万葉歌にこの辺りの景色、地名が多く詠みこまれていることをみたが、更にもう一首。
大御船 泊ててさもらふ 高島の 三尾の勝野の 渚し思ほゆ 7-1171
天皇が乗られた御座船が 泊まって大宮人がご奉仕した あの高島の三尾の勝野の渚が思い出されるという意味。
作者はわからないが、琵琶湖に御座船を浮かべるほどの天皇を、私は天智天皇ではないかと考えている。
それはともかく、「高島の三尾の勝野」という表現に注目したい。湖上から範囲の広い高島、そして範囲を狭めて三尾、勝野、渚まで、まるでズームインしているようだ。
高島は令制の高島郡から現在の高島市まで使用されている。
三尾は三尾崎、三尾城とみえ白鬚神社背後の明神崎から、音羽付近と推定される北陸道の三尾駅、その先の延喜式内水尾神社までを含む高島郡南西部。
勝野は勝野津が置かれたところ。勝野の原、勝野の渚という表現から現在の勝野から萩の浜あたりまでの平原をいうのであろう。
この地域は知る人ぞ知る、古代史の舞台となった場所。
三尾城は壬申の乱に登場します。大津京を目指す大海人皇子軍は、湖東を進む村国雄依隊とは別に、羽田公矢国.・出雲臣狛の一隊を湖西に派遣し、北から攻めのぼらせました。
その軍が三尾城を落とした記事が『日本書紀』に見えます。三尾城はおそらく白村江の敗戦に伴って築城されたものですが、大津京の北の守りも担っていたと思われます。
地図で明らかですが、湖西の陸路は必ず明神崎前の隘路を通らねばならす、ここを固く守れば、湖南は安全だったはず。
湖畔を歩いていると、いろいろ考えが浮かぶ。ひとつは、港の立地条件。風や波を防いで船舶が安全に停泊でき、更に陸路とも接続できること。
その条件を満たすのは、河川の河口、湾入した場所、入り江などの地形のほか、琵琶湖の場合、船溜まりとして利用可能な内湖があること。
地乗り航法で必要な目標となる山が背後にあること。など。
勝野津はこれらの要件をすべて満たしており、それが長く琵琶湖水運の中心的地位を維持できた理由だろう。
13時10分に勝野の集落に到着した。
今日の目的のひとつは、前々回気に入った萩の露の蔵元、福井弥平商店を訪ねること。
すぐに見つかった。北国街道道標の横。街道沿いの趣きある街並みの中央に位置する。しかーし。残念ながら蔵元は休業日。
仕方がない。お隣の福井酒店にお邪魔して、酒店の奥方に話をうかがうことができた。写真では失礼ながらサングラスをかけさせてもらいました。
実は以前勤務先に高島出身の方がおられ、実家はビレッジ2号館になっていて、元は醤油の醸造をしていたと聞いていた。
酒屋さんにその話をすると、そちらが本家で蔵元も酒店も分家。本家の方は皆さん優秀でネクタイ締めて都会に出てしまわれた。亡くなられたご主人は水泳がお得意で、マスターズに出場なさっていた。などなど。話してくださった。
まだ道中半ばだが、雨だれ石を穿つ2本をデイバッグに詰めた。
高島ビレッジは旧福井邸を観光スポットとして改装したもの。うどんでも食べようかと思ったが、食指が動かず。
高島は有数の近江商人の出身地です。
古く戦国時代から江戸時代にかけて北国の物産を敦賀へ輸送した高島屋は、加賀前田家の米穀輸送を一手に請け負っていましたが、店名は高島からとったのでしょう。
高島屋の飯田家。南部藩の御用商人を務め、明治はじめに第一国立銀行設立に関わった小野組も高島からおこり、古河財閥の創始者古河市兵衛はこの小野組の出身です。
(つづく)





