自殺志望者からの臓器提供
8/20(火)今月の9日、長崎市で、中学生の女の子が脳死と判定された。本人の臓器提供カードでの意思表示は無かったけど、親御さんが、本人が看護師になって、人に役に立ちたいと望んでいた事から、臓器提供を承諾した。14歳以下の少女のケースは国内3例目だそうや。
どこかで娘さんが生きてくれる・・・という思い。それが承諾書にサインする理由となったのやろうけど、よくご決心されたと思う。ただ、このニュースがテレビで報道されたとき、心臓はどこどこ、肺はどこどこへ、肝臓はどんな人へと、テロップが流れた時。この報道、果たして、要るのか。。。と、思った。それ、公表すべき情報なのかな。。。
臓器提供という、センシティブな問題を、ちょっとは真剣に考えたら、何か、脳死の子どもの親の気持ちは、少なからず、遺体を切り刻む事への罪悪感で一杯やと思うのやね。。。まして、我が子。。。臓器移植でしか助からない人の命を救うという崇高さとは、裏腹に、脳は死んでいるけど、心臓は動いている我が子の臓器を取り出してしまうこと・・・。私は、申し訳無いけど、出来ひんわ。。。
脳死は人の死だという理屈は分かる。でも、人の親やったら、我が子の心臓を止めて下さいと言えるものか。。。臓器提供を待つ人も多く、その多くが間に合わず、命を落とされてる現状を考えたら、これからも臓器移植は、最も有効な救命方法であるのかも知れない。でもね。心が狭いと言われても、なかなか現実に直面すれば、出来るものやない。。。
人の倫理観とか、死生観というものは、なかなか変えられるものやない。心停止が死であると信じて疑わない人にとって、脳死は、医者の作った屁理屈なルールにも見える。まさに、神の領域に人間である医師が踏み込んでしまっているのではないかという考え方。意外と大多数を占めているのやないのかな。。。そんなことをすれば、移植医療は進まない。その通りかもしれない。でも、多くの一般人にとって、献体や、臓器の提供というものは、それぐらい、とてもハードルの高いものや。そして、人としての倫理観を問うものでもある。
医者から強制されることなく、本人の遺志によって、自発的にされるべきもの。この一線は越えられないし、越えてはいけない。そんなことを感じた。。。
多くの宗教で、自殺することは罪である。日本でも自殺者の臓器提供は聞いたことがないし、献体目的の死は、なかなか受け入れられるものではない。そんなことは分かっているのだけれど、日本では、多くの自殺志願者が後を絶たない。需要と供給はあるのに、それをつなげるすべがない。。。大っぴらには出来ないけど、裏で自殺者の臓器提供を受け入れるられるような、そんな仕組みは出来ないものなんやろうか。医師が殺人者になってしまうかぎり、こんな事は出来っこないのやけど、幾ばくかのもどかしさを感じてしまうところなんやね。。。