ウガン(拝み)の時に香をたく

沖縄では、ウガンの時に線香をたいて祈る。これは沖縄の昔からの風習である。これはイスラエルでも、同じように約3,500年も前から、祭司たちによって、祭壇で香をたいて祈りが捧げられていたのである。

アカシヤ材で香をたく祭壇を造りなさい。・・・・・・アロンはその祭壇で香草の香をたく。すなわち、毎朝ともし火を整えるとき、また夕暮れに、ともし火をともすときに、香をたき、代々にわたって主の御前に香りの献げ物を絶やさぬようにする。」

(出エジプト30:1,7-8

香をたく祭壇はイスラエルでは、重要なものであった。香をささげることは、祈りの象徴であった。

この香は聖なる者たちの祈りである。」(黙示録5:8)。

わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を、夕べの供え物としてお受けください。」(詩編141:2

イスラエルでは、祭司たちが、香をたいて祈る時、しばしば手を上げて祈った。これは神に捧げる時の行為である。沖縄でも、線香をたき、手を上げて御願する姿を見かける。



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ウガン(拝み)の時に手をたたく

神社の参拝者は、神前で祈るときに、二度手をたたいて(拍手あるいは柏手)祈願をする。沖縄でも、神前で祈る神人(カミンチュ)たちが、神歌を歌いながら手をたたいたり、あるいはウガン(拝み)の時に手をたたいたり、すり合わせたりして、祈っている姿を目にする。

この祈りの時に手をたたく習慣は、中国からではない。有名な「魏志倭人伝」には、日本人(倭人)の独特な風習として、貴人に対して手をたたいて、ひざまづいて拝礼していたことが記されている(「神道の中のユダヤ文化」久保有政著)。つまり当時の日本人は、神に祈るときだけではなく、貴人に対しても手をたたいていたことが分かる。

また参拝のときだけではなく、約束を違わないというしるしに、双方が手を打つことがある。物品の売買が成立したときなど、「ヨォー」のかけ声などとともに、一同が手を打つことは、今日でも行なわれている。この手をたたくという行為は、尊敬や崇拝の気持ちを表したものであり、また相手に対して、誠実を誓う行為ともとれる。

古代イスラエルにも手をたたく風習があった。聖書でも「誓い・契約・約束」などに関するところで、「手をたたく」行為をしていている記述がある。

わが子よ。もし友人の保証人となって、他国の者に手を打って誓い……」(6:1

彼は誓いを軽んじ、契約を破った。彼は約束をしながら(直訳・手をたたいていながら)、これらすべての事を行った。彼は逃れることができない。」(エゼキエル17:18

ここでは「手を打つ」ことが、誓いを表す行為とされているし、「約束をしながら」と訳されている所は、直訳では「手をたたいていながら」となっているのである。古代イスラエルでは、約束を守るというしるしとして、手をたたいたのである。

神に祈るという行為は、崇拝であり、尊敬であり、同時に神と民との契約更新を意味している。つまり「今後も神をあがめてまいりますので、豊穣と繁栄を賜りますように」ということである。無意識にしていた、この手をたたくという行為にも、神に対する尊敬であり、誠実を示すという意味があるのかもしれない。



コラム 「拍手」も「柏手」もヘブル語から?

ユダヤ人の研究家ヨセフ・アイデルバーグによると、「拍手」は、ヘブル・アラム語で「たたく」を意味する「ハカシャ」からきたのではないか。……また神道では、古来からハクシュではなく、柏手(カシワデ)と言う。「カシワデ」は日本古来の大和言葉である。アイデルバーグによれば、これはヘブル・アラム語で「手をたたく」を意味する「キシ・イダ(たたく・手)」からきたのではないか、と語っている。」(「神道の中のユダヤ文化」久保有政著)