2月20日土曜日 10時に安曇川駅に降り立つと駅前で立派な銅像がお出迎え。中江藤樹像だ。
 普通、銅像は立像が多く、この高さだと見下ろされる感じになるのですが、きちんと正座しています。
 同じ、座像の京都三条の高山彦九郎像が御所に向かって這いつくばっているように見えるのと比べて、毅然としています。

 日本における陽明学の祖とされる中江藤樹はこの地の出身だったのか。
 陽明学については道徳の学問という印象が強く、道徳というとなんとなく偽善を感じて胡散臭く思うひねくれもんの私には近寄り難い存在だったのですが。
 知行合一か。吉田松蔭や西郷隆盛、渋沢栄一なども信奉していたことを思い出して、藤樹書院跡に寄ることにした。藤樹神社、中江藤樹記念館などは又の機会があれば。


 書院は中江藤樹が実家に開いた私塾。庭に大きな藤の木があるところからつけられた名称。
 建物は、元は茅葺き屋根だったそうですが明治13年の大火で焼け、同15年に再建されたときに瓦葺きになったとのこと。
 中は塵ひとつ落ちていない。見ていると親切なおじさんが近寄ってきて、いろいろ説明してくれ書院にも上げてくれた。ボランティアだという。そろそろうるさく感じてきた頃に、あとは自由にご覧なさい、と去っていった。うーん、潮時を心得ている。
 
 藤の古木。往時は道路を覆う程に繁っていたという。

 藤樹の経歴を記します。おじさんから聞いた話ですがね。
 通称は与右衛門。元和8年(1622)9歳の時に祖父中江吉長の養子となり、米子へ行く。父の吉次は百姓。祖父は150石の武士。なぜ父が帰農したのか、疑問に思いましたが質問しませんでした。
 戦うのが嫌だったのか、戦争で負傷したのではないかと想像します。藤樹が生まれた頃は、豊臣氏が滅んだ大坂の陣がありましたからね。
 ともかく中江家では武士家系が絶えるのを避けるため、藤樹を祖父の養子にするという非常手段を講じたのでしょう。
 なぜ祖父は山陰の米子にいたのか。少し調べました。米子藩は加藤家6万石です。加藤と言っても加藤清正とは関係ありません。
 当主は加藤貞泰といい、最初は美濃黒野で4万石、慶長15年(1610)米子に移封となり6万石、元和3年(1617)伊予大洲へ転封。近江高島の中江家と接点がありません。
 そこで、貞泰の父光泰を調べました。牢人から甲斐24万石の大大名に出世し、最後は石田三成に毒殺(説)されるという波瀾万丈伝が書けそうな人物なのですが、注目すべきは近江と関係があることです。
 光泰は、天正10年(1582)の山崎の合戦で明智光秀の本陣を崩すという大功をたて、光秀の旧領丹波周山城で1万5千石の大名となり、近江海津城へ移され、更に2万石に加増され天正11年(1583)近江高島城、同13年(1585)に美濃大垣城主となります。
 中江吉長が加藤家に召し抱えられたのは、この時期だろう。いきなり大名となった光泰は急いで家臣を集める必要があり、近隣の腕っぷしの強い若者を集め、その中に吉長もいたとみてほぼ間違い。
 藤樹書院には、没後京都狩野派の絵師に描かせた画幅があり、生前の容姿を正確に伝えているといわれます。展示してあるのは、模本でしょうが。駅前の像はこの画を元にしていることがわかります。

  元和8年(1622)15歳で祖父の死により、家督を継いだ藤樹は、寛永11年(1634)27歳の時に、母への孝養を尽くしたいことと健康上の理由で禄を離れたいとの届け(要するに辞職願い)を出すものの、認められずに脱藩。これは無断退職ですが、脱藩は家臣が主君を身限るとされ、場合によると討手を差し向けられる重罪です。
 従って、藤樹も直ぐには郷里へは帰れず一旦京都に身を隠します。
 でもこの話、胡散臭くありませんか。藤樹は41歳で亡くなっていますから、健康上の理由は考えられますが、今も昔も辞める時の常套句です。母親は藤樹の死後まで生存しています。
 いろんな事情は考えられますが、単純に学問だけをしたくて、宮仕えに嫌気がさしたのではないのだろうか。
 儒教の徳目として、忠、孝がありますが、藤樹は孝を重んじる立場ですから主君に仕える忠より優先させたとすると、この話よくできています。

  
 エピソードをいくつか紹介します。
 写真は書院にある、中江家の位牌です。中江家は元々仏教徒で仏式の位牌でしたが、藤樹が全て儒教式に改めてしまったといいます。
 過激ですね。儒教は宗教なのです。
 郷里に帰った藤樹は、医術や金貸し、酒の小売で生計をたてますが、教えるのに忙しくて酒は無人販売。代金を誤魔化す村人はいなかった。藤樹の教えが行き渡っていたからでしょう。
 藤樹の教えを聞き齧っていた馬子が乗せた客が忘れていった大金をわざわざ宿泊先を探し当てて届けた。この客が次に述べる熊沢蕃山だと言う説もあり。
 弟子に熊沢蕃山がいる。蕃山は名君と言われる岡山藩主池田光政に仕え藩政を指導したが、朱子学を正統とする幕府からは批判された。
 池田光政は藤樹に傾倒し、日本最初の庶民のため学校、閑谷学校を設立した。また、藤樹の3人の息子を招いて登用した。
 
 藤樹書院で時間をとりすぎた。事務所にボランティアのおじさんがおられたので、丁重に挨拶をして辞した。少しは感化されたかな。


 藤樹書院から近い上小川の用水路。清らかで梅花藻だろうか、水草が流に揺れている。現在も生活用水として利用できそうだ。
 安曇川扇状地の湧水は「生水(しょうず)」と呼ばれて有名で、新旭町の針江生水の郷がよく知られているが、あちこちで見られる用水路が美しい。水が美しい空間は大好きだ。

 11時すぎに鴨川をわたる。田畑を潤す農業用水も澄んでいる。
 近江米が美味いと言われるのは、水が良いからに違いない。


 鴨川から南に広がる高島市の南西部の平野を勝野原と言ったのだろう。


 橋を渡ると田畑の中に墓地がある。掃き清められ清潔だ。墓地は集落のはずれにあるのが一般的だが、ここは違う。
 歩いていると墓地にはよく出会うが、なかでもっとも目につくのが戦没者の墓だ。どの墓地でもひときわ高くて目立つ。形も統一されている。手を合わせて観察すると日中戦争頃のものが多い。
 そうか、これは軍人墓地なのか。軍人墓地の言葉自体忘れていた。村では忘れることなく清掃を続けているのだ。悲しみの深さを改めて思った。


 11時45分、集落を抜けて湖岸に出た。鴨川勝野園地という。海岸線を萩の浜といい、遠く明神崎まで見渡せる。
 萩の浜は真長の浦、明神崎は三尾の崎として万葉歌にみえる。
 いづくにか 我が宿りせむ 高島の 勝野の原に この日暮れなば  高市黒人 3-275

 思ひつつ 来れど来かねて 三尾の崎 真長の浦を またかへりみつ                    9-1733

(つづく)