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エフォートアカデミー塾長日記

静岡県三島市の学習塾「エフォートアカデミー」のブログです。
塾での出来事やお知らせを、私塾長の鈴木がお知らせいたします。
エフォートアカデミーのホームページは、
http://www.effort-aca.com
です。よろしくお願いいたします!

昨日は金曜日、授業終了後に次男と毎週恒例の「ゆで太郎」にお蕎麦を頂きに行きました。もはや私と次男にとって、これだけが1週間の「唯一の楽しみ」になっています(笑)。そこで、ちょっと面白いことがありました。

 

私たちが食券を買う直前に、10人ほどの集団が食券を求めていました。券売機は2台設置されているので、私たちは空いている方の食券機で食券を購入し、彼らより早くオーダーしたのですが、彼らはどうやら同じ会社の同僚同士だったらしく、お揃いのスタッフパーカーを着用し、背中にはご丁寧に会社名までプリントされておりました。

 

オーダー自体は私たちの方が早く、彼らのうち数人はまだどの蕎麦にしようか選んでいる段階だったので、私たちが席に座って出来上がりを待っている時にも、まだ券売機の周囲をウロウロしていたのです。

数分して私の番号が呼ばれ、お蕎麦を取りに行ったのですが、なぜか私のお蕎麦がないのです(笑)。ふと見ると、前述の集団の中の一人が、嬉々として私の大切なお蕎麦を奪っていったのでした(笑)。

 

きっと「極めて頭が悪い」んだと思うのですが(笑)、受付に食券を提出してすぐにお蕎麦が受け取れるシステムだと思っていたらしく(笑)、何の確認もしないまま私のお蕎麦を「強奪」したらしいのでした(笑)。私のみならず、お蕎麦を作っていた従業員の方々も困惑顔で、私から事情を説明する前に、

 

「大変申し訳ございません、すぐにお作り致します!」

 

と実に丁寧にお詫びされてしまいました。いやいや、あなた方は全く悪くないんだけど(笑)。

 

その後の展開が実に面白かったのですが、私自身は「こんなアホもいるよね~」くらいの感覚で何とも思っていなかった一方で、彼らの中の数人は、

 

「ちょっとおかしくない?」

 

ということにすぐに気づいたようです。そりゃそうです、他の人は注文から10分程度は待たされているのに、一人だけ「即時提供」されているのですから、違和感を感じない方が不思議なのです(笑)。私のお蕎麦を「強奪」した本人も、お蕎麦に手も付けられず、ただただ同僚の皆さんのお蕎麦が到着するまで下を向きながら待っている(時折こちらをチラチラと見ながら)様子が、何とも「マヌケ」に見えました(笑)。入店時はうるさいくらいの大騒ぎだったのに、今や全員「ヒソヒソ話」になっているのも実に滑稽に見えてしまいました(笑)。

 

誰にでも「間違い」はあるもので、その点は仕方がないことであり、私自身もちっとも怒ってはいないのですが、デカデカと会社名がプリントされているパーカーを着用している集団が、意図的でないとはいえ、飲食店で他人様に迷惑をかけてしまったのであれば、ひと言お詫びした方がいいのではないのかな~と、ちょっと考えてしまいました、まあ、面白かったからいいんだけど(笑)。

 

「まったく、これだから「Z世代」は!」

 

そんな風に怒っていたのは、実は私ではなく次男の方だった、金曜日の夜なのでした(笑)。

 

いや、次男もまごうことなき「Z世代」だと思うんだけど(笑)。

 

頑張りましょう!

本日は比較的時間に余裕がある「はず」だったのですが、授業前にまたしても「とんでもない」ことが起きました(笑)。

 

自宅に妻は居たものの、母が妻の目を盗んで密かに「外出」してしまい、急遽長男と妻が捜索に出るという「非常事態」がありました。財布に仕込んでいたGPSによると、いつものパターンとは異なり、かなり遠くまで歩いて行ってしまっているようで、家族の間には少なからず緊張感が走りました。

 

現状では私のスマホにしか母の「現在地」は表示されず、加えてAirtagのため、リアルタイムの情報ではなく、早くても数分おきの情報のため、探し出すのにかなり難儀しました。ようやく自宅から数キロ離れたスーパーで発見し、事なきを得た次第です。

 

母曰く、「食べるものが何もない」とのことですが、連日私たちの目を盗んではスーパーに出かけ、日持ちがしない生ものや総菜ばかりを買ってくるので、家族としてはその処分に頭を痛めているのです。しかも買ってきたものはすべて「自分のため」ではなく「家族のため」だそうで(笑)、母自身は一切口にしないのです。口にしないどころか、

 

「そんなもの、私は食べられるか!お前たちのために買ってきてやったんだ!」

 

というい信じられない口ぶりで、家族のストレスもマックスなのです(笑)。

先日、私から(家族の中でも、私の注意は比較的聞く傾向が強いので)かなり強く注意し、その場では理解したように見えたのですが、その「効果」は3日と持ちませんでした。だからこその「認知症」なのかもしれませんが、このままでは仕事や生活全般に影響が出てしまいます。何とかしなければなりませんが、現状において効果的な対策は思いつかないというのが実情なのです。

 

今のところ、迷惑が及ぶのが「家族限定」なのが唯一の救いではあるのですが、今後さらに病状が悪化すれば、他人様に迷惑を及ぼすのは必須です。主治医やケアマネージャーさんとよく相談しながら対策を講じていかなければなりませんが、とにかく認知症でありながら、体だけは丈夫だということが、これほど大変だとは思いもせず、実際に経験してみて「初めて知る」ことがあまりにも多いのです。

時々数年前の事をまるで昨日のことのように嬉々として話し出す母の姿を見る度、「出口が見えない問題」にいかに対処していくべきか、ただただ頭を抱える私なのでした(笑)。

 

もう冷蔵庫には物を入れるスペースが残されていないんだよ(笑)。

 

頑張りましょう!

私は高校時代、野球に明け暮れていましたが、日々の練習の中でも極めて厳しい「躾」を施されてきました。

世が世なら、「虐待」や「パワハラ」と糾弾されてしまうかもしれませんが(笑)、一方で「合理的理由」もあったように、今更ながら感じているのです。

 

当然のことながら、「本番」である試合においては、いつも以上に「緊張感」が高まるものです。それでいて、「いつも通り」いや「いつも以上」のパフォーマンスを発揮しなければ、試合に勝つことはできないのです。そのためには日々の練習から、「本番を想定した備え」をしておかなければならないのは当然のことなのです。

 

受験に関しても同様で、本来持っている「能力」がテストにおいてきちんと反映されていない(テストが苦手)と感じている人は、日々の学習への取り組み方において、大きな問題があると考えるべきなのかもしれません。

言うまでもなく、入試「本番」ともなれば、これまで感じたことがないような「緊張感」に苛まれることになるでしょう。そのような状況において、いかに実力を発揮することができるのか、そのための訓練を重ねていたかどうかが「モノを言う」ことになるのです。

 

日々の学習において、単なる「ルーチンワーク」だと捉え、イヤイヤながらも決められた時間だけ机に向かう、という姿勢だけでは、いつまでたっても「本番に強い」メンタリティーは醸成されないと、私は考えるのです。

演習問題ひとつ行うにしても、「標準解答時間」が「50分」であれば、「40分」に短縮して取り組んでみるとか、どんな事情があるにせよ、一日20個の「新出英単語」を覚えなければ、その日の勉強は終われない等々、自らに「圧」をかけ、ある種の緊張感をもって取り組むことが、「本番を想定」した場合、極めて重要な論点になると、私は考えているのです。このような小さな積み重ねのひとつひとつが、入試や定期テスト等の「緊張した場面」において、自らの実力を遺憾なく発揮できる素養となるのであり、「本番に強い」競技者や受験生と成り得るのだと思うのです。

 

「のびのび楽しく!」も大いに結構、ただし、「本番」においてのびのびと実力を発揮できるのは、日々の「緊張感」の上に成り立つということを忘れてはなりません。換言すれば、誰もが平常心でいられないような環境においても、きちんと持てる「能力」を発揮できることこそ、「有能」だと言えるのではないでしょうか?

 

日々ダラダラと、何の緊張感もなく過ごす人が、「本番」の時だけ「実力が出せない!」などと言っても、そんなの「当たり前」なのです。世の中そんなに甘くはありません(笑)。

 

頑張りましょう!

先日、以下のようなニュースを目にしました。

 

マイナー競技故、資金やマンパワーが常に不足している事情は理解できますが、それが選手生命を左右するような「致命的ミス」を許容する理由にはなりません。一部で、

 

「選手自身が出場資格を確認しなかったのが悪い!」

 

などという暴論を吐く方が散見されますが、そうであれば出場大会の選択等、ある種の強制力を伴う権力を持つ競技団体、ひいてはJOCそのものが不要になるということで、そのような「言い訳」は全く通用するものではありません。今般の文字通り「取り返しのつかない事態」を、いったいどのように収めるつもりなのでしょうか?

 

受験においても、時折信じられないような「失態」について報道されることがあります。

 

まさに人生を左右する「受験」において、ごく一部の「ポンコツ教師」による失念のために、出願さえできなかったという事態は、法的に「金で解決」することはできても、その後の子供自身の長い人生において、拭い難い「暗い影」を落としてしまうことになるのです。故意ではないとはいえ、このような絶望的な「不注意」を招いた輩を、子供の学習を指導させて頂いている立場として、決して許してはならないと強く感じます。

 

「受験」でのケースにおいては、その手続きの大部分を「学校経由」で行うことを半ば強制している学校が少なくないのは実に大きな問題だと捉えています。学校としては、その責任はいわゆる「調査書」の発行だけにとどめ、出願自体は受験生本人の責任において各自行ってもらうのが最も合理的だと考えるのは、果たして私だけでしょうか?大事な生徒の「出願手続き」さえ忘れてしまう「ポンコツ」であることを大いに自覚していただき、ヒューマンエラーの可能性を極力減らすべく、リスクを分散するのは「当たり前」のことなのです。

 

オリンピックを目指して心血を注いできた選手たちに、いつの日か「報われる日」が訪れること、そして今年の受験においては「出願ミス」などというバカげた事態が発生しないことを心から祈る私なのでした。

 

頑張りましょう!

学習とは全く関係ない話です(笑)。

こちらの映画をご覧になった方はいらっしゃるでしょうか?

 

沼津市や富士市を舞台とした、現代の「ヤクザ映画」です。沼津市出身の俳優である磯村勇斗さんも出演されています。5年ほど前の映画で、現在はネットフリックスなどで配信されています。私もこの映画の存在は存じ上げてはいましたが、先日初めて鑑賞することができました。

 

ロケの中心はまさに私の居住する場所の「近所」であり、小学校以来の友人(お子様を当塾にお預け頂いたこともありました)の造船所でのシーンもあり、「誰も救われない」実に悲しいストーリーとともに、ノスタルジーな感情にどっぷりと浸かってしまった作品でありました。私がどんなところで暮らしているのか、興味がある方はぜひこちらの作品をご覧ください(笑)。

 

「ヤクザ映画」といえば、派手な立ち回りと、主人公の「豪放磊落」さが「定番」ですが、この映画は従来の「ヤクザ映画」とは一線を画し、暴対法施行以降の「ヤクザの凋落」を克明に描いていました。我が故郷はいわゆる「港町」であり、かつては「ちょっとおっかない人たち」が大勢いたものです(笑)。この映画のストーリー同様、少し前までは風を切って街を闊歩していた「ヤクザ」たちが、今や「風前の灯」となっています。彼らに代わり、街には「不良外国人」と「反社」と思しき輩が幅を利かせています。これは本当に私たちが求めた「街の姿」だったのか、今一度考えてみる必要があるのかもしれません。

「ヤクザ」が必要悪などとは決して思いません。「しでかしてきたこと」のツケは、きっちりと払うべきなのは当然のことです。一方で、実に皮肉なことに街が活気に溢れ、なぜか比較的安全だったのも、また「ヤクザ」がいた時期であったことも確かなのです。

 

綾野剛さん演じる主人公が、長年の刑務所暮らしから解放され、沼津に戻った時、街の様子は一変し、「ヤクザ」が「ヤクザ」でなくなったとしても、もはや「平凡に暮らす」ことさえ許されなくなってしまった「現実」は、いったい誰を「幸せ」にできる「現実」なのだろうと、考えさせられる映画でした。

決して許されることがないであろう主人公の人生をなぞるように、沼津や富士の街並が、かつての繁栄を失い、ともに没落していく情景が印象的に描かれていた映画のように、私には感じられました。ネットフリックスに加入されている方は、ぜひ一度ご覧になってください(私はネットフリックスの「回し者」では決してありません(笑))。

 

人間はこの世にオギャーと生まれ、逞しく成長し、やがて老いて死んでいきます。きっと「街」も同じなのでしょう。「寂れていくこと」もひとつの「選択肢」だと、私は考えているのです。そして、そんな「寂れた姿」にこそノスタルジーを感じ、同時に「美しい」と感じるのは、果たして私だけでしょうか?

 

頑張りましょう!

勉強やスポーツにおいて、「指導者」から厳しい叱責を受けた経験がある人は少なくないと思います。かく言う私自身、高校時代は非常に厳しい指導を受けた身であり、その具体的な「指導内容」は、とてもブログには書けません。世が世なら、間違いなく「事件」になっていると思います(笑)。あくまで「昭和」での出来事ですから、もはや「時効」だと思いますが、その「実に厳しかった指導」を、今となっては心から感謝しているのだから、本当に不思議なのです(笑)。

 

なぜ「厳しく指導」されるのか、そもそも「指導」されるということは、まだまだ改善の余地があるからに他ならないでしょう。「こりゃ、ダメだ!」と判断されたのであれば、指導する側としてもわざわざ恨まれるようなことはしたくないはずなので、「無視」や「無関心」を決め込むはずなのです。何事につけても「相手にされている」ということは、「期待されている」ことの証左であることは疑いようのない事実だと思うのです。

 

もちろん、今のご時世、何事においても「やり過ぎ」は決して許されません。けれども、厳しいと感じた叱責(この場合、叱咤激励と言った方が良いのかもしれません)を受けた時、その不躾な言葉にどんな意味があるのか、ほんの少しだけ考えてみてもらいたいと、強く感じます。

私は高校時代、野球に明け暮れましたが、皆さんご存知の通り、高校野球は一度でも負けたら「即終了」の世界です。言わば、たったひとつのミスが「死」に直結するといっても過言ではありません。たったひとつの「気の抜けたプレー」が万死に値するという事実を、恩師は実に厳しく、同時に愛情をもって私たちに教えてくださいました。実に凡庸な選手だった私たちが、その「真意」に本当の意味で気づくのは、実に情けないことに卒業した後だったのですが、それでも「大切なことを教えてくれた」恩師には、今でも感謝の念が絶えないのです。

 

「良薬は口に苦し」という言葉があります。誰にとっても苦言や厳しい指導は決して愉快なものではありませんが、それはあなた自身が「まだまだ伸びる!」と判断されているからに他ならないからだと、私は考えているのです。厳しい指摘さえ一度はぐっと呑み込んだ上で、自らの成長の糧とすることが大切だと、私は考えているのです。耳触りのよい言葉だけが、人間を成長させるとは限らないということを知るべきでしょう。

 

「好き」の反対は、「嫌い」ではなく「無関心」だとは、よく言ったものです(笑)。

 

頑張りましょう!

年末から年始にかけて、少々イライラさせられることが続きます(笑)。

年度末にかけて、あたかも「予算」を使い切ることが義務付けられているかの如く、当地のような田舎においてもあちこちで道路の工事が行われています。舗装をやり直したり、下水道を整備したり、各々必要な工事であることは重々理解してはいるのですが、田舎の一本道で数百メートルごとに複数の工事個所があれば、そりゃ渋滞もします(笑)。同じ道路上でやるならば、なぜ時期をずらせないのか、我々庶民には計り知れない「闇」があるのでしょう(笑)。

 

そんな普通ならイライラしっ放しの状況の中で、ほんの少しだけ「ほっこり」した光景がありました。

何度も通過せざるを得ない生活道路で、昨年末からずっと工事をしているのですが、その場所では必ず「交通整理」の方が車を誘導しています。通常ならば比較的高齢の方が多いのですが、私の自宅近くで働いている方は20代前半と思しき女性、それも金髪をなびかせ、メイクもばっちりの、大変失礼ながら少々「場違い」な容姿で仕事をされていたのでした。

最初に見た時は学生のアルバイトかと思ったのですが、どうやらそうではなさそうで、実にしっかりと交通誘導をしてくれています。高齢の方の場合、やや判断力が衰えているように見える方もいて、少し危ないな、と感じることもあったのですが、この方の場合はそんな心配も皆無でした。彼女の年齢ならば、もっときれいな格好をして、おしゃれな仕事をしたいのではないかと思ってしまうのですが、他のおじ様たちと同様に、ヘルメットと防寒着を着用して、賢明に仕事に勤しむ姿を見る度に、何の関係もない私でさえ何だか嬉しくなってしまったのでした(笑)。

 

先日、いつものように工事個所を通ると、彼女はちょうど「休憩時間」だったようで、道路脇にちょこんと腰を下ろして缶コーヒーを飲んでいました。そして彼女の隣には、ご主人あるいは恋人と思しき、これまた作業服姿の男性と仲睦まじく話している姿を目にしたのです。交通整理をしている時のやや緊張した表情とは打って変わって、リラックスされたとても良い表情であったのが印象的でした。

「みてくれ」や「カッコ」ばかり気にする若者が溢れる中で、将来を約束したであろう若い夫婦や恋人たちが、決して小奇麗とは言えない仕事場で、汗水垂らして頑張っている姿が、私にはとても眩しく感じました。ただただイライラしっ放しだった工事現場が(笑)、私にとってほんの少しだけ「ほっこりできる」場所に変わりました。

 

人間にとって、本当の意味での「カッコよさ」とは、いったい何なのでしょうか?もっと言えば、人間にとっての「幸せ」とは何を指すのでしょうか?彼らはきっと「裕福」ではないのでしょうが、だからといって「不幸」だとは言えないと思うのです。埃塗れになりながらも、「愛する人」と一緒に飲む「缶コーヒー」は、きっとどんな高級なコーヒーよりも美味しいことでしょう。「幸せ」とは、きっとそういうことなんだと、私は考えているのです。

 

道路工事の現場で目にした、ちょっと派手目なお嬢さんと、その彼氏(ご主人?)さんの末永い幸せを願わずにはいられない私なのでした。

 

人の「幸せな様子」って、なんか「ほっこり」してしまいますよね(笑)。

 

頑張りましょう!

 

母が認知症に罹患して以来、これは決して「治ることがない病気」であることを思い知らされる機会が多く、また医師からもはっきりとそのように宣告されてしまっています。これは誰が悪いわけでもなく、「当たり前のこと」であり、そのような事実を受け入れつつ、介護する側が心して事に当たらなければならないということを示唆されていると、私は考えるのです。

 

翻って、塾には様々なお子さんが来塾します。「学習能力」も「家庭環境」も、「価値観」だって様々、自他ともに認める「良い子」もいれば、お世辞にも学校での評判が良いとは言えない、愛すべき「悪ガキ」だって在塾しているのです(笑)。

置かれた環境も、現在の学力も様々だけど、皆が皆、

 

「今日よりも、明日はきっと良くなる!」

 

可能性を大いに持った若者たちであることは厳然たる事実なのです。

今、何らかの学習上の問題を抱えているのであれば、それを正す「努力」をしなければいけないのは当然のことですが、換言すれば、「それさえできれば」どの子にだって計り知れない「可能性」があるということなのです。

「治らない病気」ならば、せめて「現状維持」を目指す、言わば「後ろ向き」の対応をせざるを得ませんが、大いなる「改善の可能性」を秘めているのであれば、それを簡単に諦める手はないのです。一瞬で物事が解決するような「魔法」などあるはずがありませんが、日々の「問題解決のための努力」の積み重ねは、半年後、1年後に必ず成果として現れます。「治らない病気」ではないのですから。

 

今の世の中、栄養失調で餓死する人などほとんどいませんが、一方で「夢」や「希望」を失った時、人間は自ら人生の終焉を選択してしまうことが少なくないのです。これは極めて大きな問題であり、実に悲しい現実なのです。

 

「今日より明日は、きっとよくなる!」

 

といいう希望さえ持つことができれば、未来はきっと明るくなる!と固く信じている私はいささか楽観的過ぎるでしょうか?(笑)。それでも、こと勉強に限って言えば、今頑張っていることが、近い将来に必ず花を咲かせることを、私は何度もこの目で見ているのです。若いからこそいくらでも「改善できる」、若さの「特権」をぜひ皆さんに享受していただきたいと、強く感じた金曜日の午後なのでした。

 

頑張れば、いくらでも「道」は拓けるのです!何をすればよいか迷った時は、ぜひお気軽にご相談ください。

 

頑張りましょう!

当塾ではこれまで何らかの事情で「学校にいけない子」を数多く指導させて頂きました。そんな子たちの「学校にいけない理由」の多くは「人間関係」でした。

これは子供に限らず、大人になってからも大いに悩まされる問題でもあります。かく言う私自身だって、思わず、

 

「無理!」

 

と感じてしまうキャラクターの方がいます(笑)。これが「時々顔を合わせる」程度であれば我慢もできますが、連日相対しなければならないと思うと、それこそ「胃に穴が開きそうな」気分になってしまうのです(笑)。

 

学校生活の中で、心身両面において「危険」を感じるようなことがあれば、躊躇することなく「逃げる」ことを、私は常々推奨しているのです。学校自身が「あるべき姿」ではないのだから、そんな場所に長居する必要はありません。

 

それでも、実に残念なことに、社会に出れば次々に「無理な人」に出くわしてしまうのは「世の常」なのです。結局のところ、学校であろうが社会であろうが、「汚い部分」は共通であるのかもしれません。

一方で、人間は決して一人では生きていけません。直接・間接問わず、何かしらの「他者との干渉」がなければ、ただ単にボーっと生きていく(ただただ「生きているだけ」ということ)ことさえ「ほぼ無理」なのです。つまりは、どんな嫌な連中であろうとも、どこかで一定の「繋がり」が、嫌でも生じてしまうことになるのです。

 

「価値観」も「人生観」も「倫理観」も大きく異なる連中と、いくら腹を割って話したところで、「わかりあえる」はずがありません(笑)。ここはある意味での「諦観」が重要だと強く感じます。これは決して悪い意味ではなく、言わば「前向きに諦める」ということです、何だかわからないかもしれませんが(笑)。

「どうせ分かり合えない連中」に時間と労力を割くこと自体が「壮大な無駄」であることは確かですし、意味がないことなのです。むしろそのような連中との関わりを最小化するために時間と労力を割く方がよほど生産的だと、私は考えているのです。それが「全力で逃げる」ことだと感じるならば、迷わず「逃げる」べきだと思いますし、いわゆる「スルースキル」を身に着けることも重要だと思います。

 

「学校に行けないこと=勉強ができない」では決してないのです。勉強から「逃げた」訳ではない子は、ぜひご相談ください。

 

「逃げる」ことは大事ですが、それでも人間は、生きていく上では命懸けで戦わなければならない時があるはずです。けれどもそれは、「無理な人」を相手にすることではないのです。奴らにそれほどの価値はありません(笑)。「本質」を見失わないようにしましょう。

 

頑張りましょう!

最近は私立中学や中高一貫校に在籍する塾生を多く指導させて頂いていますが、その多くは(いや、ほぼ確実に)「先取り学習」をしています。

このブログでも再三書かせて頂いている通り、私自身は「先取り学習」に対して必ずしも肯定的ではないのです。先を急ぐあまり、どうしても基礎的な部分が疎かになったり、未習熟のまま先の単元に進んでしまうことがあまりにも多いからです。そうなると、結局は塾に頼らざるを得ず、当の生徒自身が大いに苦労するという結果に行き着いてしまうのです。

 

もっとも、「学習スピードは速い」けれど、その分は学校側でしっかりとフォローし、極力「おいてけぼり」をなくそうと努力されている学校もありますし、それはそれでひとつの「教育方針」ではあります。特に高校では、2年次までに高校における学習課程を概ね終了させ、3年次には受験勉強に特化するという手法は、ある意味で合理的だと言えるのかもしれません。ただし、繰り返しになり恐縮ですが、このような手法を採用できるのは、学校側がきちんと生徒の学習をフォローできている場合に限ると、私は考えているのです。

 

あくまで私が「感じたこと」ではあるのですが、特に学力別にクラスを分けている学校の場合、学力下位のクラスにおいては、その指導がやや杜撰であるケースが多いような気がしています。(ちなみに、私自身は「学力別クラス」については決して否定的ではなく、むしろ合理的だと考えています。「学力別クラス」自体を批判している訳ではないので、その点は誤解のなきように)

 

さすがに「乗法公式」や「因数分解」をきちんと習熟しないまま、いきなり「二次方程式」を解け!と言われても、そりゃ無理ってもんです(笑)。先生からすれば、

 

「そんな簡単なところは自分自身で勉強しとけ!」

 

という指示なのかもしれませんが、ならば無理に先を急ぐようなことをせずに、きちんとひとつひとつ理解を進めていけばいいのに・・・と感じてしまうのです。「先取り学習」には決して無視できない「利点」はあるものの、一方で「とても困っている生徒」が少なからず存在している事実を忘れてはいけません。せめて学力下位のクラスだけでも、少し学習スピードを抑えて、「基礎を固める」ことを重視した方が、後々を考えればより合理的だと思うのは、果たして私だけでしょうか?

 

「超特急」で授業を進めて、あとは「良きに計らえ」では、生徒が一番困ってしまうんだよね、先生は楽かもしれないけれど(笑)。

 

頑張りましょう!