山下達郎がパッケージメディアの衰退を感じ、ライブツアーを決断したのは2008年だ。その3年前に、秋元康はAKB48の専用劇場をつくった。結果的には、先見の明がある戦略的な仕掛けに見える。しかし、当時の秋元氏の考えはとてもシンプルだった。

 

「──もともとAKBをやろうと思ったのも、マーケティングとかはいっさい関係なく、ただ『やりたかったから』なんです」

 

「──ただただ自分のなかでは『秋葉原に専用劇場をつくって、毎日同じ公演をやること自体が画期的だ』と思っていたわけで…」

 

「──専用劇場がすごく新しいことなのかというのはわからないけれども、自分としてはすごいことをやってると思ってたんだよ。クリエイティブって何かって考えると、ストーリーを頭で考えるんじゃなくて、その時の思いつきっていうか、反射神経だとぼくは思うんですよ…」

(『マブ論』秋元康×宇多丸対談より p487-490 ) 

 

 この対談は2017年のものなので、自らに先見の明があったことを仄めかそうと思えば、いくらだってできる。でも秋元氏はそうはしない。飾らずに「専用劇場をつくって毎日公演をする」ただただ、そのことが画期的だと思ったのだと話す。それも自己演出だろう、と言われれば、それまでだけれど、でも語られる内容に嘘はないと感じる。

 

 たしかに、アイドルグループをはじめるのに、専用劇場から作るなんて常識ではない。固定費が増えて、リスクを高めるだけだ。

 

 先行する似た事例として『宝塚歌劇団』がある。

 

 だが、もともと『宝塚』は鉄道会社の沿線開発の一環としてはじまっていて、鉄道路線の利用者を増やすことが目的だった。当初は、劇場単体で収益が上がらなくても、鉄道会社が潤えばいいビジネスモデルだった。

 

 インタビュアーから『宝塚歌劇団』を意識したかと問われた秋元康は「あとから気づいた」と言う。そして、その違いについてこう話している。

 

「──宝塚って、いろいろな技術を試される厳しいオーディションを受けて、それを通過した人たちがものすごい厳しいレッスンを積み、一糸乱れぬパフォーマンスをする。完成形ですよ。AKB48はそうじゃなくて、わりとゆるいものなんですよね。例えばはじめの頃は、他のいろんなオーディションに落ちた子たちが集まってるわけです。僕にとっては『がんばれ! ベアーズ』みたいなもの。完璧ではない人間たちが努力をして、一生懸命やる、それをファンが応援する。そこが宝塚とは違う」(※1)

 

 現在、劇場をもっている芸能プロダクションとしてジャニーズ事務所がある。しかし、その『東京グローブ座』は経営に行きづまった劇場を救済するようなかたちでジャニーズ事務所が買収したもので、自ら作ったものでも、専用でもない。

 

 ただ、ジャニーズ事務所も育成に定評があり、自ら興行も行う芸能プロダクションなので、その姿勢を感じることはできる。

 

 秋元氏はこんなことも言っている。

 

「──それまで僕はずっとテレビをやってきたわけですが、テレビって浮動票が行ったり来たり、ものすごく速いサイクルで動いていくので、そこに合わせようとすると消耗が早いんです。でも劇場でやっている限りは、観覧応募数の伸びだけを信じてやっていけばいい。(…)メディア露出がどうであれ、CDの売り上げがどうであれ、劇場の入場倍率が高くなっている間は当初の進化と同じなので、それでいい」

(インタビューは2009年 ※1)

 

 おニャン子クラブは2年半で消滅した。

 

 テレビ局の都合ではじまったものは、テレビ局の都合で終わる。

 

 ならばテレビ局ではないところで、はじめればいい。

 

 彼にとっては「専用劇場を作って、毎日同じ公演をやること自体が画期的──」だった。

 

 AKB48の画期性については、握手券をはじめとする「AKB商法」や、ファンの投票によって選抜メンバーを決める「総選挙」が語られる。しかし、創業当時はまったく想定されてはいない。(※2)

 

 握手会はレコードや書籍のプロモーションとして、むかしから存在していたし、総選挙はあるていどカタチが固まったからこそ、「ファンの要望に応じるため」として、2009年からはじまったものだ。

 

(それを大人たちがシステムとして組み立て、大規模化し、ビジネスとして拡大していった、とはいえる)

 

 ふつう、劇団にしてもアイドルグループにしても、「人」ありきであって、「劇場」という箱モノから考えることはない。人の集団はうまく行かなければ解散して終わりだけれど、劇場はそうはいかない。レンタルに出すとしても、業態をかえるにしても、リスクが大きい。

 

 ただ、人を育てる「場」として考えるならば、劇場をもっていることはとても有益だ。「おニャン子クラブ」には毎日放送される『夕やけニャンニャン』という「場」があった。

 

「──おニャン子クラブはあれはあくまでフジテレビありきで、フジテレビの具現化するスタッフとして僕がいたわけで、プロデューサーではないからね」(※3)

 

 おニャン子クラブが消滅したとき、秋元康はまだ29歳の青年だった。

 

 AKB48の創業時、秋元康は48歳。最前線で成果をつみかさね、信用と経験をえて、物事をコントロールできる幅もひろがった。アイデアはある、コネクションもある、人も集められる。

 

 彼は「──小さなライブハウスや劇場からはじまって、だんだんと広がっていくのが見えるのをうらやましく思って…」いた。「──そういうことをやりたかったので、売れてなくても『楽しい!』…」と感じていた。

 

「──早く売れなければならないっていうのがなかったんですよね。『大声ダイヤモンド』(2008年)や『RIVER』(2009年)が売れた時に、〈よく頑張りましたね〉とか〈大変だったでしょう〉って言われて、あ、みんなそういう目で見てたんだぁ、と気づいたくらいで(笑)。本人は毎日楽しく、面白いなぁ、と思ってやっていたんです」(※4)

 

 秋元康は高校時代から放送作家として働いていた。若き作家として参加し、出演グループの作詞も担当した番組は、2年半で消滅した。しかし作詞は彼に富をもたらした。彼はそこで恋もし、伴侶も得た。その後の海外生活は挫折によるものだとも聞く。ただ、作詞の才能は彼に名声をあたえ、気がつけば不惑も過ぎて、「あがりの成功者」と見なされていた。

 

 彼は若い実業家に声をかけ、秋葉原に定員250人の常設劇場をつくり、「他のオーディションに落ちた子たち」や「何年もかけて作り上げられたもののなかに途中から入る勇気はなかった」ような女の子を集めて、新しいアイドルグループをつくりあげた。そして毎日の公演をはじめる。

 

 彼女たちの「喜怒哀楽」を彼は見つめた。なぜ、そんなに歌詞が書けるのかと問われて、「──歌詞は彼女たちの観察日記」なのだと答えた。(※5)

 

 劇場は彼女たちの「成長の場」であり、歌詞は彼女たちの「青春の記録」だった。

 

「──世の中の人から見る僕はすごく策士で、すごく計算して仕掛けている感じに見えるかもしれないけど、そんなことはほとんどないんだよね。なぜなら、高校生のアルバイトから始まって、次に何か面白そうなことがあったらそこにただ浮遊しながら生きてきたような人生だから」(※6)

 

 高校時代から放送作家として働いていたという彼の、「青春のやり直し」が『AKB48』ではなかったかと、僕は思っている。

 

 

 ──「成長する『AKB48』 前田敦子は14歳だった」につづく

 

 

 

(※1)『QuickJapan vol.87』(2009年)p74-75

 

(※2)『48現象ーAKB48の真実』179pにはファンの回想として、「──劇場がオープンした2005年12月から、ほとんどファンとの交流の場を設けていなかったが、2006年2月に発売したCD『桜の花びらたち』の購入者対象握手会から、次第にそういう機会が増えていった…」とある。

 エケペディアには「2005年12月16日、舞台装置が故障し公演が中止になった為、初めての『握手会』を開催」とある。AKB48の歴史 - エケペディア

 「選抜総選挙」とは関係ないが、当初、劇場には「ファンのみなさんの声を運営側が知るために、自分の好きなコの名前を書くアンケート用紙みたいなもの」があった。その用紙にメンバーではなく、カフェのアルバイトだった篠田麻里子の名前が多くあり、オーディションには落選していた彼女が急遽メンバーとして採用されたと、篠田麻里子自身が話している。『AKBヒストリー』p21

 

(※3)ライムスター宇多丸の『マブ論』p519

 

(※4)『マブ論 p486-487

 

(※5)『AKBヒストリー』p215

 

(※6)『マブ論』 p488

 

 付録。

 AKB48 オフィシャルブログの2005年8月8日の「ヒットの予感」というエントリーには、雑誌「WiLL」に掲載された秋元康のコラムが引用されている。抜粋すると──

 

 「次のアイドルはどこから誕生するか?」「やはり秋葉原から生まれるだろう」「なぜなら、秋葉原に集まる 『萌え系(オタク系)』の若者のエネルギーは、目を見張るものがあるからだ」「アイドルが誕生するためには、まず、一部の熱狂的ファンの力が必要不可欠なのだ。ドミノ倒しの初めの一個目。これが、倒れないと、大衆まで広がらない」「僕は考えた。秋葉原に情報発信基地を作ろう。そこで、二十一世紀型アイドルを誕生させよう。それが、今年の十月にオープン予定の『秋葉原48シアター 』である」毎日ショーを行って「ショータイム以外は、ビデオコンサートを流したカフェとなる。早い話、劇場と今、流行の「メイドカフェ」をあわせたようなものを想像して貰えればいい。つまり、二十一世紀型のアイドルのコンセプトは、「会いに行けるアイドル」。秋葉原に行けば、いつでも、会えるというのがミソだ」「『萌え系』のファンが、自分の贔屓の女の子を応援してスターに仕上げて行く、アイドル育成シュミレーションゲームのリアル版だ。先に、劇場で盛り上げ、その噂を聞きつけたマスコミによって、一気に秋葉原の熱気が日本を席巻するという寸法である」

僕の思惑通り、秋葉原48シアターはブレイクするだろうか?

 

ヒットの予感 | AKB48 Official Blog ~1830mから~ Powered by Ameba

(全文を読むと、当初のコンセプトと結果できあがったものが微妙にズレていて興味深い。成功したあとのインタビューと違って、さすがに多少のハッタリもある。そして彼は疑問形でコラムを結んでいる)

 

 

 

 

 

 

 ──1990年代は新人がドラマのテーマソングでタイアップし、音楽番組に出演すれば「次の日には2、3万レベルが、60万枚とかに跳ね上がった」(音楽事務所幹部)が、昨年、同じ戦略を取った若手バンドは「ほとんどチャートが動かない」(同)ありさまだった。

(『週刊ダイヤモンド』2013年1月12日号)

 

 上記は柴那典『ヒットの崩壊』からの引用で、もっともCDが売れた90年代を振り返って、ドラマやCMとのタイアップ、テレビ出演といったプロモーションの手法が、CDの売り上げに効果をもたらさなくなった現状を語っている。(※1)

 

 AKB48が創業した2005年はどうだったのか?

 

 以前書いたように、音楽CDは1998年に史上最高の売り上げ、6075億円を記録する。しかし、2005年には4222億円まで落ち込み、市場が3分の2になってしまった。着メロなどの有料音楽配信が、一時的に音楽市場の売り上げを回復させるが、ピーク時を超えることなく、全体的には右肩下がりをつづける。

 

合わせても3000億円割れ…日本の音楽CDと有料音楽配信の売上:2015年5月の記事)

 

 上記の売上データでは2005年からデジタル配信の売上が加味されている。スマートフォンはまだなく、YouTubeはアメリカで生まれたばかりだ。

 

 しかし、2003年には「iTunesストア」がアメリカでサービスを開始しているし(日本での開始は2005年)、ナップスターやWinMXなどのファイル交換ソフトによる違法ダウンロード問題もすでに経験している。

 

 音源のデジタル・ファイル化や、インターネット配信の一般化によって、いずれ『CD』というパッケージメディアの時代は終わるかもしれない。そう感じられはじめたのが、2005年あたりだろう。ただ、それが10年後になるか、20年後になるかは、誰にも予測がつかなかった。

 

 ちなみに、山下達郎がライブツアーを再開したのは2008年だ。

 

 『山下達郎「PERFORMANCE 2015-2016」インタビュー 』ではこんなふうに話している。

 

 インタビュアー「──2008年にライブツアーを再開した際に『今後は活動の軸足をライブに移していく』と話していましたが、それは時代の流れを見ての判断だったんですか?」

 

 山下達郎 「そうです。CDの市場が縮小していく中、配信だけだと印税も大幅に減るし、レコーディングに大きな投資はできなくなる。『だったらライブで食っていこうかな』っていう発想です。でも今みたいになるとは思わなかったですけどね──」

 

 彼はラジオでもよく「パッケージメディアの衰退」を口にしていた。

 

 では、2005年当時、秋元康はどう考えていたのだろう。もちろん、音楽業界にいる彼は、CDの売上減少を知っていたし、レコード会社の焦りも感じていただろう。ただ、AKB48の起業にレコード会社は加わっていない。まずはCDの売上というプレッシャーとは別のところで仕事をはじめている。

 

 AKB48の衣装を担当していた茅野しのぶが面白いことを言っている。「──秋元康さんがAKB48を設立し、このネット時代にあえて、会いに行ける劇場型アイドルを育てると聞き……」彼女は自らを売り込みに行く。(※2)

 

 ここで注目したいのは「このネット時代に〈あえて〉、会いに行けるアイドル──」と語っているところだ。

 

 現在の視点からすると、音楽業界の「パッケージメディア」から「ライブステージ」への収益構造の移行を、すでに見越して「会いにいける」劇場型アイドルをつくったように見えてしまう。しかし、そこまで戦略的に考えていただろうか。

 

 茅野氏も感じていたように、ネットによって世界のあらゆる情報に自宅からアクセスでき、音楽も動画もこれからどんどん配信のクオリティーが上がっていく時代に、なんで、ざざわざ、秋葉原のローカルな劇場に素人同然の女の子を集めて、流行っていもいないアイドルをつくるのか。彼女の〈あえて〉にはそんなニュアンスがふくまれている。その挑戦を彼女のように「面白い」と思った人は少なかった。

 

 インターネットの技術が進歩してくると、複製データの価値が希薄化していき、実体経済での価値観も変わっていく。

 

 山下達郎がライブを再開した2008年は「リーマンショック」の年でもある。9月に起こったアメリカの証券会社リーマンブラザースの破綻は、世界的な金融恐慌を引き起こし、日本の株式市場でもバブル崩壊後の最安値を記録する。年末の「年越し派遣村」の風景を覚えている人もいるだろう。

 

 おそらく、このころから消費にたいする語られ方や共感に変化が見られたのではないか。モノを大量に所有したり、多機能であったり、高級であったりすることに魅力を感じなくなり、いま、この時にしかない「体験」に価値を見いだす。

 

「商品から体験へ」「モノからコトへ」──製造業、サービス業にかかわりなく、あらゆる事業体が、人々の消費行動の変化を意識せざるを得なくなった。

 

 ただ、2005年のAKB48創業時には、そういった人々の消費行動の変化は意識されず。「コンテンツからコミュニケーションへ」という経営コンサルタント的なことばも生まれていなかったはずだ。

 

(むしろAKB48の成功という結果を得て共感されたフレーズではないか)

 

 『ヒットの崩壊』で柴那典はこう書いている。

 

「──成立しなくなったのは複製品を大量生産するかつてのビジネスモデルとゴリ押し的なヒットの方法論だけで、この先は各地に点在する〈熱気〉に価値がある時代がやってくる」(※3)

 

 AKB48は秋葉原という地に、強い〈熱気〉をつくりだすことに成功する。

 

 

(ただし、AKB48は人々の予想を超えて『CD』というパッケージメディアを大量に売り上げる怪物ともなっていくのだが……)

 

 

 ──「起業としての『AKB48』【5】 青春の場」につづく

 

 

(※1)柴那典『ヒットの崩壊』講談社現代新書(2016年)p29

 

(※2)AKB48グループの衣装を手掛ける茅野しのぶクリエイティブ・ディレクター 衣装へのこだわりやTGCとの新プロジェクトを語る | WWD JAPAN.com(2015/06/05)

『──秋元康さんがAKB48を設立し、このネット時代にあえて、会いに行ける劇場型アイドルを育てると聞き、「若いエネルギーを信じてやらせてもらいたい!」と自分から売り込みにいって採用されました。当初は制作着数が少なかったので、秋元さんが講師を務めていた京都造形芸術大学の学生がデザインしたものを、工場との間に入って、素材を決めたり、トワルを組んだりしていました。その後、2006年に「会いたかった」でメジャーデビューする際に、企画・デザインやアパレル素材の使用を本格的に担当するようになりました。(…)』

 このインタビューからは、AKB48創業時の衣装は学生がデザインしていたことがわかって興味深い。ちなみに茅野しのぶ氏は2014~17年まで48グループ総支配人(2015年からは劇場支配人も兼務)をつとめた。

 

(※3)柴那典『ヒットの崩壊』p235

 

 ちなみに──

 AKB48の楽曲が100万枚に達するのは2010年10月リリースの「Beginner」からで、つぎの「チャンスの順番」をのぞき、2011年の「桜の木になろう」以降、2019年の「サステナブル」まで、すべて100万枚以上を売り上げている。

AKB48 CDシングル売上枚数一覧 | 年代流行

 

 

 

 

 当初、AKB48は「地下アイドル」と見なされ、CDデビューもインディーズだった。

 

 それでもデビュー曲にはCMのタイアップが用意され、深夜ドラマのエンディングテーマとしても採用された。これは広告代理店の仕事だ。

 

  劇場デビューまもない12月17日から1月3日の間、お台場でのフジテレビ・イベント『HOT☆FANTASY ODAIBA』でミニライブをしている。メンバーみずからチラシ配りもおこなった。(※1)

 

 この仕事は秋元氏がフジテレビの関係者に声をかけたか、広告代理店が取り次いだかのどちらかだろう。

 

 AKB48の運営は、劇場公演の開始とともに、メディアでの露出とイベントへの出演というプロモーションは準備していたことになる。

 

 ただ、テレビ出演のようすはない。深夜ドラマでは、本編にもメンバーが出演したとの記述もあるが(※1)、同時に放送されたCMではテロップこそ『AKB48』となっているが、ナレーションでは元気よく「アキハバラ フォーティーエイト!」と発声しているような状況だ。

 

 年表(※1)を見ると、「2月21日に『NEWS23』(TBS)でAKB48劇場が取り上げられる」とある。このころ、ほかにテレビ関係の記述は見えない。

 

 秋元氏も、マスメディアからの一方的な押しつけではなく、小さなところからはじめて、5年でも10年でもかけて大きくしたかったと話している。出資者の窪田氏も焦ってはいなかった。

 

 では、テレビとの関係をどう考えていたのだろう。あえて距離をとっていたのだろうか?

 

 AKB48のプロジェクトが動きはじめたとき、秋元康は広告代理店の阿比留一彦に声をかけた。阿比留氏はインタビュワーにプロジェクトでの役割を問われてこう話している。(※2)

 

「──テレビなど、メディアを使う時の、秋元さんの相談相手と言うとカッコイイですけど、雑用係ですか(笑)。『こんなこと考えたんだけどさ』って話をもらって、『おもしろいですね! やっていきましょう!』というところから広がっていく、(…)秋元さんは『一人電通』ですよ。クリエイティブもできて、営業活動もできて、アウトプットのしかたも提案できて、プランニングもできるっていう。『一人電通』っていうのは、電通をよく言い過ぎましたけど(笑)」

 

 この阿比留氏が同僚の藤田浩幸に声をかけ、NTTドコモのCMタイアップが決まり、テレビ電話をつかったオーディションというプランが実行される。社内では藤田氏がドコモの担当営業で、阿比留氏はテレビ局を担当していた。

 

 インタビューの流れで、藤田氏が「──テレビが必要だっていうのは、当時から阿比留と秋元さんの共通の意識だったよね?」と水を向けると、「──まずは、レギュラー番組を! ということで日本テレビさんにご相談させていただき…」と阿比留氏は話している。(インタビューは2009年)

 

 しかし、AKB48が日本テレビでレギュラー番組『AKB 1じ59ふん!』(のちの『AKBINGO!』)をはじめるのは2008年1月のことだ。デビューから2年がたっている。

 

 一方で、2007年の夏ころに秋元氏は、「AKB48はまだ地下アイドルで行く」と発言していたとの話もある。(※3)

 

 振付師の夏まゆみは、「当初、秋元さんが私に言ってたのは『これからのアイドルはテレビからじゃなくてファンが直接的に育てていくんだよ。一緒にやらない?』って──」と話している。(※4)

 

 秋元氏もテレビは必要だと考え、タイアップにも積極的だったと思う。ただ、人を育てる場としては疑問をもっていたのかもしれない。

 

 結果的に、AKB48がレギュラーの冠番組をもつまでには2年かかった。それが意図的だったのか、需要の問題だったのかは、わからないが。

 

「──秋元さんはよく僕らに言ってたんです。『AKBINGO!は漢方薬であって、毎日飲んでいると効いてくるモノだし、大きな効果を得ることができるはずだ』と。例えば、お金をかけて良い時間帯に単発の番組を無理やり作ったとしても、そのやり方は抗生物質であり、その一瞬しか効き目がないんですね。だから、『お前ら、耐えろ!』と……」(藤田浩幸 ※2)

 

 深夜帯であっても、テレビの地上波に出つづけることは、AKB48の認知と価値を高めることになる。グループ名や曲は知っていても、どんな女の子がいるのか具体的に知るためには、ビジュアルが必要だ。テレビ番組であれは、企画を通して、おおよその人となりを知ることもできる。あれだけの大人数だ。気になった女の子の顔と名前を覚えてもらうだけでも意味がある。短い時間でも習慣的に見つづけてもらえれば愛着も湧く。単発ではなく、くり返すことが大事だ。

 

 劇場へ足を運ぶのはハードルが高いし、キャパシティも限られている。やはりファン・サークルをこえて、外にアピールするためにテレビは有効だ。

 

 秋元氏はこんなことも言っている。

 

「──いつもスタッフに言っているのは、もちろんファンの皆さんに喜んでもらうのは大事なんだけれども、いかにファン以外の人たちにアピールできて、ファン以外の人たちに『ちょっと立ち寄ろうかな』って思ってもらうことが大事なの」(※5)

 

 AKB48が深夜に冠番組をもった2008年は、スマートフォンもなく、まだSNSやネット配信は一般的ではない。(「iPhone」の日本発売は2008年7月)

 

 AKB48のツイッターは2007年10月に登録されている。(※6)

 

 これはかなり早い。当初のツイートを確認すると、チケット情報や参加メンバーの情報を掲載するブログのURLが淡々と流れているだけだ。

 

 Wikipediaによればツイッターの創業は2006年だが、インターフェースが日本語化されたのは2008年4月。ちなみに篠田麻里子がツイートをはじめたのは2010年7月だ。感覚的にはこの2010年あたりが一般的な普及期だと思う。

 

 AKB48の運営は新しい試みに積極的だった。秋葉原という土地柄から、初期のファンとインターネット・カルチャーに親和性も高かったのだろう。

 

 秋元康が語ったとされる「レギュラー番組は漢方薬」という考え方は、のちの『乃木坂46』『欅坂46』のテレビの利用の仕方にもつながっている。

 

 乃木坂46は2011年8月に結成された。10月には冠番組『乃木坂って、どこ?』が放送開始している。おそらく、乃木坂46の企画立案の段階で、この番組は計画されていた。常設の劇場をもたない坂道シリーズにとって、レギュラー番組はグループを知ってもらうための最初の入り口なのだ。

 

 2019年の現在は、日曜日の深夜24時から『乃木坂工事中』、そのあと『欅って、書けない?』『日向坂で会いましょう』と三階建てで、坂道シリーズの番組が放送されている。その主なスポンサーはソニーのグループ会社だ。日曜深夜の冠番組は、ソニー・ミュージックエンタテインメントにとってのショーケースになっている。

 

 兄貴的なコメディアンの司会と、ひな壇に座る女子グループのメンバーという構図は、とんねるずとおニャン子クラブの風景に重なる。

 

 乃木坂46の番組は8年、AKB48の番組も11年つづいている。

 

 おニャン子クラブのいた『夕やけニャンニャン』は1985年4月から87年8月の2年半だった。いっきに燃えあがり、あっさり終息した。番組が終われば、グループも終了だった。あれは何だったのだろう。若き日の秋元康はどう感じただろうか。

 

「──おニャン子クラブはあれはあくまでフジテレビありきで、フジテレビの具現化するスタッフとして僕がいたわけで、プロデューサーではないからね」(※7)

 

 若き放送作家の秋元康は、テレビに使われる側だった。おニャン子クラブの経験は、AKB48以降の、大人数グループアイドルに生かされている。あの日々の、やり残しや反省もふくめて。

 

 インターネットの勃興によって、テレビはその力を削がれつつある。それでも、プロモーションの装置として有効な使い方はある。いま彼はテレビを使う側にいる。

 

 

 追記。

 2019年9月25日に『AKBINGO!』は終了した。しかし番組が終わってもグループはつづいている。

 

 AKB48が2019年9月にリリースした新曲のタイトルは「サステナブル」である。

 

 

 サステナブル(sustainable)

 [主な意味]持続できる;耐えうる 

 

 

 ──「起業としての『AKB48』【4】 音楽CDの衰退」につづく

 

 

(※1)『AKB48ヒストリー』2011年 週刊プレイボーイ編集部 p178

 

(※2)『QuickJapan vol.87』阿比留一彦・藤田浩幸インタビュー  p104-105

 

(※3)『AKB48裏ヒストリー』2013年 BUBKA編集部 p86

 同書によれば、AKB48のテレビ進出はフジテレビが仕掛けた『アイドリング!!!』(2006年10月結成)を強烈に意識した戦略だったとの見方を、ヲタの流出という事象とからめて記述している。p73 p92

 

(※4)モー娘。&AKB48“育ての親”が語るアイドルの資質~なぜ前田敦子を選んだのか? | ORICON NEWS

 

(※5)『マブ論』(2017年)p520

 

(※6)AKB48(@AKB48)/ Twitter

 2007年10月当初のツイート from:AKB48 since:2007-10-01 until:2007-10-31 - Twitter検索 / Twitter

 上記とは別に公式マークのついた「AKB48(@AKB48_staff)/ Twitter」も2017年から運用されている。

 

(※7)『マブ論』秋元康×宇多丸対談 p519

 

 

 

 

 

 

「──そのころ、秋元さんは毎日のように劇場に足を運んでいたんですけど、ある時カフェに座って、『おい戸賀崎、よく来ているファンの方を何人か呼んでくれ』と。呼んで、座ってもらって、『2月にCD出そうかなと思うんだけど、何の曲がいいと思う?』ってファンに聞いて、『桜の花びらたち』だよなあって話になって……」と戸賀崎氏は話している。(※1)

 

  『AKB48』草創期の有名なエピソードである。じっさいに秋元氏が現場でファンと対話をし、支配人である戸賀崎氏もつねに観客の声を聞きながら、劇場運営のあり方やグループの方向性を模索していた。

 

 秋元康は言う。「──まだお客さんがガラガラの頃は、僕が劇場のロビーにいて、お客さんに『どう?』とかって聞いてましたから(笑)。とくに初期のファンは、僕なんかより全然アイドルのことに詳しいからね。お客さんと雑談しながら『なるほど』と気づかされたり、『ああ、そうなんだ』と教えられることも多かったです」(※2)

 

「──従来の芸能ビジネスの、マスメディアからお客さんに一方的に与えるという方法論に限界を感じていた…」という秋元氏の実践でもあるし、芸能やメディアに不慣れなベンチャー会社のスタッフによる愚直な試行錯誤ともいえる。

 

(劇場オーナーの窪田氏がみずからチラシ配りをしていたが、目の前で捨てられたという話もある。※2a)

 

 AKB48メンバーの喜怒哀楽もふくめて、草創期のエピソードからは混乱とともに必死さや「手作り感」がつたわってくる。

 

 そのようにファンからの声も参考にして、一枚目のシングル「桜の花びらたち」はAKSからインディーズCDとしてリリースされた。

 

 ところが、この「桜の花びらたち」はインディーズでありながら、NTTドコモの「テレビ電話」のCMソングであり、TBSの深夜ドラマ『ですよねえ。』のエンディングテーマになっている。(ドラマのスポンサーもNTTドコモ)

 

 リリース発表のあった1月の時点では、まだ250人の劇場を満員にすることもできていない。そんな誕生したばかりで、名前も知られていないアイドルグループのインディーズCDに、NTTドコモという大企業のタイアップがついているのだ。

 

 ふつうCMソングの多くは、クライアントからの発注があって、そのイメージに合わせて楽曲が制作される。ファン参加のイベントで投票したわけでもなく、劇場に来ていた数人に既存曲の評判を聞いただけで決めるというのは、ずいぶん小ぢんまりとした話だ。ただ、そのスケールの小ささと、大企業のキャンペーンソングというアンバランスが、とても面白い。

 

「──最初は僕の名前を出さないでやろうと思っていたんです。名前を出さないで5年でも10年でもやって満員になったときに誰かに『秋元さん、いま、秋葉原にすごく人気のある劇場があるんですけど行きませんか?』なんて言われたらいいなと。ところが、コマーシャルが決まって、どうしても『秋元康プロデュース』と入れたいということになって……」(※3)

 

 メンバーを募集したオーディション雑誌の広告には『秋元康プロデュース』と書かれている。彼の顔写真も掲載されていた。オーディションの告知をはじめたときには、すでにCMの話があったのかもしれない。

 

(別のインタビューでは、名前を出さないとオーディションで人が集まらないと言われ、しかたなく出したとも話している。※4)

 

 「秋元康」という名前には力があった。観客となる一般層にとっては、時代遅れでどこか胡散臭いイメージだったけれど、メディアや大企業のなかで企画を通すだけの力はじゅうぶんにあったのだ。

 

 自分の名前にあるネガティブなイメージも、秋元氏はわかっていた。それもあって、名前を出さずに新しいチャレンジをしたいと望んでいた。しかし彼は「AKB48」の起業と継続に必要とされる現実的なアプローチを選ぶ。

 

 ここで少しお金の計算をしてみる。当初、AKB48劇場のチケット代は1,000円だった。客席は250だから、一回の公演で最大25万円の収入だ。出演者が20名だとすると、彼女たちに1万円の出演料を支払えば、それだけで20万円。残り5万円では、スタッフの人件費さえ賄えないだろう。休日に複数回公演を行ったところで、リハーサルのコストや衣装や美術費までまわるかどうか。とても賃貸料や設備投資までは回収できない。

 

(2006年7月にチケット代は2,000円になり、そのあと断続的に値上げしている ※5)

 

 当初、劇場公演はショーケース的な考え方で、大きな収益は求めていなかったのだろう

 

 『AKB48』を継続するためには劇場外の収益が必要だ。じっさいに発足すぐの12月17日から1月3日の間、フジテレビのイベント『HOT☆FANTASY ODAIBA』でミニライブをしている。そこではメンバー自身がビラ配りをしていたというから、プロモーションの意味も大きかった。(※5a)

 

 12月31日、NTTドコモ「FOMA」のテレビ電話のイメージキャラクターとして発表される。翌2006年1月3日からは深夜ドラマ『ですよねえ。』が放送され、エンディングテーマとしても、CMソングとしても「桜の花びらたち」が流れることになる。(※6)

 

 CMのナレーションでは「《アキハバラ》フォーティエイト!」と言っているところが、切なくもあり、興味深い。当時のAKB48への視線と、クライアントの態度、運営側の姿勢を感じる。とにかく、まずは表に出ていくことが重要だったのだ。

 

 2月4日に、はじめて満員御礼となったのは、劇場での彼女たちの頑張りはもちろんだけれど、やはりテレビ画面から流れてきた楽曲「桜の花びらたち」の効果もあったはずだ。

 

 AKB48の構想段階で秋元康は、広告代理店「電通」の阿比留一彦に声をかける。

 

「──こんなこと考えてるんだけど、面白くない?」

「やるんだったら協力させてくださいよ」

 

 阿比留氏は秋元氏とは17、8年のつきあいで、セガ「ドリームキャスト」のキャンペーンで共に働いていた。

 

 インタビューで阿比留氏は、AKB48における自分の役割をこう話している。

 

「──『ドリームキャスト』っていうハードのキャンペーンをどれだけプロモーションして成功させるかってことと同じです。AKBというソフト、出る場所によって変容するソフトをどれだけ大きくしていけるかを、秋元さんと一緒に考えていく──」(※7)

 

 阿比留氏はテレビ局を担当していた。そこに電通の同僚、藤田浩幸が加わる。

 

 「──僕はドコモの担当営業をやっていて、当時はテレビ電話の普及に苦戦していて。そのときに秋元さんが阿比留に相談していたAKB48とタイアップしようと。(…)ちょうどAKB48の2期メンバーのオーディションをやるから、それをテレビ電話を使って全国規模でやろうというのがスタートですね」

 

 2期メンバーのオーディション開始が2月19日。いつから告知されていたのかはわからない。(1期メンバーの募集を締め切ったあとにも、追加メンバーの募集はつづけられていた。※8)

 

 ただ、1月3日にはタイアップのドラマが放送されている。その準備に3ヶ月かかるとすれば、2005年の9月にはドコモのスポンサードは決まっていたはずだ。

 

 1期メンバーの募集は7月から9月。決定は10月30日なので、メンバーが決まる前には、CMが決まっていたことになる。

 

 この当時、ドコモはまだテレビ電話を推していたというのに時代を感じる。「iPhone」も「Ustream」も2007年の登場だった。

 

 既存の芸能プロダクションやレコード会社からは距離をおき、秋葉原の劇場では、ファンの声を聞きながら手作りの運営がなされていた。

 

 一方で、広告代理店には協力をもとめ、CMのタイアップを得るなど、メディアでのプロモーションにも手は打っていた。

 

 デビューCDである「桜の花びらたち」はインディーズでありながら、2006年2月13日付の週間オリコンチャートで10位に入っている。(※9)

 

 

 ──「起業としての『AKB48』【3】 テレビは必要?」につづく

 

 

 

(※1)『QuickJapan vol.87』戸ケ崎・西山インタビュー p85

 

(※2)『QuickJapan vol.87』秋元康インタビュー p74

 

(※2a)『48現象 極限アイドルプロジェクトAKB48の真実』p35

 

(※3)『マブ論』秋元康×宇多丸対談 p487

 

(※4)『QuickJapan vol.87』秋元康インタビュー p73

 

(※5)2019年10月現在、一般男性が3,400円、一般女性と高校生以下が2,400円となっている。研究生が多いと安くなる。

AKB48グループ劇場公演チケット料金改定のお知らせ | AKB48 Official (2019年9月20日)

 

(※5a)『AKB48ヒストリー』p178

 

(※6)AKB48 NTT DoCoMo キャンペーンCM「テレビ電話オーデション」篇 2006 01 03- YouTube

 

(※7)『QuickJapan vol.87』阿比留一彦・藤田浩幸インタビュー  p104-105

 

(※8)逆襲! | AKB48 Official Blog (2005年10月11日)「──只今、オープニングメンバーの募集は締め切っております。が、引き続き追加メンバーの募集は行なっております。48劇場は常に新しいスターを発掘する為の募集を行なって参ります」

 

(※9)桜の花びらたち | AKB48 | ORICON NEWS

 

 

 

 

 

 

 

「──もともとAKBをやろうと思ったのも、マーケティングとかはいっさい関係なく、ただ『やりたかったから』なんです。ロックバンドとか劇団とか、小さなライブハウスや劇場からはじまって、だんだんと広がっていくのが見えるのをうらやましく思ってて…」(※1)

 

 秋元康はAKB48をはじめた動機をそのように語っている。

 

「一番最初の思いとしては、少女たちのお芝居を毎日やりたかったんです。でも、お芝居で毎日毎日やって持つだろうかと。それでパフォーマンスするものが歌になり、アイドルグループになり、『会いにいけるアイドル』というコンセプトができあがっていったんです」(※2)

 

 それでも秋元康の試みを無謀だという人は多かった。

 

「──劇場づくりをみんなに反対されたから。『秋葉原でグラビアの人が握手会しても、集まるのは土日で十数人です。毎日250人規模相手に同じ歌とダンスでは持たないですよ』って言われて」(※3)

 

 それでも秋元氏は「そうなのかなあ」と思いつつ、「やっぱり何か面白そうじゃないか」と計画を進める。むしろ、そんな状況でも進めることができたのは、「恵まれた環境だったんですよね。窪田君(元AKS社長)という一緒にやってた人も、ぜんぜん焦ってなかったし──」(※4)

 

 なぜ焦る必要がなかったのだろう?

 

 『AKB48』創業時のユニークさは、アイドルグループをつくるのに、芸能プロダクションもレコード会社も関係していなかったところにある。

 

 秋元康、窪田康志、芝幸太郎の三人の会話から『AKB48』は動きだしたとされる。のちに三人はそれぞれの頭文字をとって「AKS」という会社をつくり、窪田氏が社長に就任する。

 

 Wikipediaによれば、窪田康志は「KRKプロデュース株式会社」(1999年設立)というブライダル関連会社の社長。芝幸太郎は「株式会社 office48」(2004年設立)の社長。もともとこの会社はパーティ・イベントやウエディング関連の人材派遣業として創業したようだ。

 

 このわずかな情報からの憶測だけれど、窪田氏のブライダル関連のイベントに、芝氏の会社からスタッフやコンパニオンを派遣していたのだろう。

 

 芝氏は、のちの『AKB48劇場』支配人、戸賀崎氏を紹介する時に、「ショークラブだったら、うちの会社に戸賀崎という10年現場を経験している、うってつけの人間がいます」と言っている。戸ヶ崎氏自身もみずからショークラブの店長だったと話している。(※5)

 

 おそらく芝氏は「ショークラブ」を経営していたか、あるいはスタッフやキャストを派遣していたと考えられる。

 

 ちなみに「ショークラブ」とは、歌やダンス、店によっては、ものまねや手品など、エンタテインメントのステージを披露する飲食店だ。お酒を接待してくれる女性が、ショータイムになると、ステージに立ってパフォーマンスを披露するスタイルが多い。

 

「ショークラブ」の魅力 | 「一般的なショーとショークラブの違いは、やはりキャストと一緒にお酒が飲めるという点 :ダイヤモンド・オンライン

 

 窪田康志と芝幸太郎の二人は実業家だった。いわゆる芸能界の人でも、マスメディアの関係者でもなかった。ただ、窪田氏の会社にはイベント運営のノウハウがあり、映像や音楽などの取り扱いもできた。芝氏には店舗の経営や、人材マネジメントのノウハウがある。じっさいにオーディションの窓口となったのは芝氏の会社「office48」だった。

 

 秋元康は芸能プロダクションを介さずとも、『AKB48』を起ち上げられると考えた。むしろ既存の芸能界のルールやノウハウとは、いったん距離をおいたほうが、みずからがコントロールできる幅も大きく、新しく面白いことができると考えたのではないか。

 

 秋元氏はこんなふうにも話している。(インタビューは2007年)

 

「5年前くらいからアイデアはあって、それが少しづつ形になっていった感じですね。まず従来の芸能ビジネスの、マスメディアからお客さんに一方的に与えるという方法論に限界を感じていたこと。あと、その時期にちょうどwebが普及してヴァーチャルアイドルみたいなものが出てきて、そういうプロジェクトに関わらないかってさそいもあったんですが、何かが足りないって(…)ヴァーチャルで完結するんじゃなくて、そこに真逆なナマのリアルさをぶつけたらどうなるんだろうって思った。そのあたりから『劇場があって、そこでアイドルを育成する』っていう企画が明確になっていったんです」彼は、何人かの人にそのアイデアを話したものの、「──けっこう遠大なプロジェクトだから、これだけ投資してそれをこの期間に回収して…。って普通のビジネスの発想だと無理なんです。たまたま05年の5月頃、知り合いの何人かで食事をしている時に、窪田さんにその話をしたら、『面白いですね!』ってノッてきてくれて。すぐに芝さんを紹介されて──」(※6)

 

 7月に戸賀崎氏は呼び出され、劇場用の物件探しから、メンバー募集、オーディションの段取りまで、事態は急激に動きはじめるが──

 

「僕はショークラブやると思っていたので、アイドルグループをやれと言われても、わけがわからない。ほんとに参っていて、秋元さんに相談したら『うちに西山がいる、行かせるから西山に全部話せ』と──』(※7)

 

 戸賀崎氏の懇願によって、秋元事務所から西山恭子が送り込まれる。彼女は広報を担当した。

 

「11月なかばに事務所から電話がかかってきて──、オーディションはもう終わっていて、レッスンをしている時期でしたが、じつは、劇場オープンの時のお披露目の段取りはどうするとか、記事を書いてもらうにはどなたに来ていただけばいいか、とか対外的なことがまさに『これから』の状況で──」(※7)

 

 この時期、振付師の夏まゆみによるレッスンがはじまっているが、西山氏が来るまでは、ほかに芸能やメディアの経験がある人物がいなかった。現場の混乱が伝わってくる。劇場のグランドオープンも当初の12月1日から一週間延期して、12月8日になっている。

 

 秋元氏は週刊誌のインタビューで、「アイデアは100%僕、お金ということでは100%窪田君」と話したとされる。そこに芝氏が会社のオフィス機能とスタッフを提供した。とくに戸賀崎氏はAKB48の屋台骨をささえる重要な人物になっていく。

 

 クリエイティブについては秋元氏が完全に取り仕切ることになる。プロフェッショナルなショウビジネスの経験がない窪田氏や芝氏は口を出さなかっただろう。ダンス、衣装、楽曲、それぞれのクリエイターに声をかけ、託し、自らは作詞で、グループのトーンをつくり、方向をしめし、モチベーションをあたえる。

 

 ダンスを託された夏まゆみは、ステージに「せりを入れてほしい」「ドンデンにしてくれ」と設備についても要求をしている。劇場のオープンを一週間延期したのも、「現状ではステージに出すレベルに達していない」と彼女が判断したためだ。そもそもグループ名とおなじ48人を集めるはずが、オーディションで合格の水準に達しなかったとして、20人ではじまっている。(※7)

 

 現場はいろいろと混乱していたけれど、前提にこだわらず、一所懸命、のびのびと仕事をしている感じはつたわってくる。それも秋元氏の「面白いことをやりたい」という思い以外に、よけいなプレッシャーがなかったからだろう。

 

 既存の芸能プロダクションやレコード会社の手を借りていれば、それぞれの意向も聞き入れなければならない。そもそもオタクの街の常設劇場の地下アイドルなんて、旨味を感じない。「ああ、また、美少女好きの秋元御大が趣味で何かはじめたんだな」くらいの感じで受けとめられていたはずだ。

 

 2006年1月に、秋元康、窪田康志、芝幸太郎の三人のイニシャルをとった「株式会社AKS」が設立されている。おそらく窪田氏は33歳、芝氏は32歳、秋元氏は48歳(!)だった。若者たちのベンチャー企業だと言ってもかまわないだろう。(Wikipedia参考)

 

 2005年12月の劇場オープン時には観客が10人に満たないこともあったが、翌2006年2月4日に、はじめて満員御礼となっている。

 

 その間には1月6日に「桜の花びらたち」のリリース発表があり、2月1日にAKSからインディーズCDとしてリリースしている。

 

 秋元氏は、小さく、面白く、AKB48をはじめた。(※8)

 

 しかし、より大きな舞台を求めていくためには、運営の継続と、グループの認知が必要だ。さすがにそのあたりの手段にぬかりはない。

 

 AKB48の起業時に、芸能プロダクションやレコード会社の影はない。でも、広告代理店からの仕事は用意されていた。

 

 

 ──「起業としての『AKB48』【2】 CMとインディーズ・デビュー」につづく

 

 

(※1)『マブ論』秋元康×宇多丸対談 p487

 

(※2)『QuickJapan vol.87』秋元康インタビュー p73

 

(※3)『マブ論』p489

 

(※4)『マブ論』p487

 

(※5)大変身!! | AKB48 Official Blog ~1830mから~ Powered by Ameba

 

(※6)『48現象 極限アイドルプロジェクトAKB48の真実』(2007年)p34

 

(※7)『QuickJapan vol.87』戸ケ崎・西山インタビュー p82-83

 

(※8)劇場の常設というアイドル運営としては常識外れの投資と固定費ではあるが、そのリスクは秋元氏の担うものではない。

 ちなみに上記(※7)のインタビューで戸賀崎氏は「ここまで、いろいろ設備を整えているところはないと思いますよ、この規模の普通の劇場で。最初は5000万ぐらいの予算でやろうって話だったんですけど──」多数のムービングライト、舞台が何段階にも動く「せり」、「どんでん」などの導入で、「気がついたらすごい金額がかかってましたからね、ステージだけでも」と話している。