塩津神社の桜


 4月3日土曜日10時20分、長浜市立木之本町のR8塩津バイパスの伊香消防署前大音交差点から歩き始めた。
 奥琵琶湖は桜の満開の頃に歩こう、と始めから心に決めていた。できればワイフと。せっかくの絶景ならば、誰かと分かち合いたいもの。
 ただ、そうなるとたとえワイフとはいえ、行き当たりばったりとは行かない。
 1泊2日となるので、宿泊場所やそれに対応した交通手段など、ある程度の計画を立てておく必要がある。
 実はあてにしていた宿があった。国民宿舎「つづらお荘」だ。ちょうどコースルートの中間の絶景の地にある。JR木之本駅からでもマキノ駅からでも好便である。
 あとは、開花予想を見ながら日程を決めればよかった。 
 ただホームページを見ると休館中とあるのがちょいと気にはなっていた。ただ、それも道路が閉鎖され、客の見込めない冬季だけだろうと、楽観していた。
 しかし、何回アクセスしてもいつも休館中。永遠には休館と気づいた時は3月初旬になっていて慌ててネットを検索。
 とりあえずマキノで宿は確保できた。ここを起点にすればJRでのルートが可能である。この段階で娘たち家族も花見だけなら参加希望と言ってくれた。俄然楽しみが増えた。それにクルマで来てくれるなら、ルート問題も解決する。一石二鳥だ。
 と言うわけで今回は、JRの駅を起点とせず9日目に通過した、大音交差点からの出発となった。

 R8塩津バイパスを歩き始めると間もなく全長3.5kmの藤ヶ崎トンネルに差し掛かる。賤ヶ岳の下を貫通している。
 トンネル内に歩道はあるものの、閉塞感と車の排気ガスから一刻も早く逃れるたくて早足となる。トンネルを抜けると、目の前に奥琵琶湖の湖水がぱあっと広がった。
 10分も歩くと飯浦という小集落を通過する。

 人気もなく、閉鎖してずいぶん時を経た様子の奥琵琶湖ドライブインを横に見て、県道336号塩津浜飯浦線へと左折した。

 飯浦と塩津浜とのあいだの突端部を藤ヶ崎という。そこから飯浦を望んだ景色。背後の山が賤ヶ岳だ。
 天正11年(1583)の柴田勝家と羽柴秀吉との賤ヶ岳の戦いでは、5時間で美濃大垣から賤ヶ岳に軍を移動させた美濃大返しや加藤清正、福島政則ら七本槍の活躍がよく知られているが、丹羽長秀が湖上から上陸して賤ヶ岳を攻撃した戦いなどは戦局を左右する功績としてもっと注目されてよい。
 上陸場所を一般には海津とするようだが、賤ヶ岳直下の飯浦に上陸した可能性も一考して良いのではないだろうか。
 
 11時17分 藤ヶ崎を廻ると正面にこれから歩く葛籠尾崎のつけ根が見える。藤ヶ崎と葛籠尾崎の間、湾入しているところに塩津はある。

11時43分塩津神社着。延喜式内論社。隣接して浄光寺がある。



北国街道塩津宿の街並が好ましい。
  越前国敦賀港から約30km。7里半越えと呼ばれる道で結ばれている。
 天平6年(734)年頃、笠朝臣金村は「塩津山 うち越え行けば わが乗れる 馬ぞつまづく 家恋ふらしも」と山道の厳しさを詠んでいる。と『万葉集』3-0365
  長徳2年(996)紫式部は父藤原為時の越前守に任命されて赴任するのに従って、湖西からこの地を経由している。

 12時20分、大音で別れ、塩津浜公園で孫の玲を遊ばせていた次女と合流。12時55分に昼食場所、道の駅あぢかまの里に到着した。
 「あぢかま」は、万葉歌の「あぢかまの 塩津をさして 漕ぐ舟の 名は告りてしを 逢はざらめやも」11-8747  にちなんでいる。塩津の枕詞だが、かまはかもの転訛。意味は巴鴨として良いだろう。鴨類の中で、もっとも美味と聞く。
 歌の意味を普通に、塩津を目指して漕ぐ舟の、その名前を告げたのだから逢わないと言うことがあろうか、としたのでは面白くもなんともない。
 舟は女性を意味する。女性が名前を明かすことは、恋愛関係を結ぶことなので、今晩ご一緒にという歌と解釈したい。
 2015年の塩津港遺跡の調査で12世紀前半の丸子舟(琵琶湖で広く使用された舟)の舟板が出土した。その舟板は橋板として転用されていたのだけれど、橋を渡った先は、建物がみな一般に比べて粗末なこと、簪が出土したことなどから、遊郭であったことが判明した。
 この万葉歌が遊女の歌、あるいは遊女の身になって詠まれたと空想すると面白くなってくる。
 
 「あぢかまの里」は賑わっていて、少し寒いが屋外に席を確保した。店内で物色していると、鴨そば600円の幟が目に飛び込んできた。これこれこれですよ。鴨の里で鴨を食さない手はない。100円プラスで大盛りを注文した。一切れ鴨肉片が多い。ただし、鴨は合鴨と聞いた。そうだよな、700円で巴鴨はないない。