菅浦の集落 背後に奥琵琶湖パークウェイ沿いの3000本と言われる桜並木が続く。
西浅井町月出の集落が眼下にみえます。月出までは道路が通じていますが、湖岸沿いに葛籠尾崎の先端へは行けなさそうです。
もう少し塩津の話を続けます。
塩津港遺跡の発掘調査は平成18年度(2006)から行われました。
塩津港が文献史料で現れるのは、天平宝字8年(764)の藤原仲麻呂の乱にかかる『続日本紀』の記事が初めてですが、港自体の存在はもちろんもっと古く遡ります。
この時の発掘では、神社の遺構と大量の「起請札木簡」と名づけられた木簡が発見されました。
神社は8世紀に建てられ、12世紀に廃絶したものでした。その頃に湖水面が上昇して水没し、高地へ移転したと考えられます。
木簡はもっとも古いものが保延3年(1137)新しいもので永暦元年(1160)で、他はその間に収まります。
起請文は神仏に誓いをたてた事を文章にしたもので、普通は紙に書かれるものです。現在でも熊野大社では、牛王宝印を押した「熊野牛王符」を販売していますが、中世には広く行われていました。
誓いの文言はほぼ定型化していて、最初に神仏の名前を書き連ねて、次に誓う内容、最後に違背した場合の仏罰、神罰が書かれます。
塩津港遺跡から出土したものは、年紀から現在知られている起請文の中では最古のものです。さらに、それが板に書かれていたところに特色があり、他に例がありません。
しかも文字は「浮き上がり文字」で、墨が余り残っていない特色があります。このことは、これらの起請文木簡は、ある程度の期間風雨に晒される場所に掲示してあったことを示すものです。
さて、誓いの内容ですが、「盗みをしたと噂をたてられたけれど決して盗んではいません」「米は一升も盗んでいません」「運送を請け負った荷物の内魚一巻もなくさず運びます」など、運送品を盗んだり、盗まない、無くさないなど湖上輸送の事故に関わるものがほとんどです。
このことから、かえって輸送品の盗難などが起こっており、その対策に輸送業者が苦心していたことなど、湖上輸送での問題点が明らかになってきたのです。
最後に、神罰の内容ですが、違背した場合は3日から7日の間に全身8万4千の毛穴ごとに神罰仏罰を受けてもかまわない、などと記されています。おお怖い。
13時40分葛籠尾崎の月出峠展望台を通過した。
対岸先端の小高い山は山本山城だろう。背後にうっすらと伊吹山を見ることができる。
15時25分。奥琵琶湖パークウェイは先端のつづら尾崎展望台でV字に折り返し、菅浦へと降る。
しかし、それを歩いたのでは時間がかかり過ぎる。途中、つつじ平という閉鎖されている休憩所で、奥琵琶湖周遊自然歩道の看板を見かけた。どうやら菅浦へショートカット出来そうだ。情報がなく不安ではあったが迷うことなく踏み出した。
すぐに半島の尾根をこえ、西側の緩勾配の降り坂になる。シーズンオフのせいか、道は荒れていて大きな落石、倒木、崖崩れを避けての山歩きになったが、1時間も歩くと湖面が姿を現した。
再びパークウェイに出て桜並木をひとり、いや二人占めしてあるく。既に16時半を回っている。 途中で次女に、17時過ぎに菅浦に着く予定なので葛籠尾荘の辺りで待っていて、と連絡したので急ぎ足となる。
夕陽は雲に隠れたまま沈んでいく。
16時56分に菅浦の西はずれに到着した。
菅浦は中世農民による自治的な村組織である惣村の代表的な例として知られていて、時間があればゆっくり歩きたいところだ。
ただ、私は2度ほど来てはいる。もっとも川魚料理や鴨料理の店、佐吉が目的であったのだが。
菅浦の山側のはずれに、須賀神社があります。
神社は天平宝字3年(764)に造営された淳仁天皇の保良宮が元になって創建された。淳仁天皇がこの地に住んだという理由で淳仁天皇も祀ってありまし。
そういえば、葛籠尾崎の名称の由来も淳仁天皇の葛籠が流れ着いたことによるとか。やたらと淳仁天皇が持ち出されるのですが、少々怪しい。
そもそも淳仁という諡は明治3年になっておくられたもので、それまでは廃帝、淡路廃帝としか呼ばれていなかったのです。
確かに即位はしています。天武天皇の孫、舎人親王の7男で大炊王といいました。ただし、当時天武天皇の孫は大勢いて、大炊王は影の薄い存在でした。
その王が即位できたのは、ひとえに藤原仲麻呂の後ろ盾あってのこと。仲麻呂の長男は真従と言い、粟田諸姉と結婚していましたが、早世しています。
仲麻呂はこの諸姉と大炊王を結婚させて、自分の屋敷である田村邸に住まわせました。聖武上皇は孝謙が女帝で後継ぎがないことから、遺言によって道祖王を孝謙天皇の皇太子としていましたが孝謙は道祖王を廃し、大炊王を立太子させます。
背後に仲麻呂の意向があったことは明らかで、孝謙は上皇となり、大炊王が即位しました。
この(淳仁)天皇が、保良宮を造営したのは確かですが、宮は湖南の石山付近と考えられます。宮の造営途中、孝謙上皇と道鏡の関係を天皇が諫めたことが上皇の怒りを招き、仲麻呂の乱につながっていきます。
仲麻呂が反乱を起こした時、天皇を同行しなかった、あるいは出来なかったのは大失敗で、このため仲麻呂は別に天皇をたてたようとしましたがそれも失敗します。
一方、大炊はとらえられて廃位を宣告され、淡路国へ流されます。さらに逃亡をはかったものの捕まり翌日亡くなりました。暗殺されたのでしょう。
長くなりましたが、(淳仁)天皇と須賀神社を結ぶものは何も出てきません。
それどころか、須賀神社は明治43年(1910)に大山咋神を祀る小林神社と大山祇神を祀る赤崎神社を合祀して創建された新しい神社であることを考慮すれば、淳仁天皇は明治時代に祀ったものと考えられます。
では何故淳仁天皇が登場するのか。考えられることは、淡路廃帝の淡路を淡海と取り違えたのではないかという辺りだろうか。
ただ、仲麻呂の一行が塩津に上陸しようとして波荒く、諦めて勝野津へ引き返した史実が何らかの影響を及ぼしたかもしれない。
大正6年(1917)須賀神社で開けずの箱から、1000点を超える古文書が発見されました。これによって中世から近世にいたる菅浦の歴史が明らかになりました。現在、国の重要文化財の『菅浦文書』です。
この文書の分析によって惣村の在り方が判明したのですが、内容は日指と諸河という猫の額ほどの僅かな土地の領有を巡っての大浦集落との争いに関するものです。
もともと菅浦は大浦の一地域であったものが平安時代末期に独立し、高倉天皇の時に御厨子所から供御人の身分を得て、特産のビワや鯉を貢進することと引き換えに湖上往来権を得ました。一時は菅浦水軍と言われる勢力を得ます。
ただ、湖岸に張り付くようにして成立した村ですから、日指、諸河といった大浦までの途上にある僅かな農地でさえ、生命線だったのでしょう。菅浦の人々は舟でこれらの農地を耕しに通ったのです。
大浦との抗争は150年にわたって続いたことが分かりますが、村の危機に村人たちは一味同心して立ち向かうことが重要視されていました。
菅浦から竹生島はま近に見えます。
約束の17時に次女の車は現れませんでした。途切れ途切れにつながる電話では渋滞しているとのこと。海津の桜を見ながら来ているのだろう。仕方がない。大浦まで歩くことにした。
歩くこと2時間弱、どっぷりと暮れた闇の中、大浦集落の手前でヘッドライトの灯りを見た時にはほっとした。
車2台長女の家族も合流し、一族全員10名が揃った。
チェックインの時間は大幅に遅れて、全員で夕食のテーブルに着いたのは19時50分であった。
歩行距離約28.5km









