コミュニケーションの齟齬というのは、時に思いもよらぬ「悲劇」を生み出してしまいます。
入試において「面接試験」は必須であり、にもかかわらず「当たり前」の応対ができない子があまりにも多いのは非常に大きな問題であるとともに、ご家庭における「躾」について、再考しなければならないと強く感じているところです。
「入試での様子はどうだったのですか?」
という質問に、
「難しかった。」
ならまだしも、全ての質問に、
「普通・・・」
あるいは
「わからない」
だけで押し通そうとする子の姿勢・態度には、心配を通り越して戦慄さえ覚えてしまうレベルなのです(笑)。
全ての会話を「単語」のみで済まそうとしているのは、単に勉強ができるかできないかの問題にとどまらず、基本的なコミュニケーション能力の決定的な欠如を意味します。さらに問題を大きくしているのは、このような態度を常日頃から「当たり前」だと思っている子が誰彼構わず同じような態度をとってしまうということなのです。それが自らの将来にとって極めて重要な、入試における面接試験であっても、「偉い方」とお話しする場合であっても、同様な態度をとってしまうのです。病気の場合も同様だと思いますが、「自覚がない」というのが最も恐れるべきことなのだと、改めて痛感しているところです。
勉強も大事ですが、時と場合によって対応の方法を変えていくというのは、ある意味での「生きる術」だと思います。個々の様々な能力はともかく、周囲の人間に可愛がられたり、一定の評価を得られる人というのは、当然のことながら「普通のコミュニケーション」ができる人であるはずなのです。自らの「真意」が周囲から理解されず、一人でイライラしている子を散見しますが、それは果たして「自らを理解できない周囲」が悪いのでしょうか?きっとそうではなく、全てが「うまくいかない」原因は、自らのコミュニケーション能力の決定的な不足と、あまり乏しすぎるボキャブラリーに起因するものだという事実をしっかりと「自覚」してほしいと強く感じます。自らを理解してもらうには、相応の努力が必要であることを決して忘れてはなりません。「メシ、ク〇、風呂」などという、昭和の頑固オヤジのような単語のみの口調では、令和の時代は生き抜いていくことが難しいという事実を、さっさと認識していただきたいと思うのです(笑)。
もっとも、このような子供の対応を、漫然と、長年にわたって「許してきた」のは他ならぬ「親」であるのは間違いがありません。ハッと気がついた「今」からでも遅くはないので、ご家庭においても「きちんとした会話」を徹底していただきたいと、強く願います。そのことが受験においても必ず「役に立つ」時が来るはずですので。
頑張りましょう!

