膳所城本丸跡です。湖南は湖上交通の要ですから、支配を堅固にするため、戦国武将たちは次々と築城しました。信長の命によって築かれた明智光秀の坂本城は、山崎の合戦後秀吉によって破却され、代わりに大津城が浅野長政によって築かれました。しかし、これも関ヶ原の合戦の後、廃城となり、その天守閣の用材は彦根城と膳所城の天守閣に転用されました。
従って、琵琶湖の浮城として知られるこの湖南3城が同時に存在した時期はありません。
その中で膳所城跡が公園として整備され、最も雰囲気を伝えてます。本丸はもっと湖上に突き出た形でしたが。
城跡公園から続く湖岸を歩き、なぎさ公園に入ると、はやくも桜が満開を迎えていました。
時計は13時を過ぎています。ワイフが公園内に趣ある洋館を見つけました。ドイツ国旗が掲げられています。どうもドイツ料理店らしい。
以前であれば、あぁドイツ料理。ジャガイモとキャベツの酢漬けね。それにこんなお洒落なレストランだと、高いんちゃうん。我々には合わへんわ。と素通りしたはず。
しかし、一昨年ミュンヘンのビール祭、オクトーバーフェストに行って本場ドイツの味を知った今、これは見逃すわけにはいかない。
オクトーバーフェストでは1L10ユーロくらいで飲めました。白ビールといわれるヴァイスビアが一番のお気に入りでした。
最初の一杯はみな1L。写真はおかわりの時のもの。
ビールのお供は定番のソーセージ。中でもミュンヘン名物のヴァイスヴルストはやみつきになってしまいました。
そのドイツ料理レストラン。ヴュルツブルクといいます。ヴュルツブルクはバイエルン州第4番目の都市で大津市と1979年に姉妹都市協定を結んでいます。
かのシーボルトが学んだ大学がヴュルツブルク大学でした。
それはともかく、バイエルン州ゆかりのレストランとなると期待できそう。
ありました。メニューにヴァイスビアとヴァイスヴルストを見つけ、にんまり。
しかし、出てきたサイズは日本風でした。
昼食で時間をとり過ぎ、浜大津を通るときは15時をまわっていました。大津港は湖上交通の拠点です。古くから栄え、平安京の時代から京都の外港としての役割を持ち、鉄道がひかれるまでは大変な賑わいでした。現在は琵琶湖の遊覧船の発着港として知られています。
通りかかった時は、有名なミシガンの姿はなく、ビアンカが停泊していました。
この付近が前述した大津城のあった場所です。
大津城が歴史上名を残しているのは、関ヶ原の合戦の時です。
時の城主は京極高次。近江国の守護近江源氏、佐々木氏の嫡流で名門の出です。ただし高次の生まれた頃には臣下の浅井氏に実権を奪われていました。母は浅井長政の姉ですから淀君は従姉妹にあたります。
人質として織田信長のもとで成長しますが、本能寺の変で明智側につき、秀吉の追捕を受けてお市の方を頼って柴田勝家の元に逃れますが、勝家が秀吉に負けたため捕らえられます。
妹の竜子が秀吉の側室であったため、その嘆願で許され、取り立てられ、従姉妹の初(長政の次女)と結婚し累進し、大津6万石の大名となります。この高次の出世を嫉んだ人たちからは、蛍大名と陰口をたたかれたそうです。ココロは、妹や妻の尻の光で出世した。
わざわざエピソードを語ったのは、この高次が関ヶ原の合戦の勝敗を左右する活躍をし、家康から高い評価を受けて若狭小浜9万2千石の国持ち大名となり、京極家再興を果たしたからです。
その活躍とは。
大津城は湖上交通管理のための城なので、防備に優れた城ではない。それに高次の兵力はせいぜい3千。ところが、場所が東西交通の要衝。当然ながら、家康からも石田三成からも味方せよとの誘いがあった。
当時、旗幟を鮮明にしない大名は多く、双方に味方すると返事をしてどちらが勝ちそうかを窺っていました。
当然、高次も両方に味方するてと伝えていた。
しかし、高次は初めから家康側につく決心だったようです。
いよいよ決戦の機が熟し、高次はいったんは西軍のふりをして越前に出陣しましたが、陣を抜けて湖上を経て大津へ引き返し、籠城します。
ここに関ヶ原に向かって逢坂の関まで進出していた、毛利元康軍さらに立花宗茂軍が攻め寄せました。元康は西軍の総大将に担ぎだされた輝元の叔父。その数1万5千とも4万とも。
耐えること7日で高次は降伏し開城しますが、その翌日9月15日が関ヶ原の合戦当日でした。
もし、高次の籠城が無ければ毛利、立花軍は関ヶ原に間に合い、西軍が勝利したであろうことを、家康が一番わかっていたのでしょう。
ワイフがどうしても行きたいと言うので、近江神宮まで足を延ばした。
天智天皇を祀っています。皇紀2600年の記念に昭和15年(1940)に創祀された新しい神社です。
大津京を造営した天皇ということで、この地が選ばれたのでしょうが、当時はまだ大津京の正確な位置はわかっていなかったはずですが、良い場所を選んだものです。
17時40分 最後に大津市錦織にある近江大津京遺跡に立ち寄りました。
17時40分 最後に大津市錦織にある近江大津京遺跡に立ち寄りました。
壬申の乱の結果わずか5年半で廃都となりましたが、人々の記憶に永く残ったことは、多くの万葉歌で知られます。
淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに
いにしへ思ほゆ
柿本人麻呂 3-266
人麻呂が荒れ果てた近江宮を訪れたときの歌の一首です。









