【高久家系譜】
2007/09/01 12:01
高久家は、那須で名主と問屋、湯泉神社の神職を兼ね、おくの細道の途次、芭蕉一行が立ち寄った「二宿の地」でもあります。
高久氏家譜序
下野の国那須に那珂川があり、その西を大原と言い、東を東原と呼びます。広い野原には村々が数多く在り、この東原を2つに別け、西を西原組、東を東原組と言います。西原は高久が治め、東原を寺子が治めました。西原組の村名は高久、松子、原村です。村名録の中では原村とは34ヶ所に点在する集落なので、領主黒羽候は34ヶ村とし各々村名で呼びました。この原村と高久村と松子村を併せ36ヶ村を1組とし、それを取りまとめた頭領は高久にあり、覚左衛門が家でした。役名は名主ですが、あまりにも大規模なので、役所でも大名主と呼び、配下のものは庄屋と呼びました。その規模は昔の庄園の広さであり、庄屋と呼ぶに叶うものです。この家は、湯本温泉の神事を司り、慶長の武功で恩米を賜り、帯刀、家紋の入った提灯を許されました。大関家の家中と称して、徒歩と同等の扱いを受けました。正保2年には原方の新道が出来、問屋となり、会津候より廻米を預かり、参勤交代の時は白河までお迎えに行きました。家には慶長の争乱に用いた甲冑や那須衆連署の証文、芭蕉が泊まったときの俳句があります。旧家としての証拠は多いのですが、家伝の詳細を記すものは無く、残念な事です。でも、古い事柄が残っていないのは、この家だけでなく、世間みな同じです。争乱の世では武力を重んじ文事を軽んじ、記録などする余裕もなかったのは仕方の無い事です。この家の元祖、高久大和より5代目の時、寛文10年に火災で多くを焼失してしまった事を、今の主8代覚左衛門将芳は嘆き、先祖の事跡を家に留めようと、6代の時に家に伝わる物語や、7代に聞いた事を記録に整理し、後世に伝えたいと考えました。私は、那須の故事を考索の為に、高久家に幾度もお伺いしましたが、この8代将芳の取り組みには、大変うれしくなりました。祖先を記録し、子孫に伝える事は大変重要な事で大変ではありますが、幸いにもこの家系譜を校正し、序を書けました。
時、文化9年壬申10月
宇都宮人 井上孫六信好しるす
PS.慶長の武功とは、関が原合戦の那須版で、上杉軍と伊王野軍が関山で戦い、伊王野軍は上杉軍を押し返しました。その時、2代高久善右衛門親俊も出陣し、首を11討ち取った?。恩賞米は永年5俵3斗5升。領主が伊王野氏から大関氏となっても続いた。




