2010年は、東京アイドルフェスティバル(TIF)がはじまった年だ。

 

 品川ステラボールをメイン会場として、8月に前夜祭を含めて三日間行われた。出場アイドルは45組。AKB48グループは出演していない。(※1)

 

 ただ、前年の2009年1月31日に興味深いイベントがあった。同じ会場で、アイドル選手権「Push★1」というイベントがひらかれている。(※2)

 

 各タレント事務所が推薦するアイドルが対戦し「未来のアイドルNo.1」を決めるという形式のイベントで、フジテレビが主催している。内容はweb中継され、後日、BSフジで放送された。

 

 そのイベントの総合プロデューサーと審査委員長を秋元康がつとめ、審査員として『アイドリング!!!』プロデューサーの門澤清太も参加している。

 

 イベントの記者発表で、『AKB48』と『アイドリング!!!』が登場し、両グループの選抜メンバーによるコラボ・ユニット『AKBアイドリング!!!』が発表された。

 

 そしてイベント当日、AKBアイドリング!!! のデビュー曲「チューしようぜ!」を初披露している。同曲は4月1日にポニーキャニオンからシングルリリースされた。

 

 このあとAKB48とアイドリング!!!は、お互いの番組にそれぞれ出演し、AKBアイドリング!!!として、『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』にも出演している。(※3)

 

 AKB48には「戦うアイドル」というイメージがある。しかし、秋元氏自身はそれを意図していなかったふしがある。

 

 『マブ論』では、宇多丸氏に「RIVER」という楽曲やミリタリー調のミュージックビデオから、「組閣」や「総選挙」という「戦うアイドル」像をメタ的に落とし込んだのではないかと指摘され、

 

「──あれはねえ、完璧にAKBのメンバーに対するメッセージですよ。彼女たちがもうひとつ大きくなるために、川を越えないといけない時だったから」と答えている。(※4)

 

 秋元氏は、トラブルによって一度は離れたデフスターレコーズの親会社ソニー・ミュージックとも『乃木坂46』(2011年結成)をはじめている。彼はこんな言い方をしている。

 

「──AKBがキングに移籍してから売れたので、あれだけ一生懸命頑張ってくれたデフスターに申し訳ないなというのもあって、じゃあソニーでも何かやりましょうよって…」(※5)

 

 吉田豪は2011年頃のこととして、「──秋元康さんサイドが『アイドル戦国時代』っていう言葉に対して圧力をかけてきた説っていうのも当時流れたりして。『この言葉を使わないように』みたいに言っていたとか…」と話している。(※6)

 

 テレビ朝日ではじめた『ラストアイドル』(2017年8月~)では、その対戦生き残りのシステムがあまりに残酷に見えるからと、当初の企画を変更して、セカンドシーズンで敗者復活による複数のユニットを結成し、自らを含めたプロデューサー対決をはじめる。(※7)

 

 AKB48には『僕たちは戦わない』(2015年)という楽曲まである。

 

 秋元氏は対立や衝突を好んではいない。しかし競争は必要だ。対決は興奮をもたらす。彼は状況にあわせて、対決が破滅的な衝突にならないようコントロールしながら、競争によって現れる才能を待っているように見える。

 

 90年代末の金融危機のあと、市場競争を重視する新自由主義的な風潮に疲弊し、2008年の「リーマン・ショック」によって傷ついた人々は、過剰なまでに競争にさらされる『AKB48』に時代の空気を感じ、反発と共感の入り混じった複雑な感情をもって、目が離せなくなっていく。上に行きたいけど行けない、選ばれたいけれど選ばれない、そんなメンバーの中に、自分を見た。センターであることを求められつづけた前田敦子も、第2回総選挙で、大島優子にその座を奪われた。のちに前田敦子は「君は僕だ」と歌う。

 

 AKB48の「戦うアイドル」というイメージを決定づけたのは、2012年に公開されたドキュメンタリー映画『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』だ。

 

 このドキュメンタリーには、東日本大震災のあと被災地に訪問してライブを行ったようすから、前田敦子が1位の座を奪還した「第3回選抜総選挙」の光と陰、そして過呼吸と熱中症で倒れるメンバーが続出した西武ドーム・コンサートの舞台裏が記録されている。

 

 ライムスター宇多丸は映画評のなかでこんなふうに言っている。

 

 総選挙については、「──生身の女の子を1年間ここまで追い詰めて、成り立たせている残酷ショーなわけで。こんなことで成り立つエンターテイメントって最低だよ!!最高だよ!最低だよ!!最高だよ!みたいな、「うーん」っていう事になってるわけで…」

 

 コンサートについては「──初日がとにかくボロボロで舞台裏が大混乱していると、文字通り戦場だっていうふうになってるわけです。(…)じゃあ2日目頑張ろうぜ、っていうか、頑張りすぎて、いいですか? 死者続出ですよ、これ、この戦場、203高地とか、ノルマンディ上陸とか、そういうことですよ!!」(※8)

 

 そして、舞台裏では、過呼吸や熱中症でメンバーたちがバタバタと倒れ、倒れながらも立ち上がり、再びステージへともどっていく姿が描写される。

 

 それはまるで「戦場ドキュメンタリー」だった。

 

 AKB48はステージに立つことの過酷さをまざまざと見せつけた。この映画には、彼女たちだけでなく、アイドルという存在への見方を変えるだけの力がある。

 

 AKB48の存在があって『アイドル戦国時代』ははじまった。

 

 そして、2010年がそのはじまりの年だといわれるのは、もう一つ理由がある。アイドルたちの群雄割拠と、それが可能にしたTIF(東京アイドルフェスティバル)の開催だ。

 

 それは2010年の5月、品川プリンスホテルの関係者から、フジテレビの門澤清太に「ステラボールが2日間空いているので、『アイドリング!!!』のイベントをやりませんか?」という話がきたところから動きだす。(※9)

 

 そう、一年前『AKBアイドリング!!!』がコラボ・ユニットを初披露した場所だ。

 

 

 ──『2010年「アイドル戦国時代」【2】 群雄割拠』につづく

 

 

(※1)TOKYO IDOL FESTIVAL 2010

 

(※2)[速報版]アイドル選手権「Push★1」記者発表(AKB48、アイドリング!!!) [スクランブルエッグon the Web]

 

(※3)AKBアイドリング!!! - Wikipedia

 

(※4)ライムスター宇多丸の『マブ論』p495

 

(※5)『マブ論』p522

 

(※6)吉田豪 2010年代アイドル戦国時代を語る(YBSラジオ 『909 Music Hourz』書き起こし)

 

(※7)伊集院光、秋元康が『ラストアイドル』第一回目のリハーサルでいきなりシステムを変えだしたと明かす「残酷過ぎるから」 | 世界は数字で出来ている(2017年12月13日 TBSラジオ『伊集院光とらじおと』書き起こし)

 

(※8)宇多丸が語る「『Documentary of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』は問題作であり、金字塔であり、到達点だ(2012年2月18日 TBSラジオ『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』書き起こし)

 

 宇多丸氏は上記の映画評のなかで、作品に戦慄し、賛辞を送りながらも、「誰がやらせているのか、舞台裏の惨状はスタッフの不手際ではないのか」といったことが巧妙に隠されていると指摘している。

 そして彼はアイドルファンであることについて、「──そこでですね、映される観客が『アンコール! アンコール!』ってやってる。そのアンコールの声が暴力的にすら響くわけですよ。もちろん、アンコールを唱えているファンが悪いわけじゃないけど、ここに、この映画は『アイドルのファンであるということは、それ自体が彼女たちに負荷を掛けるというこの構造に加担しているんだぞ』というのを暗に伝えているわけですよ。だから僕は17歳以来のこの問いが再び湧いて来ちまいました。岡田有希子が死んで以来ずっと『アイドルファンであるということは、彼女たちを苦しめる構造の一部であるということじゃないのか?』っていう……」

 

(※9)TOKYO IDOL FESTIVAL - Wikipedia「経緯」

 

 

 

 

 2009年はAKB48がシングル曲のメンバーをファンの投票によって選ぶ『選抜総選挙』をはじめた年だ。

 

 秋元康はこう言っている。

 

「──たとえば『総選挙』だって、『何でこの選抜なんだ』『何で前田敦子がセンターなんだ』と言われたから、『わかった。じゃあ、みんなが決めろよ』みたいなことで…」

 

「──もともと(AKB48は)、甲子園を目指す高校野球なんだ、下手でもいいんだというところから始まっているから、じゃあオールスターでやっても面白いかも、みたいな流れであって。だから『組閣』も、『総選挙』も、世間のみんなをアッと言わせてやろうとしてやったことじゃないんですよね…」(※1)

 

 しかし、このイベントが世間には大きなインパクトを与えていく。

 

 『ヒットの崩壊』の柴那典はこう指摘する。(※2)

 

「──「AKB商法」がオリコンランキングをハッキングしたと捉える見方は多い。

 

 ただ、それを単に握手会などの特典を目当てにしたファンの複数枚購入を煽ること、それによってセールス枚数を稼ぎ宣伝効果にすることだけだと捉えると、実はその指摘は半分しか当たっていない。特典商法は他のアイドルやアーティストもやっていることだ。

 

 むしろハッキングの本質は選抜総選挙にある。

 

 AKB48のみが「人間の対決」という仕組みをそのプラットフォームの中に内在している。人気の指標を、明確な基準によって集計された数字によってランキング化する。その独自のシステムを持っている」

 

「オリコン1位」はなぜ巨大な影響力を持つのか? 編集主幹が明かす(柴 那典) | 現代ビジネス | 講談社(4/4)

 

 上の記事では、「──『人間のランキング』が一番興味をもたれる」とオリコンの編集主幹も語っている。「──80年代の松田聖子と中森明菜がそうだった。00年代の宇多田ヒカルと浜崎あゆみもそう。それらのランキングが注目を集めたのも、それが『人間の対決』だから…」(※3)

 

 観客は、人と人との対決に興奮する。スポーツも、政治も、AKB48グループも……。それが時として、戦う者たちを追いつめてしまうことの是非はともかくとして。

 

「──その投票券を封入したシングルは毎年圧倒的な売り上げ枚数となり、2010年から2017年に至るまで7年連続でオリコン年間ランキングの1位を記録している」(※4)

 

 それだけでなく、2011年から2015年まで、オリコンの年間シングルランキングのトップ5は、2013年のEXILE(5位)と2015年のSKE48(5位)をのぞき、すべてをAKB48が独占している。

 

 2016年と2017年は1位から4位がAKB48 、5位に乃木坂46。2018年は1位と2位にAKB48、3位と4位に乃木坂46となっている。

 

 2010年から2018年まで、AKB48がトップに君臨している。

 

 結果的にAKB48は、オリコンCD売上ランキングを破壊したとまでいわれるようになる。

 

 話を2009年にもどす──

 

 2009年6月、「選抜総選挙」の投票権が封入されたシングル「涙サプライズ!」が発売される。CDの初動売上で10万枚をこえるが、オリコン週間チャートは2位だった。

 

 7月8日、赤坂BLITZにて、『AKB48 13thシングル 選抜総選挙「神様に誓ってガチです」』の結果が発表され、前田敦子が1位となる。

 

 8月、選抜総選挙で選ばれたメンバーで13thシングル「言い訳Maybe」が発売される。オリコンデイリーランキングでは1位となるが、週間ランキングでは2位だった。

 

 そして、10月に発売した14thシングル「RIVER」で、はじめてオリコン週間ランキング1位を獲得する。初動売上で17.9万枚を記録し、2009年女性アーティスト初動売上トップに輝く(※5)。最終的には25万枚以上を売り上げた。

 

 秋元康は「RIVER」について、対談のなかでこんなふうに話している。(※6)

 

 ライムスター宇多丸「──アイドルソングだからといって甘ったるいものじゃないという、この感じ。その流れで決定的だったのは、僕は『RIVER』だと思うんです。『組閣』だ、『総選挙』だっていう、『戦うアイドル』像っていうのを曲のなかにメタ的に落とし込んで……」

 

 秋元康「あれはねぇ、完璧にAKBのメンバーにたいするメッセージですよ。彼女たちがもうひとつ大きくなるために、川を超えないといけない時だったから」

 

 宇多丸「──メンバーに対してなんですね。僕からすると『総選挙』とかをやるグループっていうのと曲がはじめて一致した、と感じましたが(…)」

 

 秋元康「──『総選挙』にたいする戦いではなかったと思うんですよね。何だったか覚えてないんだけど、前田敦子か高橋みなみがくじけたんだったかな。だから『ここで超えろ!』みたいなことだったんだよね。(…)──それで曲ができて、詞をつくる時に、ちょうど『川を渡れ』みたいなきっかけ、メンバーにたいする思いがあって、多分、メンバーがその詞を読んだ時に、高橋みなみも前田も『ああ、わたしたちへのエールだな』と思ったと思います」

 

 『アイドル論』 のなかで北川昌弘はこう書いている。(※7)

 

「──僕は『RIVER』で週間1位を獲得した時点をブレイクと捉えている。そのために重要だったのはやはり、08年の紅白に出場できなかったことだし、メンバーもファンもそのフラストレーションをバネに躍進したこと。そして、今までありえなかった選抜総選挙を行い、メンバー内に順位をつけたことで、音楽のないライブ的価値を高めたことの影響は大きい……」

 

 2009年12月31日、AKB48は『第60回 NHK 紅白歌合戦』に出場する。

 

 彼女たちは「アキバ」という枠から解き放たれ、逆境を跳ね返し、だれもが認めるトップ・アイドルとなった。

 

 この状況を見ていた、ショービジネス関係者はどう思っただろうか。

 

 かつてのレコードレーベルSME(ソニー・ミュージックエンタテインメント)は「逃した魚は大きかった」と考え、つぎの手を打つ。

 

 エイベックスは同社ではじめてのアイドルオーディションを2010年にひらく。

 

 秋葉原にはすでに『ディアステージ』も可動しており、スターダストでは「週末ヒロイン」が活動している。

 

 大きなレコード会社から、小さなライブ店舗まで、さまざまなショービジネス関係者がアイドルに注目し、動きはじめる。

 

 AKB48が紅白への返り咲きをはたした翌年、2010年は「アイドル戦国時代」がはじまった年だといわれる。

 

 それは、Perfumeのサクセスストーリーと、AKB48のチャレンジ精神によって開拓された、新しいアイドル市場だった。

 

 

 ──「2010年『アイドル戦国時代』【1】 戦うアイドル」につづく

 

 

 

(※1)ライムスター宇多丸の『マブ論』(2017年)p490

 

(※2)~(※4)までは、

 柴那典『ヒットの崩壊』(2016年)p58~71の一部抜粋。

 

(※3)「オリコン1位」はなぜ巨大な影響力を持つのか? 編集主幹が明かす(柴 那典) | 現代ビジネス | 講談社(2/4)

 

(※5)AKB48初のシングル首位、17.9万枚で09年女性アーティスト初動売上トップに | ORICON NEWS(2009-10-27)

 

(※6)ライムスター宇多丸の『マブ論』p495-496

 

(※7)北川昌弘『山口百恵→AKB48 アイドル論』p186 

 

 ちなみに──

 2010年、AKB48は18thシングル「Beginner」で100万枚をこえた。その後、一曲をのぞいて、すべて100万枚以上を売り上げている。(2019年時点)

AKB48 CDシングル売上枚数一覧 | 年代流行

 

 

 

 

 

 

 2008年はAKB48にとって、もっとも困難な時期だった。

 

 これまで、チームAとチームKの対抗意識によるファンをまきこんだ軋轢や、そのためチームの垣根を超えてメンバーをシャッフルしたり、メジャーデビューのための選抜を行うことによる混乱やプレッシャー、「推されメン」「干されメン」と呼ばれるメンバー間の格差など、さまざまな苦境を経験していたが、それはあくまでAKB48メンバーと運営、そして熱心なファンという内向きの話であって、外から見るかぎり順調にファンを増やし、成長してきたようにも見える。

 

 ただ、CDの売り上げは一部をのぞき2万枚前後の横ばいがつづく。

 

 2007年、年末の「アキバ枠」としての紅白出場は、彼女たちに悔しい思いをさせ、発奮の材料ともなった。

 

 と同時に、高い視聴率の紅白は『AKB48』という存在を全国のお茶の間にとどけた。

 

 そして2008年の1月24日、待望のテレビ地上波初の冠番組『AKB1じ59ふん!』が放送開始される。いよいよメジャーなアイドルへの新たなサクセスがはじまるかと思われた、そのとき──

 

 以前からくすぶっていた「AKB商法」と呼ばれるものへの批判が表面化する。

 

 2月27日、8thシングル「桜の花びらたち2008」が発売されるが、その販売の特典について、問題が起きる。

 

 ──「ランダム封入のポスターを44種類すべてコンプリートすると特別イベントに招待される」という特典が極めて完成率が低く、独占禁止法に定める「不公正な取引方法」に該当するのではないかとする指摘があったため中止されるというトラブルが発生。(Wikipedia「AKB48の歴史」より)

 

 レコード会社の自主的な判断による企画の中止とされているが、このことがきっかけで、デフスターレコーズはAKB48との契約を終了する。(※1)

 

(このデフスター=SME〈ソニー・ミュージックエンタテインメント〉の判断が、のちに「逃した魚は大きかった」として『乃木坂46』へとつながるのだが、それはまだ先のお話)

 

 この「AKB商法」へのバッシングやレコード会社からの契約解除が、AKB48がもっとも危機におちいった場面だろう。

 

 メジャーのレコード会社を失い、先の見えないこの期間はメンバーにとって大きな不安をかかえた日々だったはずだ。

 

 2008年のことを訊かれた前田敦子はこんなふうに言っている。

 

「──紅白にも出れたし、『頑張ってこれてるんじゃないの?』って思っちゃってる自分たちがいました。だから次の年はすごい苦労したなーって思いますね。08年は紅白にも出れなかったし、自分たちも、スタッフの方にもよく言われるんですけど、『もうこのまま終わっちゃうんじゃないかな? って時があった」って。(…)『桜の花びらたち2008』のころが一番、『これからどうしよう?』『もうこれ以上、上にはいけないのかな』って思っている時期だったような気がします」(※2)

 

 それでも、AKB48には劇場があった。テレビの冠番組もはじまっていた。前田敦子はドラマに出演し、メンバー個別にグラビアでも活躍をはじめている。

 

 北川昌弘の『アイドル論』によれば「──2007年8月に『週刊プレイボーイ』と『週間ビッグコミック スピリッツ』で選抜メンバーの初水着グラビアを皮切りにAKB48のメンバーはたくさんのグラビアに水着で登場し、雑誌の表紙やグラビアを総なめにしていく。(…)驚かされたのが、ビキニでの表紙登場だった…」とある。(※3)

 

 このころはまだ「アイドル冬の時代」の影響もあり、音楽展開をするアイドル的な存在は水着をさけた。モーニング娘。でも写真集では水着になったが、雑誌の表紙ではやらない戦略だったという。

 

 90年代を席巻した人気グラビアアイドルたちの高年齢化もあり、AKB48の水着グラビア進出は、同世代の少年たちに歓迎された。

 

 ちょうど2007年の7月に各メンバーが芸能事務所へと移籍したタイミングでもある。AKSから移籍したそれぞれの芸能事務所が個別にメンバーを売り込むとき、雑誌のグラビアはひとつの入り口でありプロフィール・カタログでもあった。

 

 2008年5月末には名古屋に『SKE48』が発足すると発表される。メジャーレコード会社は失ったが、劇場運営はつぎの一歩を踏みだしている。(※4)

 

 6月には「Baby! Baby! Baby!」がネット配信のみというかたちでリリースされる。

 

 その時の心境を、秋元氏はこう話している。(※5)

 

「──配信オンリーっていうのが『都落ち』ではなくて、僕にとってはすごく面白くて、『そういう時代が来たか!』とすぐに飛びついたわけ。そうこうしているうちにたまたまキングへの移籍が決まった。うちのスタッフに『今までつらい時期なんてあったっけ?』って聞くと、『「ロマンス、イラネ」が頂点で辛かったです』って言うけど、僕はなかったなあ(笑)。ずっと楽しいと思ってたんだけど」

 

 「ロマンス、イラネ」は2008年1月発売のシングル。このひと月後、「桜の花びらたち2008」で問題が起きていた。

 

 そして8月23日、日比谷野外音楽堂でのコンサートで、『SKE48』の初披露と、AKB48のキングレコードへの移籍が発表された。

 

 10月22日に「大声ダイヤモンド」が発売される。約8ヶ月ぶりのシングルCDだった。ジャケットには『SKE48』から選抜された松井珠理奈が単独で抜擢され、評判になった。松井珠理奈は当時11歳だった。

 

 「大声ダイヤモンド」はオリコンの週間シングルチャートで3位を記録した。枚数も10万枚近くを売り上げる。前作、問題となった「桜の花びらたち2008」にくらべて、3倍以上というジャンプアップだった(※6)。

 

 しかし、この年のNHK『紅白歌合戦』には出場できなかった。

 

 ちなみに、この年の紅白歌合戦には『モーニング娘。』も出場せず、10年間の連続出場がとまっている。ハロプロとしての出場もなかったため、「アイドル冬の時代」の再来とも感じさせたようだ。

 

 ただ、『Perfume』の初出場がこの年である。

 

 ブレイクをはたした「ポリリズム」は2007年の発売だが、9月であったため、人気を確かなものとして選出するのに間に合わなかったのだろう。NHKでも放送された公共広告機構のキャンペーンCMがブレイクのきっかけだっただけに、ぽっとでの出場では、エコひいきがすぎるとの批判を恐れたのかもしれない。

 

 Perfumeは2008年4月に発売したアルバム『GAME』のオリコン1位や、夏の『ROCK IN JAPAN』フェス、1万人集客などの実績をつみ、この年の紅白で「ポリリズム」を披露した。

 

 Perfumeはアイドルか、アーティストか、という議論が一部にあったというのも、このあと繰り広げられる「アイドル戦国時代」による多様化という状況を示唆するようで興味深い。

紅白からアイドル枠は消えるのか - ライブドアニュース・2008年12月

 

 ひとつはっきりと言えるのは、1970年代の『キャンディーズ』がいなければ、2000年代の『Perfume』は生まれなかった。(※7)

 

 2008年、AKB48は紅白に出場できなかった。この悔しさをバネに、2009年、彼女たちはつぎのステージへと上昇する。

 

 そして2008年は、リーマンショックによって世界経済が危機に陥り、スターダストの「ダストの方の女の子」たちが週末ヒロイン」と称して路上ライブをはじめたという重要な年でもある。

 

 新しい時代は危機のなかで芽吹いている。

 

 

 ──「『帝国の逆襲』と『新たなる希望』たち【3】総選挙から戦国時代へ」につづく

 

 

(※1)参考:乃木坂46、女性アイドルの頂点に立った必然 |東洋経済オンライン (2017年)

 

(※2)『QuickJapan vol.87』前田敦子インタビュー p59

 

(※3)北川昌弘『山口百恵→AKB48 アイドル論』p177-179

 

[参考]2008年7月・前田敦子ビッグコミックスピリッツ表紙&巻頭グラビア - まえあつ通り旧ブログ

 2008年8月・ASCII.jp:ビジュアル完成度ナンバーワン、篠田麻里子がAKB48メンバーでソロ写真集一番乗り!

 2008年10月・小嶋陽菜:雑誌「プレイボーイ45号」 | kotoraさんのブログ

 

(※4)AKB48が名古屋・栄に進出!『SKE48』プロジェクト発足記者会見のお知らせ | AKB48 Official Blog ~1830mから~ Powered by Ameba(2008年5月30日)

 

(※5)ライムスター宇多丸の『マブ論』p491

 

(※6)AKB48 CDシングル売上枚数一覧 | 年代流行

 

(※7)辺境とアンダーグラウンド【3】 ローカルとしての木村カエラ そして「ポリリズム」の奇跡 | マニファクチャード・ガールズ・クロニクル

「──伝え聞くところによれば、アミューズの創業者であり現会長の大里洋吉は、Perfumeのブレイクを大変喜んだという。大里氏は、女性三人組アイドルグループの原型ともいえる『キャンディーズ』のマネージャーであり、解散コンサートの総合演出もつとめた人物だった」

 

 

 

 

 

 AKB48は辺境の地下アイドルだった。

 

 彼女たちはいつ地上に現れ、さらにスターへと上昇していったのか。

 

 2005年12月8日、関係者65人、一般客7人からはじまった秋葉原での劇場公演は、翌2006年2月4日にはじめて満員となる。

 

 これにはフジテレビの冬イベント『HOT☆FANTASY ODAIBA』での公演や、2006年1月からのNTTドコモのCMによるプロモーション効果もある。インディーズ・デビューシングル「桜の花びらたち」がドコモのCMに採用された。

 

 4月からは2期生の「チームK」が発足し、1期生の「チームA」と競い合うようになる。チームKには大島優子が、チームAには前田敦子がいた。

 

 6月4日にはアキバ・スクエアにてチームAとチームKがはじめて合同のライブを行い1200人超を集める。インディーズ・セカンドシングル「スカート、ひらり」の発売記念イベントだった。(※1)

 

 6月9日にはテレビ朝日の「ミュージックステーション」に出演。

 

 8月20日、デフスターレコーズからのメジャーデビューが発表された。このとき、公式ブログのサブタイトルが「AKB48~メジャーデビューまでの軌跡」から「AKB48~TOKYO DOME までの軌跡」へと変更される。(※2)

 

(ここで目標としての東京ドームが明記された)

 

 8月30日、メジャーデビュー曲が「会いたかった」に決まり、このとき、はじめて20名の選抜メンバーが選ばれた。

 

 9月には、NHKとAC(公共広告機構)の環境キャンペーンCMにAKB48から大島麻衣・小嶋陽菜・佐藤由加理・篠田麻里子・峯岸みなみの5名が出演。(※1)

 

(ちなみに翌年の2007年がパフュームの「ポリリズム」だった)

 

 10月25日にメジャーシングル「会いたかった」が発売された。オリコンの週間チャートでは最高が12位だった。(※3)

 

 AKB48の誕生から、ほぼ一年でのメジャーデビューを早いと感じるか、遅いと感じるかは人によると思うが、彼女たちが一般オーディションで選ばれた素人だったことを考えれば、ふつう芸能事務所が見えない場所でおこなっているレッスンを、AKB48劇場というオープンな場でつみあげていたとも言える。彼女たちが育てるアイドルといわれる所以である。

 

 11月には日本青年館でコンサーを2日間、開催。

 

  翌、2007年3月から4月にかけて「春のちょっとだけ全国ツアー ~まだまだだぜAKB48!~」を開催。東京、愛知、大阪、福岡をまわるが、全国的な知名度は低く、東京以外では空席が目立った。(※4)

 

 4月に発売したサードシングル「軽蔑していた愛情」は、オリコン初登場8位だった。しかし、次の週には98位まで下落。一週間で90ランクダウンという記録を作ってしまう。(※4)

 

 これは、秋葉原の劇場で応援してくれるファンたちが、彼女たちのランクを上にあげようと力をつくすものの、2週目までもたず、順位が下るという結果だった。

 

 ランキングには競い合う相手がいるので順位だけではなんともいえないが、売上枚数を見ると、インディーズのデビュー曲「桜の花びらたち」が5万枚近くを売り上げ、メジャーデビュー曲の「会いたかった」が5万枚を越えた以外は、2008年の「大声ダイアモンド」のヒットまで、おおむねどの曲も2万枚前後で推移している。(※5)

 

(「大声ダイアモンド」で10万枚弱、「RIVER」で25万枚超えとジャンプアップしている)

 

 この2007年の7月、22名がAKSから他の芸能事務所へと、それぞれ移籍している。(※6)

 

 これによってメンバー個人でのメディア展開や露出がしやすくなったはずだ。

 

 秋元氏は、クリエイティブを支え、広告代理店の力を得て、AKB48をメディアに押し出すことはできた。しかし、メンバー個人それぞれを、さまざまな媒体へ売り込むことまでは人数的にむずかしい。

 

 AKSは設立の経緯を見てもわかるように芸能・メディアの業界では素人だった。この先、AKB48を大きく展開するためには、メンバー個人の露出を増やし、知名度をあげることも必要だ。

 

 じっさいファン以外には、『AKB48』という存在は知っていても、顔と名前なんて一致しない人がほとんどだった。メンバーの顔と名前を売るためには、タレントのマネジメント能力や売り込みのノウハウを持つ芸能事務所の力が必要だと考えた。そしてそれは、うまくいけば大きな利益共同体を生み出すことにもなる。

 

 ここで考えてみたいのは、フジテレビの番組が生み出した『アイドリング!!!』の影響だ。

 

 『アイドリング!!!』は2006年10月、CS放送での番組開始にあわせて結成され、2007年1月からは地上波でも深夜に放送された。

 

 『AKB48裏ヒストリー』によればファンの声として、秋葉原の劇場公演のチケットが入手しづらくなったことや、3月の全国ツアーで劇場公演が1ヶ月以上おこなわれないという事態もあって、お台場での公開収録もあり、会うことのできた『アイドリング!!!』に流れるファンがかなり出たとの話がある。(※7)

 

 『アイドリング!!!』のオープニングメンバーは芸能事務所に所属している者からオーディションで選ばれた。そのため構成メンバーの所属事務所はバラバラだった。

 

(1期に遠藤舞、横山ルリカ、2期に菊地亜美、朝日奈央、酒井瞳がいた)

 

 先にも書いたけれど、深夜とはいえ番組をつづけて見ることで、出演メンバーの顔と名前、個性などを知ることができる。ただ、アイドルの育成というよりは、バラエティ色の強い番組だった。

 

 はたして、AKB48メンバーを既存の芸能事務所に移籍させる判断や、翌2008年1月からのテレビ進出『AKB 1じ59ふん!』に影響をあたえただろうか。

 

 あるいは『アイドリング!!!』の企画立案には、秋葉原を中心としたAKB48の活躍が、熱をもった新しいムーブメントとして意識されていただろうか。

 

 のちに『アイドリング!!!』は、AKB48とのコラボをはじめ、アイドル戦国時代と言われた時期の、さまざまなグループとかかわりを持つようになる。彼女たちの存在は、地下からメジャーまでの大小さまざまなアイドルグループにステージを用意する『TOKYO IDOL FESTIVAL(東京アイドルフェスティバル)』の礎となっていく。

 

 『アイドリング!!!』の番組プロデューサーが、2010年にはじまった『TOKYO IDOL FESTIVAL 2010 @Shinagawa』の発案者であり、総合プロデューサーであった。(※8)

 

 名古屋の『SKE48』や大阪の『NMB48』など、拠点となる劇場を増やすことで全国展開をはじめるAKB48グループを「帝国」にたとえるなら、アイドリング!!!を発端とする『TIF』は「共和国」のように見えなくもない。

 

(「帝国」と「共和国」はシステムの違いであって、善悪の問題ではないので、誤解のなきよう。『スター・ウォーズ』じゃ悪役だけどさ)

 

 話をAKB48にもどすと──

 

 2007年、秋葉原のAKB48は確かに盛り上がっていた。そして年末の12月31日、NHK『紅白歌合戦』に初出場をはたす。

 

 しかし、そのあつかいは「AKB48、中川翔子、リア・ディゾン」の三組でまとめられた「アキバ枠」としての出場だった。

 

 取材の報道陣からは、「──アキバ48(よんじゅうはち)さんたちは……」と呼ばれ、「秋葉原のオタクの方たちって、…スゴイんですよね?」と質問された。

 

 メンバーが「──わたしたちのことを廊下で『お遊戯会』って…」言われているのも聞いた。

 

 このときリーダーだった高橋みなみは悔しくてたまらなかった。

 

「──みんな、メンバー全員こんなに頑張ってるのに〈アキバ〉っていうイメージでひとくくりにされるんだって、もちろん自分たちに力がなかったのが一番なんですけど……。でも、それと同時に、『軽く見られている』って思いました。〈萌え〉とか〈オタク〉とか、全部を軽視している、って。AKB48が、秋葉原が、劇場に来てくれているみんなが軽く見られているのを感じて、悔しくて悔しくて……心のなかで泣きながら、絶対に『AKB48(エーケービー・フォーティーエイト)さん』って言ってもらえるようになるって、誓いました」(※9)

 

 この紅白での歌唱時間は1分35秒だった。

 

 秋元康がプロデュースして秋葉原で劇場公演をおこなってる「企画系アイドル」、それが『AKB48』の一般的な認知度だった。

 

 熱心なファン以外にまでメンバー個人の顔や名前が浸透するには、これまでとは違うメディア展開と、もうすこしの時間が必要だ。

 

 2008年はAKB48にとって、もっとも困難な時期となる。

 

 

 ──「『帝国の逆襲』と『新たなる希望』たち【2】 挫折からの反転攻勢

 

 

(※1)『AKB48ヒストリー』p179

 

(※2)報告 | AKB48 Official Blog : Powered by Ameba(2006年8月20日)

「本日は皆様に嬉しいご報告がございます!(…)

 AKB48はこの度SONY MUSIC GROUPのDefSTAR RECORDS よりメジャーデビューすることが決定いたしました!!

 公式ブログ『AKB48劇場完成までの軌跡』が『AKB48~メジャーデビューまでの軌跡』に変わり、明日よりは『AKB48~TOKYO DOME までの軌跡』を始めます!」

 

(※3)会いたかった - Wikipedia

 

(※4)『AKBヒストリー』p53

 

(※5)AKB48 CDシングル売上枚数一覧 | 年代流行

 

(※6)メンバー移籍に関するお知らせ | AKB48 Official Blog ~1830mから~ Powered by Ameba(2007年7月3日)

 

(※7)『AKB48裏ヒストリー』p73

 

(※8)TOKYO IDOL FESTIVAL - Wikipedia

 

(※9)『AKB48ヒストリー』p58

 

 

 

 2005年7月、都内の駅や街角、そしてオーディション雑誌に、ある広告が掲載された。

 

 『秋葉原48 プロジェクト始動!』

 

 そこには総合プロデューサーとして「秋元康」の名前と写真が掲載されていた。(※1)

 

「──ほんとうは僕がプロデューサーをやっていることも伏せて、作詞も全部名前を変えて、武道館満員とか、東京ドーム公演ができるくらいになったときに、『秋元さん知ってますか? いまAKB48ってすごいんですよ!」と人から言われる、それが一番の夢だった。ただ、そのやり方だとオーディションで人がまったく集まらないという話になって…」(※2)

 

 そのポスターをある女の子が母親といっしょに見つけた。

 

「──秋元さんの名前がなかったらオーディションを受けてなかったです。言い方が悪いんですけど、募集のチラシが見るからに怪しかったんです(笑)」

 

 すっごくテレビっ子だった、と自らを語り、「懐かしのアイドル」として、おニャン子クラブも知っていた。テレビに出ている人たちをうらやましく思い、子供番組で活躍する同世代を楽しそうだなと感じていた。だが、それを口にするような子ではなかった。

 

「──中学二年生って、いろんなことに興味がわく年頃じゃないですか。私もお母さんにはだんだん自分のやりたいことが話せるようになっていて。募集のポスターはたまたまお母さんと一緒にいたときに見て、私から『これ受けてみたい』って言うまでの勇気はなかったけど、お母さんから『やってみれば?』って…」(※3)

 

 そのようにして彼女は生まれてはじめて、オーディションを受ける。前田敦子、14歳だった。

 

 彼女はインタビュアーに「モーニング娘。」に入ろうと考えたことはなかったんですか? と訊かれて、こう答えている。

 

「──モーニング娘。さんは雲の上の存在でしたから。それと、何年もかけて作り上げられたものの中に、途中から入る勇気はなかったですね。AKBはこれからできていくグループだし、私が入った時は何をやるかもまだ固まってなかったんです。演劇をみんなでやるかもしれないと最初言われていて…」

 

 募集告知には夏まゆみの名前もあった。

 

 夏まゆみはモーニング娘。の立ち上げにかかわり、「LOVEマシーン」の振り付けも担当している。彼女の名前を見て、AKB48のオーディションに参加した者もいる。(※4)

 

 その彼女がAKB48のオーディションについて訊かれ、こう答えている。

 

「──オーディションの性質からして、モーニング娘。っていうのは歌が好きで明確に歌手になりたいってコたちだったんですよ。でもAKBは、募集の内容が秋葉原とか歌って踊るとか夏まゆみとか出てるけど、やることが明確に伝わっていなかった。だからやっぱり、何がやりたいかわからないコたちで、すっごい普通のコたちでしたね…」(※5)

 

 そんななか、前田敦子をセンターとして選んだのは夏まゆみだ。その理由をこう語っている。(※6)

 

 オーディションのとき「──前田は、貪欲に振りを覚えてやろうという鬼気迫る雰囲気で練習に臨んでいて、周りの子たちの出来なんか全く気にするそぶりを見せず自分のことだけに没頭していたんです。その集中力をみて、『この子はきっと芸能界で生きていける』って思ったんです」

 

 前田敦子はインタビューの中で自分には「勇気がない」となんども言っている。しかし、彼女には指導者があたえた課題にとりくむときの集中力と、成長しようとする貪欲さがあった。

 

「──『桜の花びらたち』がはじめて振り付けがついた曲だったんですけど、夏先生が、立ち位置決めるよ、って。マイクがもらえるのが五人だけだったんですよ。その中に入れたのがすごく嬉しくて、その瞬間の嬉しさはたまらなかったです。自分は負けず嫌いだなって思います」(※3)

 

 そんな前田敦子だが、初期のファンからは、こんなふうに見えていた。(※7)

 

「──本当に何もできなかったからね。人の顔を見られないし、ボソボソ喋って何を言ってるかわからない。計算も打算も何も感じさせない普通の中学生の女の子だったんだよ。特にかわいくもなかったし、実際、前田は最初からずっとセンターだったって言われているけど、ユニットはそうだったとしても全体では上手の端の方で踊ってることもままあった。

 ただ、記憶力は抜群によかったんだよね。誰の顔と名前もほとんど覚えていた。だから客には愛されるんだけど、やっぱり何もできない。2回言っても、3回言ってもできないし、やっとできたと思って『よかったね』と言ってあげても、どうやら何がよかったのかを理解していないようなリアクションをする。もう目が離せないというか、手が離せないというか……最初から見ているような連中は、どこか前田を溺愛している部分があると思う」

 

 最初はセンターに立つのが嫌だった。ユニット曲のセンターに立つだけで「もう嫌すぎて大泣き」した。(※3)

 

 初回公演から、2回、3回とつづけるうちに、どんどんお客さんが減っていき、8人くらいしかいなかったころには、「私たちよりお客さんのほうが少ないよ」「もう辞めたほうがいいんじゃないの?」とみんなで泣いた。(※3)

 

 年が明け、お客さんの数が増えたころには、2期生「チームK」のオーディションがはじまる。彼女は愕然とした。はじまってたった3ヶ月で「新しいコを入れる」と言われて、「えっ? 私たちじゃダメなの?」と感じ、悲しくなった。(※8)

 

 ただ、じっさいに誕生した「チームK」に刺激をうけ、「あ、負けてられない」と彼女にライバル心が生まれる。(※3)

 

 この1期生「チームA」と2期生「チームK」のライバル関係が、ファン同士の対立も生みながら、のちのちまで影響を与える。チームAにはAKB48不動のセンターといわれるようになる前田敦子。チームKには並び立つエース、大島優子がいた。

 

 その後、チーム編成の変更や、メディア進出、コンサートの会場も大きくなっていく。彼女はそこで、さまざまな「喜怒哀楽」を経験した。

 

 2009年に、はじめての「選抜総選挙」が行われたときには、「なんで人気投票なんてしなくちゃいけないんだろう?」と思った。

 

 しかし、そこで1位になることで、前田敦子のセンターはお墨付きを得た。「私も、ファンの方に少しずつ認められているんだなっていうことをわかれたので、それは嬉しかったです」(※3)

 

 同時に心無いアンチからの声も聞くことになった。第1回総選挙では、2位発表時に彼女を望む「前田コール」が起こっていた。(※9)

 

 同じ2009年に、武道館コンサートをおこない、年末にはNHK『紅白歌合戦』にも出場した。

 

 2010年の第2回「選抜総選挙」では2位となった。目に涙を浮かべたが、決してこぼすことはなかった。バックステージでは、1位の大島優子を抱きしめた。(※10)

 

「──あそこで優子を抱きしめたときは、素直に『おめでとう』って気持ちでした」

 

 そして、2011年6月。第3回『AKB48選抜総選挙』で、前田敦子は1位に返り咲く。そこでのスピーチが多くの人々の胸に強く刻み込まれる。

 

「──もちろん、私のことが嫌いな方もいると思います。ひとつだけ、お願いがあります……。私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください!

 

 彼女の言葉にはAKB48のファンを超えて、事情をよく知らない一般的な視聴者にまでとどく、成長の痛みと、想像を超えて人気者になることの苦しみ、そして仲間への愛情があった。

 

 前田敦子はスターになった。

 

 翌年の2012年3月23日、埼玉スーパーアリーナでコンサートが行われ、そこで8月の東京ドームコンサートの決定がアナウンスされた。(※11)

 

 東京ドームはAKB48が当初から掲げていた目標であり、前田敦子の夢だった。(※12)

 

 そして3月25日、同じ埼玉のコンサートのなかで、前田敦子はAKB48からの卒業を発表する。

 

 2012年8月24~26日、東京ドーム・コンサート『AKB48 in TOKYO DOME ~1830mの夢~』に出演する。彼女は4万8000人の観客にかこまれて、3日間、歌い、踊った。

 

 東京ドーム・コンサートが終わった翌日、8月27日、彼女は秋葉原での劇場公演を最後にAKB48を卒業した。21歳だった。(※13)

 

 前田敦子のいた7年が、辺境の小さな王国の誕生から、勃興、挫折、そして帝国へと拡大し君臨するAKB48の成長期だった。

 

 村上龍の小説『愛と幻想のファシズム』にこんな一節がある。

 

「まだ兵士達は若い

 だが彼らの顔には輝きがある

 彼らは全体のために戦っているからだ

 夢を追っているわけではない

 急激な上昇気流に乗って、それを楽しんでいるのである」

 

 彼女たちがどれだけ楽しむことができたかはわからない。でも、東京ドームのステージに立つまでになったとき、彼女たちを翻弄し苦しめつづけた嵐が、急激な上昇気流であったことを、たしかに感じていたはずだ。

 

 

 ──「『帝国の逆襲』と『新たなる希望』たち【1】 AKB48とアイドリング!!!」につづく

 

 

(※1)応募告知 | AKB48 Official Blog ~1830mから~ Powered by Ameba(2005年8月24日付)

 

(※2)『QuickJapan vol.87』秋元康インタビュー p73

 

(※3)『QuickJapan vol.87』前田敦子インタビュー p55-59

 

(※4)『48現象 AKB48の真実』p92

 

(※5)『48現象 AKB48の真実』夏まゆみインタビュー p49

 

(※6)モー娘。&AKB48“育ての親”が語るアイドルの資質~なぜ前田敦子を選んだのか? | ORICON NEWS

 

(※7)『AKB48 裏ヒストリー』p21

 

(※8)『AKB48ヒストリー』p22

 

(※9)『AKB48 裏ヒストリー』p140

 

(※10)『AKB48ヒストリー』p155-156

 

(※11)『AKB48 裏ヒストリー』p195

 

(※12)AKB48 オフィシャルブログのタイトルは2006年8月から「AKB48~TOKYO DOME までの軌跡」だった。2012年8月の東京ドーム公演以降、前田敦子の卒業公演が行われた27日は、1日限定で「祝前田敦子 AKB48卒業」としていた。28日より現在まで掲げられている「~1830mから~」は秋葉原の劇場から東京ドームまでの距離をしめしている。

AKB夢実現で6年ぶりブログ名称変更 | ORICON NEWS

 

(※13)この日、──劇場の外ではちょっとしたパニックになっていた。最後に前田敦子の姿をひと目でも見よう、と劇場の周りをとんでもない数の人たちが取り囲んでいたのだ。(…)「劇場の周りでトラブルが起きるなんて、なんだか昔みたいだねって、笑ってました。警官が群衆に向かって『前田敦子は出てこないから解散しなさい!』と注意した直後に、裏のバルコニーからあっちゃんが出てきて、警官も面食らった表情になったり(笑)。本当になつかしいというか、昔のAKBらしい現場を見させてもらったなって感じですね。あれこそがあっちゃんの置き土産だったのかな」

『AKB48 裏ヒストリー』p182

 

 

 余談。

 前田敦子の14歳でのデビューから、21歳でのアイドル卒業は山口百恵と同じである。ちなみに欅坂46の平手友梨奈も14歳でデビューしている。