7月14日 第89回coopカルチャーこころの遠足(通算141回)は明智光秀をテーマに亀岡を訪ねました。午前9時40分JR亀岡駅に集合ですが、下見の時に見落として未確認の場所があったので、少し早めに着いて、午前中のコースを一回りした。
 8時30分に到着した時には霧に包まれていた。亀岡は盆地なのだ。それも集合する頃には晴れた。総勢8名。
 亀岡駅から5分足らずで南郷公園に到着する。亀山城の内堀を利用した公園である。のんびり釣り系を垂れる老人が何人かいる。
 正面に光秀の銅像が立つ。むかし来た時にはなかった。2019年建立とある。2020年の大河ドラマ「麒麟が来る」にあやかろうと造られたものだろうが、悪くはない。

 10時10分 古世親水公園に到着。亀山城の外堀跡です。
 豊富な湧水に恵まれ、澄んだ水が緩やかに流れています。亀山城三の丸と外町をこの堀で分けていたようです。
 三の丸には家老や上級武士の屋敷が配置され、外町には、中下級武士の屋敷や商人町が配置されていました。
 泉は年谷川の伏流水が湧出したもので、かっては馬の洗い場や田圃への用水に利用されていました。
 水の良いところには、佳い酒があるもの。亀岡市中には現在、丹山酒造と関酒造の2軒の酒蔵があり、郊外にも大石酒造がある。
 市内の二つの酒蔵は、関酒造が地元の愛飲家の晩酌に適した本醸造酒に力を注いでいるのに対して、丹山酒造大吟醸風神雷神から甘酒までフルラインアップで、嵐山や錦市場など京都市内へもショップを展開するなど、積極経営をされています。かっては美人姉妹が経営、ということでマスコミにも取り上げられてもいました。
 今回は、丹山酒造さんにお邪魔して酒蔵見学をさせていただきました。甘酒を買ってみた。
 11時に亀山城に到着。
  亀山城は現在、宗教法人大本の所有地でその本部が置かれているが、入場料300円を払えば誰でも見学できます。
 また、本部のあるみろく会館2階の資料館では15分ほどの映像で亀山城の解説を受けることもできるので、私たちも見せてもらいました。
 それによると亀岡出身の教祖出口王仁三郎が幼い頃に見覚えた亀山城を復元したいと、大正8年(1919)に購入したという。

 明智光秀が亀山城を計画したのは天正4年(1876)、翌年築城し始め、完成したのは、天正6年(1878)といわれます。天正3年(1875)に丹波攻略を織田信長に命ぜられ、その根拠地として築かれました。天正7年(1879)9月に丹波平定を終え丹波一国を与えられた光秀は、それまでの近江国滋賀郡5万石と合わせて34万石の大大名となります。
 天正10年(1582)6月2日の本能寺の変の際、光秀はこの城から出陣しますが、同13日の山崎の合戦で敗死しますから、城主だった期間は僅か4年足らず。
 亀山城は山陰道の要衝にあったため、豊臣秀吉政権下では一門の羽柴秀勝や前田玄以などが入れられました。
 江戸時代になり、岡部長盛が入り亀山藩が成立。慶長15年(1610)西国への押さえを重視した徳川家康は、築城の名手として知られる藤堂高虎に縄張りさせ、諸大名の合力による天下普請として、大改修を加えました。
 その後、松平氏など譜代大名が入封、明治維新を迎えますが、明治2年(1869)伊勢亀山藩と紛らしいことから亀岡藩、亀岡城と改称させられました。
 明治11年(1878)の廃城令により、五層の天守は解体され、敷地も売却されました。当時の亀岡町には購入する資金がなく、次々と転売されて最終的に地元の貴族院議員田中源太郎が購入管理することになりました。
 田中源太郎は亀岡銀行(京都銀行の前身)など30ほどの企業の設立に関わった人物ですが、京都と舞鶴を結ぶ京都鉄道の発起人でもあります。
 京都鉄道は京都ー園部間が開通した段階で国有化され、山陰線の一部となりますが、保津峡の断崖絶壁をトンネルや鉄橋で通す難工事がありました。現在のトロッコ列車が運行されている部分です。
 その際に、亀山城の石垣が取り壊され、利用されたということです。
 なお、源太郎は大正11年(1922)4月3日に起きた保津川鉄橋の脱線事故で列車もろとも転落して亡くなっています。
 現在見ることのできる城壁は出口王仁三郎の購入以降の再建されたものということになりますが、その道も平坦ではありません。
 大本が昭和10年(1935)第2次大本事件で弾圧された際に、敷地は没収、城壁を含めて破壊されたからです。
 第二次世界大戦後、敷地は返還され、信徒さんの奉仕によって積み直されたものが、現在の城壁ということです。
 ただ、調査に依ると下部には穴太積みによる箇所が見られるということでした。
  
 12時に昼食場所の楽々荘に到着。前述の田中源太郎の旧邸をがんこ寿司が借り受けて、豪邸レストランとして経営しています。
 7代目小川治兵衛の作庭になる庭園とあわせて国の登録有形文化財に指定されていて雰囲気はなかなかのもの。
 特別やわらき弁当(2200円)を注文。京阪京都交通の1日乗車券を購入していたので、ドリンク付きです。デザートもついてきます。
 味はやっぱりがんこの味。フツウですね。ただし、穴子とあさりの蒸しご飯が冷凍されていて、燃料1個では解凍も蒸しも出来ず、調理場に持ち帰って温め直しになったのはペケ。
 普通なら料理長か支配人が出てきて一言あっていい場面ですがそれもなし。サービスのお嬢さんの感じが良かったので、黙っていましたよ。
 
 
 食事が終わり、13時に出発しました。あわただしく庭園を拝見出来なかったのが心残り。
 後から気がついたのですが、楽々荘の裏にバス停がありました。亀岡駅まで歩かせてみなさんごめんなさい。
 13時26分発のバスに無事乗車。谷性寺最寄りの猪倉バス停に停まるのは、10時26分発の後はこの時間まで無い。
 下見の時は10時26分発に乗り遅れたため、駅前でママチャリを借り、往復40kmあまり。道を間違えたり余計なところに寄ったりして5時間かかり、大汗かいたたところをバスだと30分足らずで到着した。
 まずは桔梗の里。入園料600円のところを乗車券提示で100円割引です。桔梗は明智家の家紋。
 ここにも光秀の銅像が。
 谷性寺の参道。同寺は真言宗。創建は平安時代とも鎌倉時代ともいわれるが、明確でない。
 明智光秀が、同寺の不動明王を崇敬し、本能寺の変を決意した際に誓願し、本懐を遂げることができたという。別称、光秀寺。
 谷性寺の本堂。
 光秀の首塚。光秀の墓は近江坂本の西教寺にありますが、首だけはここにあると言うことかしら。
 山崎の戦いに敗れ、山科の小栗栖で打たれた光秀の首は溝尾庄兵衛が隠し、後に光秀が生前信仰していた本寺に運んで葬ったといわれます。
 ただし、「光秀公首塚」とあるこの碑は、幕末の安政2年(1855)に建てられたそうです。
 明智門です。もと亀山城近くの西願寺にあった門ですが、昭和51年(1976)10月に同寺が廃寺になった際、桔梗紋が付いていることから移建されたもの。
 15時31分のバスで亀岡駅に向かい、予定通り16時に解散しました。たっぷり1日、明智光秀に浸かりました。