エフォートアカデミー塾長日記

エフォートアカデミー塾長日記

静岡県三島市の学習塾「エフォートアカデミー」のブログです。
塾での出来事やお知らせを、私塾長の鈴木がお知らせいたします。
エフォートアカデミーのホームページは、
http://www.effort-aca.com
です。よろしくお願いいたします!

冒頭から恐縮なのですが(笑)、結局のところ人間は一人では生きていけません。人間関係の中には「極力避けたい!」と感じてしまう存在が必ずいるはずなので、そのような方々との接触は何としても回避したいところですが、万止むを得ない理由でそのような方々とも一定の交流を持たざるを得ないことも少なからずあるはずです。

 

私自身も「嫌いな人」とは極力関わらない派なのですが(笑)、好き嫌いは関係なく、自らの周囲の人間の「関わり方」によって、自分自身のあり方に少なからず影響(良い面も悪い面も)を受けるという事実については、しっかりと認識しているつもりでいます。

 

勉強でもスポーツでも、覇権を争って切磋琢磨する関係性は、文字通り「お互いを高める関係性」だと言えるでしょう。このような関係性の下では、もしかしたら親しく懇談する機会などなく、常にお互いの動向が気になって仕方がないという、少々歪んだ関係性なのかもしれませんが(笑)、それでもお互いがお互いを認め合い、「ライバル」たるに相応しい、お互いにとって成長が期待できる関係性だと言えるでしょう。

 

一方で、「今が楽しければ、それでいい!」という極めて刹那的な関係性の中では、お互いが成長し合える関係性とは言えないのではないでしょうか?単に「怠惰」と「妥協」にまみれた関係性の中では、その場の「楽しさ」以外の効用は生まれるはずがないのです。言わば、このような「ぬるま湯」にどっぷり浸かっている子にとっては「努力」や「継続」などという言葉とは全く無縁であり、進学や就職の際に初めて「現実」を直視せざるを得なくなるという、悲惨な結末に至るケースが多いのです。

 

「朱に交われば赤くなる」などと言いますが、特に中高生にとっては、現在置かれている「環境」は、成長の過程にとって極めて重要だと感じます。「まわりがそうだから。」と安易に周囲と同調し、「愉快な毎日」こそが「当たり前」だと感じているならば、それは非常に危険なことだと思います。一方で、決して「愉快」ではないけれど、お互いに「切磋琢磨」できる関係性の中で、厳しくもお互いを高め合える中で生活できるのであれば、その「将来」は明るいものとなるでしょう。

 

自らの「人生」に関わることですから、よ~く考えて頂きたいと、切に願います。

 

頑張りましょう!

ここ最近強く感じるのは、まともなコミュニケーションをとることができない親子が非常に多くなってきたことです。この件については、このブログでも何度か書かせて頂きました。そしてこのような状況がコミュニケーションの問題のみならず、勉強面にも暗い影を落としているという現実をしっかりと認識しなければいけないと思うのです。

 

教える側の指摘に対して、まともな返答ができず、極力「単語」だけで返答しようとし、相手に理解されなければ勝手にイライラする、自らが理解されないのは、理解できない相手が悪いという他責思考を貫いています。面倒な「途中経過」を省くことが大好きで、物事のプロセスに全く関心がないばかりか、全て「無駄」だと断じてしまう姿勢は、もはや単に「勉強ができない」という問題にとどまらず、ある種の「病」ではないかと思うほどなのです。

 

講師が解説している最中でも、

 

「わかった、わかった!」

 

と大声を上げ、ろくに解説も聞かずに身勝手な解法を駆使して「不正解」を繰り返し、その責任は、

 

「きちんと解説しなかった先生のせい!」

 

だと親子揃って他者を糾弾する・・・こんなにわかには信じ難い人たちが実際にいたのです(笑)。

 

勉強であってもスポーツであっても、万人に共通な「合理的メソッド」などあるはずもなく、それぞれにそれぞれの学び方があって然るべきです。講師がよかれと思って指導した手法が自分には「合わない」ことだってあるでしょう。ただし、それは「やってみなければわからない」はずです。まずは「やってみること」、その上でどうしても自分には合わないと感じたり、より理解が進むと思われる手法があれば、その時点で方針転換すればよいのです。現状において十分な学習時間さえも確保できず、成績も低迷している子が、他人のアドバイスに全く耳を貸さずに、自らの身勝手な判断のみで「学習もどき」を進めているからこそ、現在の「低迷」を自ら呼び込んでいることに気づくべきなのです。

 

先生や大人のアドバイスを「聞くことができない」という現状は、学生として、受験生として、重要な要素が決定的に欠落していると判断するほかないのです。このような好ましからざる姿勢が「天賦」のものなのか、あるいは「躾」の問題なのかはわかりませんが、年齢を重ねるにつれ、「治り難くなる」ことだけは確かです。先生や講師の話を「遮った」経験がある人は、よ~く考えてみてください。その「意識」がある間しか、「治せる」機会はないと、私は考えているのです。

 

そんな「聞くことができない」皆さんに、私の「心の声」をお伝えいたします(笑)。

 

頑張りましょう!(笑)

日々驚くような大記録を、あたかも「平然と」成し遂げ続けているロサンジェルス・ドジャースの大谷翔平選手について、ちょっと気になる記事を拝見しました。

 

大谷選手をプロの世界に導いた栗山監督は、プロ野球選手には珍しく国立大学である東京学芸大学出身、プロ野球選手になれなければ、この大学の卒業生の多くがそうであるように、「教員」への道に進むつもりだったようです。

 

当初、高校卒業後すぐにアメリカに渡るつもりだった大谷選手は、ドラフト1位指名の日本ハム関係者に対しては、文字通り「塩対応」だったそうですが、栗山監督のお話だけには耳を傾けていたそうです。

直接アメリカに渡った場合のリスクや、日本で技術を磨いてから海を渡るメリット、そして「二刀流」を後押しする確約について、懇切丁寧に「プレゼン」した結果、当初の意志を「変更」して、急遽日本ハムに入団する決意を固めたそうです。その後の大谷選手の活躍は皆様ご存知の通りであり、結果として日本のプロ野球を経てからアメリカに渡ったことが「ベストであった」ことが証明されています。

 

スポーツにしろ勉強にしろ、もともと「素養」がある人は案外多いのかもしれませんが、皆が皆それを十分に生かし切れているかと言えば、そうでもないケースが多いのではないかと思うのです。

他者のアドバイスを「まずは聞いてみる」という柔軟な姿勢と、だからといって盲目的に追従することなく、「確固たる意志」もまた必要なのかもしれません。一方で、まだまだ精神的に幼い中高生に対して、粘り強く、かつ確たる論拠と信念をもって「道を指し示す」指導者の存在が、子供の成長には不可欠であると痛感しています。それが「親」であり、「学校の先生」であり、「塾の先生」であっても構いません。理路整然と「進むべき道」を提示し、選択の自由を与えることこそが、「指導者」たる資格なのかもしれません。

 

そういう意味では、あらゆる「指導者」の責任は重大であり、私自身も日々更なる研鑽を積まなければならないと、強く感じているところです。

 

大谷選手の「偉業」が、大谷選手自身の努力によって導かれたものであることは疑いがありませんが、一方で彼を支え、適切な道に導いてくれた「指導者」たちの貢献についても、我々子供を指導する立場の人間たちは注目すべきなのかもしれません。

 

頑張りましょう!

静岡県の高校入試においては、9月と12月に実施される「学力調査」の結果が志望校選考に与える影響が非常に大きくなります。静岡以外の高校入試については詳しくないのですが、どの地方においても進路選定の基準となるものがあるのではないかと思います。

 

静岡県下一斉に実施される「学力調査」では、好むと好まざるとに関わらず、「現実」を思い知らされることとなります。自らの学力と志望校の「合格最低基準」があまりにもかけ離れているのであれば、半ば強制的に「方向転換」を迫られるのです。

 

大抵の親子は、これらの「現実」の前では抗うことができず、渋々ながらも方向転換を呑むほかないのですが、ごく一部「夢見る方々」がいらっしゃることも確かで、そんな親子と遭遇した年は、少々骨が折れることになるのです(笑)。

 

現状においては合格基準に全く足りていないにもかかわらず、かといって目標突破のために「さしたる努力」をした形跡も意思もなく、ただただ現実逃避して「目標」だけは堅持する、他人の意見には一切耳を傾けず、何の根拠もなく、

 

「受験すれば、もしかしたら合格するかも!」

 

と夢見る受験生が一定数存在します。いや、百歩譲って「受験生本人」はまだまだ「おバカ」な中学生でもあるし、未熟ゆえの「過ち」だと考えられなくはない(それでも愚かではあるのだけれど)のですが、問題はそんな子供の妄想に躊躇なく「乗っかってくる」親だと、私は思うのです。

 

やや無鉄砲な目標だけれど、その目標に向かって我が子が最大限の努力を払っているのであれば、客観的に見て「無理」だとわかっていても、ギリギリの段階まで「冷や水」をかける必要はありません。当面は「頑張らせれば」いいと思います。

一方で、親として常に「現実」から目を逸らしてはならないのです。努力空しく夢が絶たれてしまった我が子に対して、「別の道」を提示してやるのが「親の務め」ではないかと、私は考えるのです。

現実を直視せず、かといってさしたる努力もしないで、親子そろって「夢ばかり見ている」のは、どう考えても合理的な思考だとは言えないのです。

 

いくつになっても「夢」を抱くことは素晴らしいことですが、一方で「現実逃避」して「夢ばかり見る大人」は、何だか気の毒に感じてしまいます。こと「我が子」に対しては、無責任に「夢」だけ見ている訳にはいかないのです。親としてしっかりと現実を直視して、「第二の道」を提示するための準備を怠ってはなりません。

 

親が子供の「妄想」に「タダ乗り」するようなことがあってはならないと、私は考えているのです。

 

頑張りましょう!

 

 

今朝は何だか早く起きてしまって、メジャーリーグの中継を見ていました。大谷選手の第三打席まで見ていたのですが、早々にヒット3本を放ち、「今日も好調だな~」などとぼんやりと感じながら朝食をとるためにテレビから離れたのですが・・・

 

その後、3打席連続ホームランとは!(笑)。私が見ている間になぜ1本くらいは打ってくれなかったのか、という悔しさと、途方もないことを平然とやってのける「スーパースター」に只々唖然とするばかりの私なのでした。少し前までは「50-50達成は微妙なところ」などという報道が盛んになされていたと思うのですが、たった一日で答えを出してしまったところに、大谷選手の底知れぬ実力やスター性を感じずにはいられません。

 

ところで、大谷選手は持って生まれた「素質」だけでこのような大選手になれたのでしょうか?また、ひたすら野球だけに打ち込んで、今の技術を習得したのでしょうか?決してそのようなことはないのです。

 

高校時代は勉強もよくできたとのこと、勉強のみならず、生活態度や目標設定も極めて適切であったことがわかります。

大谷選手より前からメジャーリーグで活躍されているダルビッシュ投手も、今や投球メカニックやスポーツ選手の栄養学については専門家も驚くような知識を持っているそうです。勉強の「素養」が無ければ、スポーツ界においても「一流」には成り得ない証左であると、私は考えているのです。

 

「「一流」に「野球バカ」はいない」

 

私自身の拙い経験から考えても、「野球(野球に限らず、スポーツ全般において)」だけ頑張っても、それだけで技術が向上する訳ではないのです。何をするにしても、「考え、実行し、検証する」作業をしなければ、進歩は有り得ないのです。それはまさに勉強にも同様のことが言えるのであり、「どちらか片方」だけでは決して成し得ない「偉業」なのです。

 

生きている間にこれほどの「スーパーヒーロー」に遭遇できた幸運を感謝するとともに、真の「二刀流」とは「文武両道」の意味ではないかと、改めて感じた金曜日の朝なのでした。

 

頑張りましょう!

ここ数年の傾向なのですが、母国語であるはずの「日本語」が不自由な子が多いような気がしてならないのです。

 

母国語が不自由な場合、語学の学習に支障が出るのは勿論のこと、理系科目、とりわけ数学の「文章題」の文意が掴めないという、もはや取り返しがつかないような事態に陥っている子があまりにも多いのです。

 

「意味が分かんな~い!」

 

きっとこのように「泣き言」を言えば、誰かが助けてくれた「学習もどき」を繰り返してきた結果なのでしょう。ことここに至って状況を好転させていくことは、非常に骨の折れる仕事だということをぜひ理解して頂きたいと思います。

 

IT化が急速に発展し、我々の生活はより豊かになりました。一方で、実際に文字に触れたり、文章を書くという機会が、特に幼少期において決定的に不足していた影響が色濃く残ってしまっているのかもしれません。昔から「読み・書き・そろばん」などという言葉がありますが、決して「昭和の遺物」などといって簡単に片づけるようなことをせずに、基本的な読解スキルや文章力を幼少期から養っておくことは極めて重要だと強く感じます。

 

「便利なもの」は我々の負担を劇的に軽減してくれますが、一方で「決して省いてはいけないもの」もあるはずなのです。英語だ数学だと心配する前に、まずはお子様が母国語である「日本語」をきちんと扱えているのか、詳細に検討する必要がありそうです。

 

「意味が分からない問題文を、わかりやすく説明してもらえれば解ける!」という状況では、真の意味で「解けた!」とは言えないということをしっかりと認識すべきなのです。当然ですが、数学の文章題は「日本語」で書かれているはずです。そもそもその「日本語」を理解できないこと自体に大きな問題があるということに注視すべきなのです。

 

受験を控える皆さんは、日々勉強に明け暮れる生活を送っていると思いますが、同時に「文章に触れる機会」を意識的に増やして頂きたいと心から願っております。「文意がわからない」「文意を取り違える」などの問題点を解消するためには、問題文をよく読むこと、そして日常において文章に触れる機会を増やして読解力や文章表現力を養成していくしか道はないのです。

 

特に幼少期のお子様を持つ保護者様は、日本語能力の育成に注目して頂きたいと心から願っております。外国語の学習も大切ですが、どの学問においても、まずは「母国語ありき」だという現実を忘れないで欲しいと強く感じているところです。

 

頑張りましょう!

以下に書く内容は以前にも書いた気がしますが、受験を控えた今だからこそ大切な内容だと思いますので、改めて書いてみたいと思います。

 

私どもは「学習塾」に携わっており、子供に勉強を教えるのが「仕事」ですが、同じ「親」として、保護者様から学ぶべき点も決して少なくはないのです。

 

当塾は医療関係者のお子様をお預かりすることが多く、以前にお父様がが開業医、お母様が看護師というご家庭のお子様をお預かりしたことがありました(お子様3人を指導させて頂きました)。

医者であるお父様が非常に「筆まめ」な方で、何度か丁寧なお手紙を頂戴したことがありました。私が健康診断で診て頂いた際も、極めて丁寧な「所見」を便せん3枚にもわたってご報告して頂きました。要約すれば、

 

「太っている割には健康」

 

という内容だったのですが(笑)。

 

そんなお父様から頂戴したお手紙の中で、非常に感銘を受けたものがあり、今でも忘れ難い「ためになる」お話がありました。

 

そのお父様はいわゆる「医者一族」のご出身で、当然の如くお父様ご自身も「医者になる」ことを半ば強制されていたようです。そんな「無言の圧力」に耐え切れず、高校卒業まではかなり荒れた生活をされていたそうです。

医者になんかなりたくはなかったけど、高校を卒業しても進学はままならず、就職さえできなかったお父様は、

 

「このままではマズい!」

 

と一念発起され、猛烈な勢いで勉強を始められたそうです。ただ、家族からの支援は受けられず、予備校や塾の類に通うことが許されなかったため、自宅から至近の図書館に通いつめ、自己流の勉強に明け暮れていたそうです。

それでも「孤独」であることは思いのほか辛いもので、何度も諦めかけたそうですが、そんなお父様を救ったのが「名も知らぬライバル」だったそうなのです。

 

お父様同様、図書館の開館時間から閉館時間まで、一言も発することなく勉強に勤しむ「ライバル」を、意識しない訳にはいかなかったようです。きっとその「ライバル」も、お父様を意識されていたことでしょう。

 

「彼が消しゴムを床に落としたことでさえ気になって気になって仕方がなく、ただ単に「負けるもんか!」と必死になっていました。」

 

図書館の自習室という静寂に包まれた場所こそが、彼らの「戦いの場所」であったのです。

 

「彼がその後どうなったのかはわかりませんし、今でも名前さえ知りません。けれども、あの荒んだ生活から立ち直れたきっかけは間違いなく彼の存在があったからですし、「名も知らぬライバル」として、今でも感謝しています。」

 

医師として忙しいお父様がなぜ私にこのような素敵なお話を、何枚もの便せんに認めてご教示下さったのか、私にはわかりません。もしかしたら、子供に勉強を教える立場の私に、「学びの本質」というものを示唆して下さったのかもしれません。

 

「なあなあの間柄」で妥協し合い、専ら愉快なことだけに執心する関係性を「親友」と評価するのは、私としては大きな違和感を感じます。時には厳しい指摘がありながらも、お互いに成長し合える関係性こそが本当の意味での「親友」なのではなかと、私は考えるのです。

皆さんの周りにいる「友人」たちは、果たしてあなた自身の「ライバル」だと認めることができる人たちなのでしょうか?高校受験や大学受験を控える皆さんにとって、お互いに「必要な存在」とはどのような人なのか、よく考えてみるべきだと私は思うのです。

 

「名も知らぬライバル」が、貴方自身を高め、まだ見ぬ景色に導いてくれることさえあるのだという「事実」を、しっかりと認識して頂きたいと心から願っております。

勉強においては「妥協の産物」など有り得ないのですから。

 

頑張りましょう!

良くも悪くも、大抵の中学生は「高校受験」という「篩」にかけられて、「学力別」の高校に分別されていきます。

 

仮に学力が低い高校に入学することになったとしても、高校3年間で「できること」は案外多いのです。中学まで勉強が苦手だった子は、高校入学後に一念発起し、もう一度「やり直し」をすればよいのです。その結果、希望の進路に進むことができた子は、決して一人や二人じゃないのです。だったら中学時代から頑張っていればよかったのでは?と言う方もいらっしゃるかもしれませんが、人間が成長する時期や覚醒する瞬間はまさに「人それぞれ」であり、何かを始めるにあたって「遅過ぎる」などということは決してないと、私は考えているのです。

 

とはいえ、子供の成長や覚醒を促すためには、好ましい「環境」が必要であることは確かです。高校において、果たしてそのような好ましい環境が提供されるのかどうか、進学する生徒自身は勿論のこと、保護者様においても慎重に精査する必要があるように感じます。

 

とある高校の「数学」においては、教科書とは別に独自の「問題集」を用いており、「2桁の足し算」からやり直す準備をしています。高校生が小学2年生の「算数」の学習内容から復習せざるを得ないのは衝撃的ですが、一方でこの時点から理解できていない生徒が少なからず存在する環境においては、「やり直し」をすることは仕方がないことだとも考えます。「やらざるを得ない」というのが正直なところではないでしょうか。

一方で、当然のことながら、高校では高校の教育課程があり、教育機関としてそちらを完全に無視することができないという判断をされる高校もあるようです。「算数」さえ満足に理解していない子たちに「高校数学」の授業をする・・・先生たちは途方もない徒労感を禁じ得ないでしょうし、生徒たちにとってはただただ退屈な「お経」のような授業について、ひたすら時が過ぎるのを待つばかりという、誰にとっても不幸な学校生活が繰り返されているのが実情なのです。

 

私どものようなマンツーマン個別指導塾においては、理解できていない点があれば、既習範囲まで遡って学習し直すことを「普通に」行っています。私塾ですから、何に囚われることなく「学習の効率性」を求めて然るべきなのですが、他方「高校」という公教育の場において、全く無意味な「授業もどき」が日々繰り返されていることに、モヤモヤとした気分を隠し切れない私なのです(笑)。

 

「お上」が決めた教育課程に「何が何でも沿っていく」学校がよいのか、あるいは少しくらい「道を逸れて」も、生徒の学力に合わせた指導を徹底してくれる高校がよいのか、よ~く考えて頂きたいと強く感じます。「学べない学校」では、全く意味がないのですから。

 

頑張りましょう!

当塾は長期にわたって在籍してくれる子が多いのが特徴です。近年は少子化のあおりをモロに受けている典型的な中小零細塾ではありますが、それでも長きにわたって当塾を頼りにしてくれる、実に奇特な(失礼!)な方も少なくないのです。

 

Aさんは現在中学2年生。彼女は何と年中さんの頃から当塾に在籍してくれている「古株」なのです。中学2年生の女の子に「古株」などと言うのはいささか失礼なのかもしれませんが(笑)、彼女の在塾歴は10年目に突入しているところです。こうなると、当塾にとってはAさんがいて「当たり前」、きっとAさんにとっても当塾での学習が文字通り「生活の一部」となっていることでしょう。

 

年中さんの頃はとにかくとても可愛らしくて、まるでお人形さんのような子でした。とても大人しくて、物静かな子でもありました。当初はそろばん教室で頑張って、1級まで取得した後に、

 

「中学受験を目指したい!」

 

と3年生の頃から個別指導との併用となりました。

ご存知の通り、中学受験を目指すにあたっては、小学生には少々過酷な勉強量を強いることになります。私自身もお預かりした以上は必ず合格させなければならないと強く感じていたので、時には厳しい指導をしたこともありました。一見「線が細い」ように見えた彼女ではあったのですが、それでも私の想像を遥かに超えた「頑張り」を見せてくれたのでした。

 

無事私立中学の生徒となり、早いもので2年生となりました。

相変わらず可愛らしいAさんではありますが、当然のことながら年中さんの頃の幼い面影は薄れ、徐々に女性らしい美しさに変貌しつつあります。中学合格後も引き続き頑張って勉強に取り組んでいて、成績も上々です。

非常に残念なのですが、私には2人の息子はいますが、娘はいません。10年もの間、勉強のお手伝いをしていると、もはやAさんは自分の娘のように感じてしまいます、保護者様、大変申し訳ございません!(笑)。だからこそ日々の成長を目の当たりにできることはこの上ない幸せであることは確かなのですが、一方で一抹の寂しさを感じてしまうのも、また確かなのです。

 

「コロナで外に出られず、家で食べてばかりいるので、少し太ってしまいました。このままでは将来の私の「彼」は、「お相撲さん」になってもらうしかないかもしれません。」

 

中学受験時の作文演習でこんな面白い作文を書いてくれたAさん、しっかりと賢くなって、私自身も驚いています。健やかに成長してくれているAさんの姿を喜ばしく感じる反面、可愛らしかった「少女」から(いや、Aさんは今も美人さんなのですが)すっかり「娘」になってしまった現在のAさんに、やっぱりちょっとだけ寂しさを感じる私なのでした(笑)。

完全に「大人のエゴ」だとは自覚しているのですが、幼い頃を知っている身としては、ねえ(笑)。

 

頑張りましょう!

当地区近隣には、いわゆる「人気校」と呼ばれる高校があります。

 

そこそこの難易度であることや、駅に至近であること、数年前にテレビドラマの舞台になったことなどもあって、特に近隣中学の子は、「第一志望は?」と聞かれれば、とりあえずこの高校を指名することが多いのです。

 

さらに言えば、この高校は近年では珍しく女子の制服に「セーラー服」を採用しており、もはやこれがこの高校のひとつの伝統になっています。女の子にとってのひとつの「憧れ」となっていることは間違いがありません。

 

私のような極めてガサツな人間からすれば、

 

「制服が可愛いから、いったい何なの?」

 

と感じてしまうのですが、当の受験生本人からすれば極めてシリアスな問題なのです(笑)。このセーラー服を着られるか着られないかによって、自らの青春時代の成否を左右してしまうくらいの価値があるように感じてしまっているようです。

 

繰り返しになり誠に恐縮ですが、このような価値観は私には全く理解不能なのですが(笑)、だからといって頭から否定する気にもならないのです。

どの部分に「価値観」を認めるか、などと言うことは人それぞれであり、法律に触れない限りは他人がとやかく言う権利も義務もないはずなのです。こと受験においては、きっかけがどうあれ、目標に向かっていかに努力したのか、ということだけが「価値」を持つのだと、私は考えているのです。

 

憧れのセーラー服を着てみたい、学校がきれいだから、ぜひここで学びたい、大好きな先輩・同級生がいるから、何としても同じ学校に進学したい(笑)等々、きっかけは何でもよいのです。ただその「きっかけ」が単なる「思いつき」でなく、「目標」となれば、自ずと意欲的に学習に取り組めるようになるでしょう。単なる「口だけ」の憧れであったのであれば、早々に諦める選択をするのではないでしょうか?要は受験生各自の「本気度」が試されているように思えてならないのです。

 

笑っちゃうような「きっかけ」であっても、それに向けて最大限の努力ができる子は、本当に素晴らしいと思います。私のような「おっさん」には、セーラー服に憧れる思考は絶対に理解できない自信がありますが(笑)、それでも頑張った過程には最大限の賞賛を送りたいと思います。つまりは「きっかけ」などは決して立派なものでなくて一向に構わないということ、大切なのは受験生各人の「本気度」だということなのだと、私は考えているのです。

 

頑張りましょう!