2月25日9時に安曇川駅を出発。北へ向かう。

 安曇川駅周辺の地名を西万木(にしゆるぎ)という。佐々木定綱の孫にあたる佐々木惟綱が万木に住み、万木姓を名乗ったとされる。



 安曇はあどと読みますが、一般にはあづみ、と読む場合が多いです。海洋民族(要するに漁業従事者)の安曇族に由来すると言われ、安住、渥美、熱海、温海、厚見なども同じとされ、穂高見命(ほだかみのみこと)を祖とする安曇氏がこれを率いたと説かれます。

 でもどうなのでしょう。信州の安曇野も北アルプスの穂高岳も海洋民族にちなんだのでしょうかね。


 安曇川大橋から安曇川河口方面を望む。

 

 奈良時代に造東大寺司が高島山(朽木周辺の山)から伐り出した材木を少川津から安曇川に流し、河口で筏に組んで輸送したことが考えられています。

 『万葉集』に

 あどもひて 漕ぎいにし船は 高島の 阿渡(あど)の湊に 泊てにけむかも  

                                                   高市黒人 1718

  高島の 阿渡の湊を 漕ぎ過ぎて 塩津菅浦 今か漕ぐらむ         小弁  1734

 とみえる、阿渡の湊は安曇川河口の港をさすのでしょう。


 10時ころ新旭町を通過しました。

 安曇川流域は湖西最大の平野部ですから、古くから人々が住み、また勢力の大きな豪族も現れました。

 当然ですが史跡も多くあります。田中王塚古墳もその一つで、陵墓参考地として宮内庁が管理しています。

 継体天皇をご存知と思います。男大迹(おほど)天皇、またの名を彦太尊(ひこふとのみこと)という26代の天皇です。

 25代の武烈天皇に後継ぎがなかったために、応神天皇の五世の孫にあたる継体が越前国から迎えられて、樟葉宮(大阪府枚方市楠葉)で即位したと『日本書紀』にあります。

 五世の孫がです。武烈に後継がなかったのは事実でしょう。父の雄略がライバルになりそうな皇族たちを殺してしまったのですから。

 でも5代前の天皇の孫をどのようにして探し出したのでしょうか。



 私の5代前の太郎兵衛さん、木戸孝允が日記に面会したと記していますから明治初期の人物です。

 我が家でもわかるほどですから、5代前が誰かぐらいは知られていても不思議ではありませんが、太郎兵衛さんの五世の孫です、といきなり福井県から訪ねてこられても、確かめようがないですよね。


 継体の父の名を彦主人王(ひこうしおう)といいます。

 『日本書紀』によると、彦主人王は近江国高島郡三尾の別業にいるとき、垂仁天皇から7代の孫にあたる振姫がたいへん美しいと聞き、使者を派遣して三国の坂中井から迎えて妃とし、継体が生まれたとしています。

 ついで、継体が幼年の時、彦主人王が亡くなったため、振姫は越前高向に帰り、そこで継体を育てたとあります。

 継体の両親に関する情報はこれだけです。ここから多くの学者が様々な説や見解を導き出しているのですが、確実に言えるのは、次の3点でしょう。

① 彦主人王は近江高島郡三尾に別業を持っていた。

 別業は別邸、別荘の意味ですが、彦主人王は高島郡に所領を持ち、その経営管理のための施設が三尾の別業だったのでしょう。従って彦主人王の滞在は一時的なものと考えられます。

② 三尾で振姫の評判を聞いて、使者を派遣したことからは、近江国高島郡三尾と越前国坂中井との間に人的交流のあったことを示しています。

③ 継体が生まれてまもなく彦主人王は亡くなり振姫は越前国高向へ帰りますが、二人が何処で生活し、どこで継体が生まれたかまでは不明です。


 彦主人王の三尾別業滞在が一時的だとすると、継体が生まれた場所を彦主人王の本拠地と考えることも可能です。

 また、彦主人王が何処で亡くなり、どこに埋葬されたかも三尾と考える必要はなく、田中王塚古墳とする証拠はない、といえます。

 

 少し推理します。退屈な方は飛ばしてください。

 継体天皇陵は、大阪府茨木市太田茶臼山古墳が治定されていますが、これは誤りで、大阪府高槻市郡家新町にある今城塚古墳こそが正しい陵墓だとされています。




『延喜諸陵式』に三島藍野陵摂津国嶋上郡に在りとの記述と築造時期が、前者が5世紀中葉であるのに後者は6世紀前半と、継体の亡くなった531年(疑問はあります)に合致するのが根拠です。

 田中王塚古墳は、直径約58m、高さ約10mの円墳(帆立貝式とも)であるのに対し、今城塚古墳の兆域は340m×350mの巨大な前方後円墳です。

 継体が天皇であったにせよ、差が大きすぎるように思います。

 飛躍しますが、彦主人王の本拠地を三島周辺と考えると、継体の生誕地を近江ではなく三島とみることも可能となり、越前から迎えられた理由も元々畿内に淀川ー琵琶湖ー日本海とつながるルートを押さえていたからと理解できるのです。

 

 高島市の鴨稲荷山古墳(墳長40m前方後円墳)は6世紀前半の築造とみられ、出土した豪華な金銅の冠(広帯二山冠)や沓(くつ)などが百済からの渡来品と考えられることを根拠に、被葬者と考えられる三尾氏ひいては継体の国際性まで論じられたが、最近の土屋隆史さんの研究では、これらは倭国製であることが指摘されており、同様の広帯ニ山冠は今城塚古墳に近い物集車塚古墳などからも出土しているので、別角度から考えた方がが良いと思います。


(つづく)