドル」とは呼ばなかった。

 

 彼女は『sakusaku』に登場する以前からファッション誌『セブンティーン』の専属モデルだった。すでに同世代の女の子たちのあこがれの視線が彼女にむけられていた。そしてデビュー曲をはじめとして多くの楽曲を作詞していた。

 

 「同性のファンが多く」て「自らの詞による自作自演」をする、そして玄人好みのボーカリスト、となれば間違いのないアーティストだ。

 

 彼女がデビューした2004年前後はライムスター宇多丸が「アイドル冬の時代」の再来かと嘆いていた時期だ。

 

 木村カエラの歌手デビューが、どれだけ計画的なものだったかはわからない。

 

 インディーズ・デビュー曲「Level42」のMVなどを見ると、低予算のローカル番組のスタッフが、さらにない予算でつくった広角レンズ、ワンカメの素朴なもので、メジャーなレコード会社が戦略をもってつくったものとは、とても考えられない。

 

 ただ、そのシンプルな画面のなかで、はつらつと歌う木村カエラは魅力的で、それが番組のエンディングで何度もリピートされ、彼女は視聴者からも歌手として認識されていく。

 

 番組企画の限定インディーズから、同曲のメジャー発売までひと月、そこから2ndシングルまでは4ヶ月、「happiness!!!」のMVはいっ見してコストがかかっているし、なによりCMのタイアップがあった。

 

 おそらく、木村カエラの歌手としての戦略的なプロモーションは2ndシングルからはじまっている。

 

 インディーズCDへの反応を確認したレコード会社が、そこから「アーティスト」木村カエラの売り出し方を考えたのだろう。

 

 ティーンズ誌のモデルらしいけれど、ローカル番組のおもしろい女の子は、時代を彩るアーティストになった。

 

 彼女もまた辺境からの挑戦者だった。

 

 2007年、木村カエラは、3rdアルバム『Scratch』でオリコン週間チャート1位を記録。『saku saku』は卒業していたものの、CMや歌番組にひっぱりだこの人気者になっていた。

 

 そんな彼女が、たまたま「外で歩いてるときに一瞬見かけ」たMV

がPerfumeの「チョコレイト・ディスコ」だった。(※上記HP)

 

 彼女は自らのラジオで、4週にわたって同曲をヘビーローテーションする。(Wikipedia「Perfume」より)

 

 そして、そのラジオを聴いていたCMディレクターが、リサイクルキャンペーンのCMにPerfumeを起用し、NHKと民放のテレビ画面を通じて、「ポリリズム」の楽曲とダンスが全国に流れることになった。

 

 Perfumeはブレイクした。

 

 広島で出会った3人の女の子が、東京のアミューズという芸能事務所にピックアップされ、中田ヤスタカという音楽プロデューサーにめぐり逢い、ライムスター宇多丸らクラブシーンに通じるアーティストからも愛され、アキバ系のアイドルヲタからも親しまれ、ローカルテレビ番組から人気者になった木村カエラに発見され、その曲を耳にしたCMディレクターの起用を経て──

 

 ようやく『Perfume』は全国的な認知を得た。

 

 広島でのローカルアイドル時代から7年。東京に上京してからも4年がたっていた。

 

 ライムスター宇多丸はPerfumeの「ポリリズム」によるブレイクを評して、「──アイドル・ソングの歴史上、滅多に見れない、どころか、恐らくは空前絶後の『奇跡』」だと語り、「無駄に金のかかった宣伝でもなく、また、ファン限定な目先の小銭稼ぎでもなく、ただ、ひたすら圧倒的な作品の力だけが、そして、そこから静かに、しかし確実に広がっていったリスナーの支持こそが、この類い稀なる『いい風』を生みだした源だということを、すべてのアイドル産業従事者は肝に銘じるべきだ」と記述している。(※2)

 

 伝え聞くところによれば、アミューズの創業者であり現会長の大里洋吉は、Perfumeのブレイクを大変喜んだという。大里氏は、女性三人組アイドルグループの原型ともいえる『キャンディーズ』のマネージャーであり、解散コンサートの総合演出もつとめた人物だった。

 

 Perfumeが秋葉原で最後にストア・イベントを行なったのは2008年の1月。4月に発売したアルバム『GAME』は39万枚を売り上げ、8月の『ROCK IN JAPAN』フェスでは1万人収容のステージをあふれさせた。11月には日本武道館2daysを開催し、この年、はじめてNHK紅白歌合戦に出場する。

 

 キャンディーズの解散から、ちょうど30年が経っていた。

 

 Perfumeが誕生し、ブレイクするまでの7年間は、CDの売上市場そのものが縮小しつづける、音楽業界にとってはこれまでに経験したことのない環境だった。

 

 その変わりゆく難しい環境のなかで、新たな挑戦をするグループがいた。

 

 彼女たちも、かつてのPerfumeのように秋葉原で地道な活動をはじめる。ただ、違っていたのは、彼女たちには毎日パフォーマンスをする常設の劇場があった。

 

 彼女たちが活動をはじめたのは2005年12月。

 

 有名なプロデューサーがついていたとはいえ、このころはまだ、それが巨大な帝国にまで発展するとは、だれも考えもしなかった。それどころか、「あのひとがまた変なことをはじめたよ」と鼻で笑う人もいた。「ぜったいに成功なんかしないよ」と。

 

 彼女たちは秋葉原からイニシャルをとり、世界で最も多く使われた軍用銃になぞらえ、そしておそらく大人たちの艶のある遊びも想起させるように──『AKB48』と名乗った。

 

 

 ──「辺境とアンダーグラウンド【4】 『秋葉原』都市の重力」につづく

 

 

(※1)北川昌弘『山口百恵→AKB48 ア・イ・ド・ル論』 (宝島社新書) p193

 

(※2)『ライムスター宇多丸のマブ論CLASSICS アイドルソング時評2000-2008』(光文社知恵の森文庫)p433-435

 

 宇多丸氏は上記のコメントにつづけてこう書いている。

 ──木村カエラのファン宣言や公共広告機構CMへの大抜擢といった超強力な追い風は、すべて、この真実から発した「結果」なのだと私は思います。つまり、ひとことで言えば、正義が勝った! そして、そんなことは実際には滅多にないからこそ(当連載の読者であれば、この業界では特にそうだということを、身にしみて理解していることでしょう)、この「奇跡」は途轍もなく尊いのです。

 

 

 

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 2000年代半ば、CD不況ということばも聞かれるようになるなか、Perfumeは秋葉原での路上ライブや石丸SOFTでのイベントなど、地道な活動をつづけていた。(※1)

 

 ここで「秋葉原」ということばが浮上してくる。

 

 じつは「アイドル」と「秋葉原」がむすびつくのは、それほど古いことではない。そもそも秋葉原という「場」がサブカルチャーと結びつけられて語られるようになったのは2000年前後だと思われる。

 

 戦後、電子部品店の集まりから、高度成長期の家電ブームを経て、大型ショップの集積する電気街となっていた秋葉原は、90年代にはパソコンをあつかうようになり、そのゲームや映像のソフトウェアとして「アニメ」との親和性を深める。

 

 1995年にはじまる『新世紀エヴァンゲリオン』のブームも、グッズ開発や店舗展開に経済的な恩恵を与えたと考えられる。

 

 ちなみにこの年は「Windows95」発売の年でもあり、ここからパソコンの急速な普及がはじまる。

 

 1998年には『アキハバラ電脳組』というTVアニメも放送され、個人的には、このころから家電量販店の街だった秋葉原の印象がすこし変わってきたと感じた。

 

 個人の「趣味」が「都市」の姿を変えていく、という趣旨で話題になった本、森川嘉一郎『趣都の誕生~萌える都市アキハバラ』が出版されたのが2003年。

 

 しかし、この本には、パソコン、ゲーム、マンガ、アニメ、美少女、といったワードは頻出するが、「アイドル」への言及はない。

 

 秋葉原に「アイドル」はいつからいたのか?

 

 ブレイク前のPerfumeがライブをしていたという石丸電気SOFT館では、2000年以前から歌手やグラビアアイドル、若手のアイドル女優などが、CDやDVDの発売に合わせてイベントを行っていた。

 

 『アイドル論』のなかで北川昌弘は、2005年以前の話として、

「──握手券や写真撮影付きのCDや物品を販売して収益を上げるビジネスモデルもすでに地下アイドルやグラビアアイドルたちが秋葉原で行っていた」と書いている。(※2)

 

 ここで現れる「地下アイドル」ということばがちょっとやっかいだ。

 

 はじめて耳にしたのも2000年代の前半だと思う。僕の記憶にあるのは、『さま~ず』がMCをつとめていた深夜番組だ。

 

 暗いライブハウスで数人のファンにかこまれて歌っている女の子がいて、そのVTRを見ながら、さま~ずの二人がコメントをしていた。

 

「地下アイドル」ということばを聞くと、その風景が浮かんでくる。

 

 ためしに「さま~ず・深夜番組・地下アイドル」で検索をかけると、それらしき記事が出てきた。

 

「地下アイドル」という言葉はいつどのように使われはじめたのか|bxjp|note

 

 僕が見たのは『さまぁ~ずと優香の怪しいホール貸しちゃうのかよ!!』2002年5月28日放送に間違いない。

 

 2002年はモーニング娘。から後藤真希が卒業してソロ活動に注力し、松浦亜弥が『Yeah! めっちゃホリディ』を歌い、Perfumeが上京する一年前だ。

 

 この時期、「アイドル」ということばにもっともふさわしい存在だったのは「あやや」こと松浦亜弥だったと思う。

 

 「地下アイドル」ということばが現れる状況については上の記事が詳しいので興味のある方は読んでいただきたい。

 

 いま「地下アイドル」ということばに多くの人が持つイメージは、ふたつあると感じる。

 

 ひとつは、「テレビの地上波に出ないアイドル」。

 

 もうひとつは、はじめからマスメディアへの露出は想定せず、「マニアだけに向けて活動するアイドル」である。

 

 2009年から活動をはじめた地下アイドルの姫乃たまは著書にこんなふうに書いている。(※3)

 

「──地上波放送を目指している人たちにとって、『地下アイドル』という呼称は侮蔑になるようで、しばしば『ライブアイドル』や『インディーズアイドル』などと言いかえられてきました。(…)お茶の間的には、地下アイドルが蔑称であることも、その人数が把握しきれないほど多いことも、あまり関係のないことでしょう。『テレビに出ていないアイドルはアイドルじゃない』とばかりに」

 

(彼女が活動をはじめた2009年は『AKB48』ブレイク時と重なる。そのため地下で活動するアイドルも爆発的に増えたと考えられる)

 

 テレビ番組への出演を地上として、それが果たせないものを地下とする考えは、いまでもある。しかし、00年代と、10年代ではメディアの状況がまったく違う。

 

 2000年代には、『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(1994年~2012年)や『うたばん』(1996年~2010年)などがあり、CDの売り上げが下降線をたどっていたとはいえ、まだメジャーレーベルがその気になれば、タレントを地上に押し出すことはできた。

 

 メジャーデビューというのはそういうものだった。

 

 ただ、YouTube、ツイッター、Ustreamといった、インターネット・コミュニケーション(まだSNSということばはなかった)の発達と、CD売り上げの減少が、じりじりと風景を変えていく。

 

 メジャーの弱体化とは違う方向から、「マニアだけに向けて活動するアイドル」は考えることができる。

 

 もともと芸能史のなかでは、欧米の演劇をもちこんで近代化をめざした「新劇」を主流と考え、そのカウンターとして日本の風土に根ざした、土着性や見世物小屋的ないかがわしさ、面白さに目を向け、現れた「アングラ演劇」という流れもある。

 

 戦後、日本の大衆文化の中心は映画にはじまり、テレビへと移り変わる。その流れが主流だとすれば、そのカウンターとして、マニアックな面白さや、いかがわしさのために、テレビに出ることのない芸能を担うアンダーグラウンドに「アイドル」が現れてもおかしくはない。

 

 見世物小屋的ないかがわしさこそが、面白みであり、魅力的な「アイドル」と、テレビの地上波では見かけないけれど、ライブ現場では魅力的な「アイドル」。

 

 そこに主流派に反抗するアンダーグラウンドとしての「地下」というイメージもあいまって、現在の「地下アイドル」は、さまざまな意味の混在したことばになっている。

 

 ちょっとやっかいだが、インディペンデントな活動が可能になったからこそ生れた状況ではある。

 

 SNS以前から、電子メール、ネット掲示板、ホームページで情報発信は可能だった。「ブログ」が普及しはじめたのも2002年ころだ。

 

(ちなみに「しょこたん」こと中川翔子がブログをはじめたのは2003年だ)

 

 パソコンを使って音楽をつくり、CDを焼いて、自らの主催するイベントで販売することもできる。インディペンデントなやりかたでも、一定数のファンを確保できれば、芸能活動はつづけられる。ロックバンドであれ、アイドルであれ──

 

 そこで、もういちど考える。どうしてアイドルにだけ「地下」とつくのか。

 

 地下のライブハウスで駆け出しのロックバンドが活動したところで「地下バンド」とは言われない。しかし、「地下アイドル」という呼称はなんとなくわかったような気になって流通してしまう。

 

 けっきょくやっぱり、歴史の問題なのだな、と思う。

 

 このブログでアイドルを考えるにあたり、70年代の『スター誕生!』から生まれた、山口百恵を起点としたように、「アイドル」はまず《テレビの中》にいたのだ。

 

 「アイドル」ということばの輸入のされ方はいろいろある。フランス映画『アイドルを探せ』(1964年日本公開)の大ヒットや、アイドル視された、エルビス・プレスリーやビートルズ、そこから派生する日本のグループサウンズなど、団塊の世代にはじまり、そのジュニア世代まで、いま人口の多くをしめる人々が、まずはじめに、映画やテレビの画面のなかに「アイドル」を見た。(※4)

 

 「アイドル」が意味するものは人によって、時代によって、移り変わっていく。これまではテレビのなかに存在していて、イベントやコンサートに現れる彼ら、彼女らを見て、「あ! テレビに出ている人だ」と特別に感じたのだ。

 

 テレビは特別だった。だから「アイドル」も特別だった。

 

 テレビが衛星を使い、ケーブルを使い、多チャンネル化し、いずれインターネットと融合して、動画を見るデスプレイモニターに過ぎなくなったとき、「地上波」の意味はまだあるだろうか?

 

 テレビが特権的な意味を持ちつづけるとしたら、ライブ中継しかない、と思っていたけれど、それもネットでじゅうぶんに可能になってしまった。ちがうとすれば、資本力と、報道をはじめとした既得権と、番組制作のプロダクション機能だが──

 

 映画は斜陽産業だと言われた。たしかに大手映画会社のいくつかは倒産した。しかし、いまでも映画はつくられている。ときには巨大な利益も生みだす。

 

 テレビ局も勢力が衰えてはいくが、滅びることはないだろう。ただ、地上波の特権性は失われていくはずだ。

 

 いまが過渡期かもしれない。

 

 「地下アイドル」ということばが、地上波の特別さが失われることによって意味をなさなくなるのか、ライブ活動やネット動画のなかにこそアイドルがいるのがあたりまえの世代が育つことによって、いずれ消え去るのか、アンダーグラウンドの反抗と面白みに染まって生きのびるのか──、それは、僕にはわからない。

 

 この章の終わりに、再び姫乃たまの著書から引用する。(※5)

 

「──改めて、『地下アイドル』が、地上へ上がる前段階という理由だけで付けられた呼称でないことを書き留めておきます。もちろん地上を目指して活動している地下アイドルもいますが、地下の世界で生きることを決めて活動している人達もいます。地下には地下の文化があって、そこでしか生きられない人たちがいます」

 

 

 ──「辺境とアンダーグラウンド【3】 ローカルとしての木村カエラ そして「ポリリズム」の奇跡」につづく

 

 

(※1)北川昌弘『山口百恵→AKB48 ア・イ・ド・ル論』 (宝島社新書) p164

 

(※2)同上、p172

 

(※3)姫乃たま『潜行 地下アイドルの人に言えない生活』(サイゾー)p25

 

(※4)『山口百恵→AKB48 ア・イ・ド・ル論』p26

 

(※5)『潜行 地下アイドルの人に言えない生活』p101