満開の海津大崎の桜。雨模様で観光客も少なく、ゆっくりと楽しめた。



 4月4日日曜日。予報が的中して小雨が降っている。9時10分家族の見送りを背に、宿泊したルポゼマキノを出発。孫たちは子供の王国が楽しかったようで、午前中はそこで遊ぶという。

 マキノは8日目にマキノサニービーチ高木浜まで歩いているので、2kmほど重複するが、12
時には皆と合流する大浦園地に着くことが出来そうだ。
 マキノ町は合併されて現在は高島市となっているが、町名として残されている。もともとは、昭和30年(1955)海津、剣熊、西庄、百瀬の4村が合併して出来た町名である。
 カタカナの基礎自治体の町名として全国初。ほかには北海道のニセコ町、長野県の南アルプス市しか例がない。
 町名の由来が、スキー場の名から取られたというから驚きます。マキノスキー場は大正末に西庄村牧野に開かれ、昭和初年にはスキー客輸送のために大津と海津の間にスキー船が就航していたほど賑わったそうですが、それにしてもスキー場の名前から自治体名が生まれるなど、冗談ではないか、と思う。
 歴史的地名など、もう少し大切に扱って欲しい。
 海津、剣熊、西庄村はもともと高島郡鞆結(ともゆい)郷に属していた。古代、鞆結郷には北陸道の駅(うまや)が置かれており、海津とも接続して、水陸交通の要衝だった。
 
 知内浜から西浜、海津へと続く湖岸沿いは、文化財保護法による「重要文化的景観」の指定を受けている。
 個人的には世界遺産を含めて、〇〇の指定を受けているから素晴らしい、のではなくて、佳いもは良い、という態度でよろしいのではないかと思う。
 何か一定の基準を設けて、権威付けをすることには同意しかねます。まして、それに観光産業などの思惑が絡んで来るとなると嫌悪感さえ覚えるのですが、地域振興を考えなければならない人たちはそうも言っていられないのでしょう。
 保護保存を目的とする指定によって、観光開発が行われ、失われるものがあってはならないと思う。
 琵琶湖周辺の「重要文化的景観」としては、他に次のような地域があります。
 近江八幡の水郷
 高島市針江・霜降の水辺景観
 大溝の水辺景観
 菅浦の湖岸集落景観
 伊庭内湖の農村景観
 ほとんどのところは琵琶湖一周徒歩紀行で歩いてきましたが、素晴らしいところが選定されているのは間違いないです。
 

 9時25分。知内浜から海津大崎を望みます。雲が低く垂れて、湖岸の桜並木はうっすらとしか見えていません。


 9時56分。西浜の湖岸波除けの石垣です。

 元禄15年(1702)に大波があり、元禄16年(1703)西浜を管理する高島郡甲府領の代官西与一左衛門と東浜を管理する幕府領海津の代官金丸又左衛門重政が協議して西浜に495.5m、東浜に668mの石垣を築いたと言われます。ただ、天和2年(1682)にはすでに築かれていたともいわれます。

 奥琵琶湖岸一帯に大波が押し寄せることが多かったことは、すでに藤原仲麻呂の件でみました。

 湖岸に住む人たちにとって、波浪を防ぐ施設は恒常的に必要だったでしょうから、何度も修築されてきたと考えられます。


 海津の街並を東から西方向への眺めです。

 九州福岡黒田藩に儒学をもって仕えた貝原益軒は生涯に江戸へ12度、京都へ24度、長崎へ5度旅したといいます。全て参勤交代などの公務出張でしたが、そのついでに個人的に関心をもった地を訪れて多くの紀行文を残しています。平易な和文で記され、出版されて旅行ガイドブックの役割を果たしました。

 貞享2年(1685)3月、江戸を出発した益軒は中山道から東近江、敦賀、西近江を経て京都へ入りました。普通なら草津から大津を経て京都へ入るのですが、わざわざ敦賀をまわったのは個人的な関心があったからでしょう。

 『續諸州めぐり』にその道程を記しています。ただ、他の紀行文では某月某日と日付を書いているのに、同著にはそれがありません。

 海津を貝津と書いたり、愛発(あらち)を荒血と記したり、現在とは異なる表記をしていることがしばしばあり、注目されます。間違へたのではなく、当時の表記を伝えていると思われるからです。

 葛籠尾崎は「月出の崎」と記しています。月出の地名は現在も葛籠尾崎の一部に残っているので、江戸時代の初期には月出の崎と呼ばれていた証拠になり、葛籠尾崎は比較的新しい地名と考えられます。

 敦賀から貝津への荷馬についての記述もあります。

 敦賀は、江戸時代を通じて若狭小浜の酒井領でしたが、貝津へ向かう荷馬1疋ごとに運上米3升5合を徴収するため、この24・5年は加賀の米を積んだ船は敦賀を避けて長州の下関をまわり大坂へ行くのだ、などと記しています。

 河村瑞賢による西廻り航路(酒田から下関、大阪を経て江戸)によって湖上輸送は衰えたと説かれますが、瑞賢の開発は寛文12年(1672)のことで、益軒のいう「この24・5年」と合わないように見えるのですが、益軒がいい加減なことを書くとは思えません。

 瑞賢の工夫はそれまで存在していた北国航路、瀬戸内海航路、江戸上方間航路を結んだところにありました。

 北国から下関へ向かう航路はすでに寛永16年(1639)加賀藩によって拓かれており、益軒の指摘は瑞賢による西廻り航路の開発だけが、海津のひいては琵琶湖水運の衰微をもたらした理由ではないことを示しています。

 海津は室町時代には幕府御料所、戦国時代には海津坊主衆と呼ばれる一向衆徒や商人の豊島氏、関所を支配した打下氏などの存在が知られます。 江戸時代になると初めは幕府直轄領、ついで大部分が大和郡山藩領となりますが、加賀藩も利家以来、幕末まで飛び地を持ち維持していました。

 藩主の京都へ向かう際の休憩のためというのが名目でしたが、米を始めとする物資の湖上輸送を管理する出先機関の色合いが濃いものです。

 敦賀での運上支払いなどの経費と手間が下関経由で直接大坂へ航送する費用を上回ったとしても、安全性などを考慮して複数のルートを確保していたのかもしれません。

 10時10分、石積と海津大崎の眺め。


 10時17分、桜並木の入り口です。

 600本といわれる並木が続きます。最初は道路補修員の宗戸清七という方が自費で植樹したものに加えて海津村 が昭和11年(1936)大崎トンネル開通記念に植樹し拡大したものです。樹種はソメイヨシノ。

 ソメイヨシノの寿命は60年ほどといわれていますから、海津の桜も初期からの古木はすでに寿命を過ぎています。

 ただ、全国で現存する最古のソメイヨシノとして、弘前公園の1882年に植えられたものの例もあり、管理さえよければ寿命は延びるそうです。

 今後植え替えを進める時は、異なる樹種の桜になるかもしれません。



 海津の桜並木は湖上から観るとまた違う風情があります。遊覧船が数多く出ています。


 海津大崎港に観桜船が接岸するところです。乗客は1時間ほど上陸して散策することができます。

 11時40分、大崎港背後の山上に大崎観音として知られる石立山大崎寺に到着。奈良時代に泰澄を開基として開かれたという。



 12時丁度に待ち合わせした大浦園地に到着しました。

 大浦は海津、塩津とともに古代から北国路の中継ぎ港として栄えた地です。

『万葉集』にも「霰降り 遠津大浦に 寄する波 よしも寄すとも 憎くあらなくに」11-2729

(遠津大浦に寄せる波のように他人が言い寄せてもあなたは憎くない)とうたわれています。

 敦賀から奥琵琶湖の三港への道を比較してみよう。

 海津へは七里半越えという距離は一番遠くなるが、緩やかな道。

 塩津へは五里半越えという最短距離ではあるが、深坂峠という冬季は雪も多い急峻な坂道の難所がある。

 大浦へは深坂越えより遠回りにはなるが、緩傾斜で降雪量が少ない新道野越えをとる。

 それぞれに用途によって使い分けられたと思われますが、織田信長によって新道野越えで塩津に出る道が拓かれると、大浦は次第に衰えました。

 なお、江戸時代には膳所藩本多家の所領でした。

 この地の集落も古い風情がありゆっくり歩いてみたいところですが、到着してすぐに家族の車が到着。

 二台に分乗して打ち上げの昼食に向かいました。せっかくの琵琶湖なので今津西友のウナギを推奨。

 先日のひつまぶしの怨みもある。

 迷うことなく、鰻重を注文した。

 時に、13時50分。2か月半にわたる琵琶湖一周徒歩の旅はここに完結しました。

 最後に家族全員が揃って祝ってくれたことが何よりの喜びになった。感謝感謝。