『太宰治流文学に見る感性』
「お庭の隅に、薔薇の花が四つ咲いている。
黄色が一つ、白が二つ、ピンクが一つ。
ぽかんと花を眺めながら、人間も、本当によいところがある、と思った。
花の美しさを見つけたのは、人間だし、花を愛するのも人間だもの。」(『女生徒』より)
生誕100周年を迎えた太宰治の言葉です。
太宰治は「人間失格」や「斜陽」などの小説で有名なので、
退廃的とか暗いとか、否定的なイメージでしかとらえられないことが多いのですが、
しかし、そんな太宰治の言葉の中には、このように、人間を否定するのではなく大いに肯定するようなものもあるのです。
「花の美しさを見つけたのは、人間だし、花を愛するのも人間だもの。」
このように花を見つめて、花そのものだけでなく、
それを見る人間の方を讃美するという感性は、すばらしいと思います。
しかし、私たちは、それ以上の感性を持つことができます。
すなわち花を見つめた時、花そのものだけでなく、
それをお造りになっておられる神様を讃美するという感性です。
神様はこの世のすべてを創造されました。
旧約聖書には、神様はご自分が造ったものを見て、「善しとした」と書いてあります。
この「善し」は、ヘブライ語では「美」とも訳せます。
すなわち、神様が造ったすべてのものは「美しい」のです。
神様の創造の美は、一時的なものではなく、「今も、何時も、世々に」あるものです。
つまり、今日、という日があるのも、雲が流れるのも、木々が風でゆれるのも、花が咲くのも、
そして、私たちが生きているのも、みんな「神様」の創造の美の力である、ということです。
「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ神はこのように装って下さるのなら、
あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。」
(マタイによる福音6章28~30節)
今日、野原でひっそり揺れている花に美しさを与えているのは神様です。
しかし、そんな野の花は、はかなくも「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる」と言われています。
こんなにはかない花なのに、なぜ、神様は花をあんなに美しく造ったのでしょう。
それは、私たちが、すべての被造物から、神様の光栄を学ぶためです。
花はその美しさによって、神様を讃美しているのです。
私たちは、花を見つめ、その美しさに感動すると共に、
花自身が神様を讃美していることにも感嘆するのです。
さらには、自分が花のように、いいえ花以上に
神様を讃美すべき人間であることに思いをいたらせなければなりません。
太宰治の言葉をキリスト教流に言い改めるとしたら、
「ぽかんと花を眺めながら、神様は本当にすばらしい、と思った。
花の美しさを造っているのは神様だし、その美しさを見つけ、愛する人間を造ったのも神様だもの。」
となるでしょう。
私たちがもし、花だけでなく、星や雲や山や海や動物や昆虫や、人間を見つめて、
その美しさを発見し、そしてその発見をとおして神を讃美する心がもてたなら、
私たちは、この世の「思い煩い」から解放されます。
「思い煩い」は、神様の愛と力を忘れるところから出てくるのです。
「何を食べようかと、何を飲もうかと自分の命のことで思いわずらい、
何を着ようかと自分の体のことで思いわずらうな。
…あなたがたの天の父はこれらのものがあなたがたに必要であることをご存知である」
(マタイによる福音6章31~32節)
神がすべてを創造なさったこと、
今も何時も世々に創造されつづけておられること、
その創造は善であり美であること、
野の花も、私たち人間もすべてが神の手の中にあるということ、
これらを受けとめることができたなら、讃美の気持ちは自然に心から出てきます。
花を見て花を愛し、人を見て人を愛し、神様を見て神様を愛し、
讃美の心と、思い煩いからの解放を得ましょう。
「お庭の隅に、薔薇の花が四つ咲いている。
黄色が一つ、白が二つ、ピンクが一つ。
ぽかんと花を眺めながら、人間も、本当によいところがある、と思った。
花の美しさを見つけたのは、人間だし、花を愛するのも人間だもの。」(『女生徒』より)
生誕100周年を迎えた太宰治の言葉です。
太宰治は「人間失格」や「斜陽」などの小説で有名なので、
退廃的とか暗いとか、否定的なイメージでしかとらえられないことが多いのですが、
しかし、そんな太宰治の言葉の中には、このように、人間を否定するのではなく大いに肯定するようなものもあるのです。
「花の美しさを見つけたのは、人間だし、花を愛するのも人間だもの。」
このように花を見つめて、花そのものだけでなく、
それを見る人間の方を讃美するという感性は、すばらしいと思います。
しかし、私たちは、それ以上の感性を持つことができます。
すなわち花を見つめた時、花そのものだけでなく、
それをお造りになっておられる神様を讃美するという感性です。
神様はこの世のすべてを創造されました。
旧約聖書には、神様はご自分が造ったものを見て、「善しとした」と書いてあります。
この「善し」は、ヘブライ語では「美」とも訳せます。
すなわち、神様が造ったすべてのものは「美しい」のです。
神様の創造の美は、一時的なものではなく、「今も、何時も、世々に」あるものです。
つまり、今日、という日があるのも、雲が流れるのも、木々が風でゆれるのも、花が咲くのも、
そして、私たちが生きているのも、みんな「神様」の創造の美の力である、ということです。
「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ神はこのように装って下さるのなら、
あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。」
(マタイによる福音6章28~30節)
今日、野原でひっそり揺れている花に美しさを与えているのは神様です。
しかし、そんな野の花は、はかなくも「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる」と言われています。
こんなにはかない花なのに、なぜ、神様は花をあんなに美しく造ったのでしょう。
それは、私たちが、すべての被造物から、神様の光栄を学ぶためです。
花はその美しさによって、神様を讃美しているのです。
私たちは、花を見つめ、その美しさに感動すると共に、
花自身が神様を讃美していることにも感嘆するのです。
さらには、自分が花のように、いいえ花以上に
神様を讃美すべき人間であることに思いをいたらせなければなりません。
太宰治の言葉をキリスト教流に言い改めるとしたら、
「ぽかんと花を眺めながら、神様は本当にすばらしい、と思った。
花の美しさを造っているのは神様だし、その美しさを見つけ、愛する人間を造ったのも神様だもの。」
となるでしょう。
私たちがもし、花だけでなく、星や雲や山や海や動物や昆虫や、人間を見つめて、
その美しさを発見し、そしてその発見をとおして神を讃美する心がもてたなら、
私たちは、この世の「思い煩い」から解放されます。
「思い煩い」は、神様の愛と力を忘れるところから出てくるのです。
「何を食べようかと、何を飲もうかと自分の命のことで思いわずらい、
何を着ようかと自分の体のことで思いわずらうな。
…あなたがたの天の父はこれらのものがあなたがたに必要であることをご存知である」
(マタイによる福音6章31~32節)
神がすべてを創造なさったこと、
今も何時も世々に創造されつづけておられること、
その創造は善であり美であること、
野の花も、私たち人間もすべてが神の手の中にあるということ、
これらを受けとめることができたなら、讃美の気持ちは自然に心から出てきます。
花を見て花を愛し、人を見て人を愛し、神様を見て神様を愛し、
讃美の心と、思い煩いからの解放を得ましょう。

