3月15日月曜 ワイフが一緒に行くと言う。瀬田の唐橋を見たことがないからというのが理由。初めから最後の奥琵琶湖の桜は同行するつもりでいたので否やはないが、少し行程を変更。
JR琵琶湖線瀬田駅を10時30分に出発。
10時55分萱野浦の湖畔に出る。正面に近江大橋、大津プリンスホテル。少し右手に比叡山がくっきりと見える。晴天である。
湖岸を南に歩くこと20分で、琵琶湖と瀬田川の境界に到達した。琵琶湖は淀川水系に属す1級河川。1級河川は国土交通省が管理するが、看板で分かるように琵琶湖は滋賀県が管理している。
ちなみに瀬田川は滋賀県における淀川の名称です。
瀬田川漕艇場があり、カヌーやヨットの練習風景をながめながら歩きます。
うなぎ屋のちか定が付近にあるのですが、ワイフが食べないのでパス。
11時40分 瀬田の唐橋に到着。
瀬田の唐橋は瀬田の長橋ともいい、古くから知られた橋で瀬田の夕照は近江八景のひとつ。京から東国へ向かうには必ず通らなくてはならない橋で、何度も歴史の舞台として登場します。
勢多橋龍宮秀郷社という小さな神社が橋の東たもとにあります。瀬田川の龍王と藤原秀郷を祀っているのですが、俵藤太の蜈蚣(ムカデ)退治の話を知らないと、なんの事やらですね。
俵は地名の田原の転訛、藤太は藤原の太郎の意味です。秀郷は下野国(群馬県)に土着化して武士化した官人で武勇に優れ、天慶3年(940)平将門の乱平定の功績で従四位下に敘され、下野守、武蔵守、鎮守府将軍を兼任した実在の人物です。
『太平記』や御伽草子『俵藤太物語』の話を要約すると、朱雀院の時代(在位930-946)秀郷が瀬田の唐橋に20丈(60m)ばかりの大蛇が横たわって往来の妨げになっているのを、踏みつけて渡っていった。秀郷は下野へ帰る途中であったが、宿場で泊っていると、夜更けに20才ばかりの青い衣を着た美しい女房が訪ねて来て、龍宮の敵である三上山(或いは比良山)のムカデ退治を頼まれる。引き受けた秀郷は見事に、山を7巻半するほどの大ムカデを退治した。
大蛇は龍王の使い、秀郷は褒美にあまたの財宝を得たというお話し。
瀬田の唐橋は何度も架け替えられており、現在の橋から約80m下流で古代から数回架け替えられた橋の遺構が見つかっています。
11時50分瀬田の唐橋を渡りました。
西側の湖岸を北上し、瀬田川大橋、東海道本線のガードをくぐると粟津の晴嵐の石碑があります。これも近江ハ景のひとつですが、本来の粟津の青嵐はここから西方200mほどの東海道沿いの500本ほどの松並木が晴れた風の強い日に、嵐の様に枝葉がざわめく様子をいうが、すでに松並木が消えてしまったので、この場所に碑を建てた。と説明板にありました。
鉄道唱歌にも、粟津の松にこととえば 答えがおなる風の声 朝日将軍義仲の ほろびし深田はいずかたぞ とあります。
朝日将軍ですか。木曾義仲がめさましい勢いで平家を京から追い落としたので、そう呼ばれたのです。
義仲は最後、戦いに破れて粟津の松原で深田に馬が脚を取られて身動きできなくなったところを顔に矢を受けて戦死します。『平家物語』の名場面のひとつです。
12時30分 大津市本丸町の膳所城跡公園に到着です。
近江大橋の前にエリ漁の定置網が仕掛けられています。2月中旬から夏まで続く琵琶湖の風物詩です。
膳所城は関ヶ原の合戦の後、徳川家康が東海道の抑えとして天下普請で築かせた城。琵琶湖に突き出た形の水城で4重4階の天守を持っていましたが、明治3年に藩士たちによって解体されてしまいました。
(つづく)









