勝野から南に砂州の上を道が通り、右手に乙女ケ池がある。公園になっていて池の中央に太鼓橋がかけられ、北岸や大溝城本丸跡に渡ることができる。

 大溝城は明智光秀の縄張りで築城され、織田信長の甥津田信澄が城主となった城ですが乙女ケ池を堀としています。

 信澄も数奇な運命をたどった武将。父織田信勝は信長に殺されますが、助命され織田の旧姓津田を名乗り、一門の武将として用いられました。光秀の女婿だったため、本能寺の変の後、四国征討のため在陣していた大坂で一味と思われて殺されました。

 大溝城にはその後、前述の加藤光泰や京極高次が入ったが無城主となり、元和元年(1615)一国一城令で破却されました。元和5年(1619)分部光信が入り、陣屋を三ノ丸に構えてこの地を治めた。


 乙女ケ池のことでした。この優しげな名称は昭和30年頃につけられた新しいものと聞きました。万葉歌に、香取の海、香取の浦と詠まれています。

 大船の 香取の海に 碇おろし 如何なる人か もの思はざらむ        11-2346


    いづくにか 船乗りしけむ 高島の 香取の浦 ゆ 漕ぎ出来る船       7-1172


 香取は梶取とも書かれるので、船頭の海・浦という意味だろう。


 『続日本紀』の藤原仲麻呂の最期の場面では鬼江という名称でこの池が戦いがあったことが記されています。

 藤原仲麻呂は恵美姓を賜り、藤原恵美押勝あるいは、恵美押勝を名乗ります。官職は太師(太政大臣)に登り詰め、天皇の地位さえ左右できるほどの奈良時代なかばの最高権力者でした。

 しかし、後ろだてだった叔母の光明皇太后が亡くなると、その権力に翳りが見え始め、孝謙上皇の寵愛を受けた道鏡の台頭によって実権を失いかねない状況に追い込まれます。

 そこで、一挙に頽勢を挽回しようと武力蜂起したのが、藤原仲麻呂の乱とよばれる事件で、天平宝字8年(764)9月のことです。仲麻呂は京に600人の兵を動員しますが、密告が相次ぎ軍事クーデター計画は事前に孝謙上皇側に漏れていました。 孝謙上皇側で指揮を執ったのは、兵学に詳しい吉備真備です。

 

 ことが漏れたことを知った仲麻呂は、地盤の近江・越前に逃れて反撃体制を整えようとしますが、真備は先を読み仲麻呂の先々に、兵を機動的に派遣して近江国衙、愛発関、越前国衙をおさえてしまいます。

 

 三尾崎の防衛線を破られ、鬼江をはさんだ戦いにも敗れ、行き場を失った仲麻呂は勝野津から船で湖上に逃れますが、たちまち捕えられて最後まで従った妻子徒党34(44)人と首を打たれてしまいます。

 『水鏡』は、仲麻呂の娘の一人が大変な美人で、鑑真にこの方は千人の男と出会うだろう、と予言されたが、この時に大勢の兵士の凌辱を受け、その数が千人だったとの話を載せています。

 まあ、『水鏡』は200年後に書かれたものですし、あまり信用できる史料ではありません。

 

 ともあれ、乙女ケ池は元鬼江と呼ばれ、周辺で血腥い戦いがあったという歴史は知っていても良いでしょう。

 

しらひげ浜です。水泳場になっています。



 白鬚神社前の湖上に立つ鳥居は、写真だけみると安芸の宮島、厳島神社の鳥居と見間違えられることがありますが、歴史的にはそれほど古いものではなさそうです。

 弘安3年(1280)の絵図では陸上に描かれており、その後水位の上昇で水中に立つようになったとの伝承があります。

 昭和12年(1937)大阪の薬問屋小西久兵衛が鳥居を寄進するときに、伝説に従って湖上に立てたそうです。

 現在の鳥居は、昭和56年(1981)再建。


 白鬚神社の前の県道181号線は交通量が多く、横断歩道も離れており、まして信号も無いので渡るのは命がけ。遥拝しておきました。
 
 祭神を猿田彦命としますが、貞観7年(865)に神階を賜った「比良神」と同一とすると、元々は比良山を神体とする神社と考える説に分がありそうだ。

 13時50分、気がつけば 今日も昼食を逃している。白鬚神社から徒歩10分で蕎麦屋を見つけた。チェーン店だが仕方がない。WCタイムも近い。蕎麦定食大盛りと生中を注文する。

 近江舞子駅までほとんど県道沿いを歩く。ほぼ北国街道とはいえ、見どころは少ない。


 

 北小松の樹下神社、小松天満宮で小休止の後、近江舞子駅へ直行した。

歩行距離16.8km