宮古のスディ水と聖書の命の水

宮古の神話の中に「生命の使者」というものがある。この神話の中にも、聖書との類似点を、発見することができる。以下に「生命の使者」の概要を記す(「宮古史伝」慶世村恒任著)。

宮古島の大昔、人の世の初めの時、天の神は、末永く常世の命を生きるように、人間にスディ水を浴びせ、一方では、心の悪い蛇には、スニ水を浴びせようとされた。

スディ水巣出水の意味。古い殻を脱ぎ捨てて、新しい命を受け継ぐこと。卵からヒナがかえることや、蛇の脱皮やセミの脱殻も巣出。スディ水は絶えず心身が新しくなり、永久の生命をつなぐ水のこと。スニ水死水で、死んで再生できない水のこと。)

そこでアカリヤ仁座(天使)は、二つの水桶を持って下界へ下った。下界へ下りて、ちょっと用を足している間に、一匹の蛇がすばやくやって来て、人間に浴びせるためのスディ水の桶に入ってしまった。アカリヤ仁座は驚いて「どうしよう。まさか蛇の浴び残りを人間に浴びせる訳にもいかない。しょうがない。スニ水だけでも人間に浴びせよう」と気の毒に思いながらも、人間スニ水を浴びせて天上へ帰った。

そして、スディ水を浴びた蛇は、脱皮して新生命を受け継ぎ、スニ水を浴びせられた人間は永久に生きたくても、一度死ねば再生できないように運命づけられてしまった。

そして蛇は、それまでは長い丈夫な四足を持っていたが、このように人間をもしのぐすばやさでは都合が悪いということで、神々はその足をもぎ取ってしまった。それでいつまでたっても蛇の足はできず、のろのろと腹這うほかできなくなったという。

これは聖書の記述と良く似ているアダムエバが、命の木の実を食べそこねたこと。さらに善悪の知識の木の実を蛇にだまされて食べてしまい、人間に死が入り込んでしまったこと。このも、悪い者、サタンの化身だが、その後、呪いとして蛇は手足を失い、地べたを這いまわるようになるのである(創世記3章)。先に紹介した「エデンの園でイブを誘惑する蛇(ミケランジェロ作)」の絵画(21頁)の蛇にも、よく見ると手足が付いている。

命の木の実は、永遠の命のことで、命の水でもある。聖書の他の箇所では

渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう

(黙示録21:6)

と言われているからだ。このように宮古の神話の中に、聖書との類似があるのは、とても興味深い。

その他にも、古宇利島の創世神話に、「エデンの園」の物語とそっくりな伝承がある。

それは琉球の人々の起源は、太古の昔、無人島にいた一組の男女であったというものである。彼らは初め、裸で、何の気がねもせず、のびのびと暮らしていたが、ある時から食物を得るために額に汗して働かねばならなくなった。彼らは海鳥の交尾を見て、男女の道を知ったが、それまで裸でいたのが急に恥ずかしくなり、木の葉をつづって腰に巻くようになった。

これは旧約聖書のアダムとイブの話しに非常に良く似ているのである(創世記3章)。

また沖縄南部では「イキガヤ ソーキブニヌ ティーチタラン」(男はあばら骨が一つ足りないという意味)の諺(ことわざ)がある。この諺は「男は女にかかったら愚になる」という意味に使われているそうだが、これもアダムから肋骨が1本取られ、それをもとにしてイブが造られたという話しに良く似ている(創世記2:21-22)。

さらに、沖縄の創世神話には、天の神が、土で人間を形づくるという物語がある。その時に、天の神は自分に似せて、人間を造ること、人間が生きるために、息を吹きかけることなど、旧約聖書の記述にあまりにも似ているのである(創世記1:26-27,2:7)。

この他にも、色々調べてみれば、もっと類似性が見つかるかもしれない。