「無意識の意識」「無知の知」「無作の作」を把握すること、体験として知ること、体得することが悟りです。決して対象化できない主観を直(直接)に知ることが悟りです。
以上のことから導きだされる重要なポイントは、私たちには「二つの知の作用」「二つの認識作用」があるということです。一つは相対知=分別知であり、もう一つは絶対知=直覚=自知=自己同一知=般若ということになります。そして更に重要なことは、絶対知が相対知に必ず「先行」するということです。相対知は絶対知を「反省」することによって生起するからです。
絶対知については次の三つを峻別することが出来ます。
知覚
「感覚の自知」ということになります。冷たい暖かいという感覚が感覚自身を知るというところに「知覚」が成り立ちます。「知覚」は知る感覚と知られる感覚が自己同一である所に成り立つ知です。
「運動の骨」
「筋覚の自知」ということです。筋覚が筋覚自身を自知することが「骨」と言われるものです。「骨」は知る筋覚と知られる筋覚が自己同一のところに成り立つ知です。
「般若」
「思惟の自知」ということです。思惟は感覚をまとめ上げる所謂「統覚」ですから、思惟が思惟自身を自知することが般若です。知覚や骨よりも上位の自知=般若ということになります。
私たちは、暑い時に、「暑い!」と言います。この事実を深堀してみると、二重に判断していることがわかります。暑いと感じるときには既に暑さを感覚で判断(知覚)しているのです。しかしそれに加えて、「暑いと言う」ときには「思惟の判断」が加わっています。「暑い!暑い!」と言う(思惟する)ことで知覚している暑さを倍増させているのです。「口は災いの元」なのです。「言論の自由」もそこそこに、ということです。
弟子「これから猛暑が来ますが、どうしたら避けることが出来ますか」
師匠「どうして無寒暑の所に行かないのか」
「無寒暑の所」とは「無分別の所」ということになります。この「無分別」を分別すること、すなわち「無分別の分別」が悟りということになります。(つづく)
公案は多様ですが、数種に分類することが出来ます。上記とは一味違った公案を紹介します。
師匠と弟子が一緒に散歩をしていました。空を見上げれば、折しも野鴨子が飛んでいました。
師匠「あれは何だ」
弟子「野鴨子です」
師匠「何処に飛んで行くのか」
弟子「もう飛んで行ってしまいました」
(師は、間髪を入れず、弟の鼻を捻り上げて)
師匠「まだここにいるではないか」
弟子は痛みに喘ぎながらハット気づきました、悟ったのです。
弟子の主観(意識作用・ハタラキ)は「鳥が飛び去った」という客観の世界をあらしめています、しかし、突然、鼻を捻り上がられて、主観の世界に連れ戻され、意識作用・ハタラキに気がつかされます。客観を在らしめているのは主観であるということが直覚=般若=自己同一知でわかります。客観と主観とは主客未分であることがわかります。「主観に裏付けられた客観」、「主客が一枚になっている状態」、まさに、これこそ「主客未分の状態」、すなわち「いま・ここ」という「現在進行」の意識作用そのもの、ハタラキそのものを知ることになります。過去の意識作用は既に作用を失っています、未来の意識作用に作用がある筈がありません、ハタライテいる意識作用は「いま・ここ」にしかありません。
弟子「仏とは?」
師匠「教えてやろう、もっとこちらに寄れ」
(弟が師に近づくと、いきなり蹴飛ばされました)
弟は起き上がろうとしたその瞬間、悟りました。
弟子が教えてもらおうと「近づく時」、弟子は「近づく」というハタラキ・行為・主観を意識していません、「思わず」近づいています。つまり、「無意識」に近づくという行為・ハタラキ・主観を実行しているのです。弟子の「近づく」という行為は「無意識の意識」なのです。弟子はこの「無意識の意識」確かに掴んだのです。対象化できない主観を直に覚したのです、直覚したのです、悟ったのです。
これは上と全く同じ問答です。
弟子「人は貴方の説教に感服しているが、私は聞きたくない」
師匠「私は耳が遠いので、もう少し前へ来て下さい」
(弟子は師匠に近づきます。)
師匠「私の云うことをよく聞いているではないか」
近づくという行為は「無意識の意識」であり、「無分別の分別」であり、「無作の作」です。(つづく)
師匠と弟子が一緒に散歩をしていました。空を見上げれば、折しも野鴨子が飛んでいました。
師匠「あれは何だ」
弟子「野鴨子です」
師匠「何処に飛んで行くのか」
弟子「もう飛んで行ってしまいました」
(師は、間髪を入れず、弟の鼻を捻り上げて)
師匠「まだここにいるではないか」
弟子は痛みに喘ぎながらハット気づきました、悟ったのです。
弟子の主観(意識作用・ハタラキ)は「鳥が飛び去った」という客観の世界をあらしめています、しかし、突然、鼻を捻り上がられて、主観の世界に連れ戻され、意識作用・ハタラキに気がつかされます。客観を在らしめているのは主観であるということが直覚=般若=自己同一知でわかります。客観と主観とは主客未分であることがわかります。「主観に裏付けられた客観」、「主客が一枚になっている状態」、まさに、これこそ「主客未分の状態」、すなわち「いま・ここ」という「現在進行」の意識作用そのもの、ハタラキそのものを知ることになります。過去の意識作用は既に作用を失っています、未来の意識作用に作用がある筈がありません、ハタライテいる意識作用は「いま・ここ」にしかありません。
弟子「仏とは?」
師匠「教えてやろう、もっとこちらに寄れ」
(弟が師に近づくと、いきなり蹴飛ばされました)
弟は起き上がろうとしたその瞬間、悟りました。
弟子が教えてもらおうと「近づく時」、弟子は「近づく」というハタラキ・行為・主観を意識していません、「思わず」近づいています。つまり、「無意識」に近づくという行為・ハタラキ・主観を実行しているのです。弟子の「近づく」という行為は「無意識の意識」なのです。弟子はこの「無意識の意識」確かに掴んだのです。対象化できない主観を直に覚したのです、直覚したのです、悟ったのです。
これは上と全く同じ問答です。
弟子「人は貴方の説教に感服しているが、私は聞きたくない」
師匠「私は耳が遠いので、もう少し前へ来て下さい」
(弟子は師匠に近づきます。)
師匠「私の云うことをよく聞いているではないか」
近づくという行為は「無意識の意識」であり、「無分別の分別」であり、「無作の作」です。(つづく)
仏とは?悟りとは?仏性とは?と問われた覚者たちは、次のように答えています。
「庭前柏樹子」
「乾屎厥」(厥は誤字です)
「牆壁瓦礫」
「麻三斤」
「東山水上行」
弟子たちはこのように説かれた意味・内容を必死に解こうとします。この時、覚者たちは内心なにを思っているのでしょうか。
「解こうとしても意味がない(解けない)と明言しているではないか、この私が、意味のあることを云って説こうとしているとでも思っているのか、釈尊の「四十九年一字不説」を忘れたのか。どうしてお前たちの注意がそちらの方に向かうのか、説いている私の方に注意を向けないのか、「向かえば背く」を忘れたのか、客観界を深堀して、肝心の主観界をなおざりにしてどうする。私は、こうして説いていてハタラキそのものを体現し、直指しているではないか。説かれたものは客観だ、説いているこの私は主観だ。説かれたものは意識の対象だ、説いているこの私は意識の作用だ、ハタラキだ。このハタラキを直覚した時、お前たちは仏なのに・・・。」
実のところ、これらの「公案」の真の目的は、弟子たちをして徹底的に考えさせることにあります。弟子たちをして「相対知」を駆使させ、徹底的に考えさせ、どうにもならないギブアップにまで追い込むのです。つまり「百尺竿頭」に追いつめるのです。こうすることによって、「相対知」から「絶対知」(直覚、般若)への「進一歩」すなわち「知の飛躍」のための準備を整えさせるのです。これらの公案は覚者たちが仕掛けた「罠」なのです。
ちなみに、他のサイトを検索してみてください。これらの公案をめぐって、我こそはと、多様な見解が述べられています。「罠」にかかって、もがいている様を窺うことが出来ます。(つづく)
「庭前柏樹子」
「乾屎厥」(厥は誤字です)
「牆壁瓦礫」
「麻三斤」
「東山水上行」
弟子たちはこのように説かれた意味・内容を必死に解こうとします。この時、覚者たちは内心なにを思っているのでしょうか。
「解こうとしても意味がない(解けない)と明言しているではないか、この私が、意味のあることを云って説こうとしているとでも思っているのか、釈尊の「四十九年一字不説」を忘れたのか。どうしてお前たちの注意がそちらの方に向かうのか、説いている私の方に注意を向けないのか、「向かえば背く」を忘れたのか、客観界を深堀して、肝心の主観界をなおざりにしてどうする。私は、こうして説いていてハタラキそのものを体現し、直指しているではないか。説かれたものは客観だ、説いているこの私は主観だ。説かれたものは意識の対象だ、説いているこの私は意識の作用だ、ハタラキだ。このハタラキを直覚した時、お前たちは仏なのに・・・。」
実のところ、これらの「公案」の真の目的は、弟子たちをして徹底的に考えさせることにあります。弟子たちをして「相対知」を駆使させ、徹底的に考えさせ、どうにもならないギブアップにまで追い込むのです。つまり「百尺竿頭」に追いつめるのです。こうすることによって、「相対知」から「絶対知」(直覚、般若)への「進一歩」すなわち「知の飛躍」のための準備を整えさせるのです。これらの公案は覚者たちが仕掛けた「罠」なのです。
ちなみに、他のサイトを検索してみてください。これらの公案をめぐって、我こそはと、多様な見解が述べられています。「罠」にかかって、もがいている様を窺うことが出来ます。(つづく)
上来をまとめると次のようになります、
第一段
「色の世界」「客観界」「意識された世界」「意識の対象界」「物象化された世界」「物の世界」「自然界」「所の世界」(所とは能所の所)
第二段
「空の世界」「主観界」「意識する世界」「意識の作用界」「物象化する世界」「心の世界」「精神界」「能の世界」(能とは能所の能)
第三段
「空即色の世界」(空にして色の世界)「主客未分の世界」(主にして客の世界)「作用にして対象の世界」、「心にして物の世界」「精神界にして物質界」「能即所の世界」 注:即=「AにしてB」「AでありながらB」
師匠は弟子に或る物(何でもかまいません)を渡そうとして、次のように仕掛けました、
師匠「これを無手で取れ」
弟子「無手で渡せ」
この会話で、師匠は弟子が悟った事を確認し、長年の苦労(師弟双方の)が実ったことに至極満足したということです。
「無手」とは色である手を肯定し、無で否定しています、手にして手にあらず、つまり色即空です、「取れ」「渡せ」とは主客合一のところにハタライテイル「ハタラキ自体」を意味しています。このハタラキ自体を直覚することが悟りです。ハタラキ自体は対象化できません、相対知・分別知では知る事が出来ません、直覚・直観する以外にありません。
師匠「朝飯を食ったか」
弟子「はい、済ませました」
師匠「それなら、食器を片付けなさい」
師匠は弟子の「ハタラキ」を「促している」のです。百尺竿頭を100歩まで来ている弟子であれば、熟した柿が落ちるように、ハッと気がつき=直観することで、悟ることが出来るのですが、未達の弟子は何のことやら全くわかりません。
「喫茶去」(茶でも飲んでお行き)
これも上と同様、「ハタラキ」を促しているのです。
師匠「おい」
弟子「ハイ」
師匠「おい」
弟子「ハイ」
師匠「わかたか」
弟子「よくわかりました」
師匠「どうわかたか」
弟子「ハイが私で、私がハイではないことがわかりました」
弟子は確かに悟ったのです、私という存在があって、その存在としての私がハイと応えているのではないということがわかったのです。「ハタラキ=私」(行為と存在の一致=事行)ということがわかったのです。ハタラキという人間の本性=仏性を直覚したのです、すなわち仏性を見たのです、「見性」したのです、悟ったのです。ちなみに、私たちのハタラキとは私たちの命のことです、見性とは命を直覚することに他なりません。「実存主義」が命の充足を求めるものであるとするならば、仏教は2500年の歴史をもつ「実存主義の元祖」ということができます。仏教は、私たちの普通の知(相対知・分別知)によっては決して達することの出来ない、百尺竿頭を更に一歩を出たところに展開する「命の世界」に誘うのです。(つづく)
第一段
「色の世界」「客観界」「意識された世界」「意識の対象界」「物象化された世界」「物の世界」「自然界」「所の世界」(所とは能所の所)
第二段
「空の世界」「主観界」「意識する世界」「意識の作用界」「物象化する世界」「心の世界」「精神界」「能の世界」(能とは能所の能)
第三段
「空即色の世界」(空にして色の世界)「主客未分の世界」(主にして客の世界)「作用にして対象の世界」、「心にして物の世界」「精神界にして物質界」「能即所の世界」 注:即=「AにしてB」「AでありながらB」
師匠は弟子に或る物(何でもかまいません)を渡そうとして、次のように仕掛けました、
師匠「これを無手で取れ」
弟子「無手で渡せ」
この会話で、師匠は弟子が悟った事を確認し、長年の苦労(師弟双方の)が実ったことに至極満足したということです。
「無手」とは色である手を肯定し、無で否定しています、手にして手にあらず、つまり色即空です、「取れ」「渡せ」とは主客合一のところにハタライテイル「ハタラキ自体」を意味しています。このハタラキ自体を直覚することが悟りです。ハタラキ自体は対象化できません、相対知・分別知では知る事が出来ません、直覚・直観する以外にありません。
師匠「朝飯を食ったか」
弟子「はい、済ませました」
師匠「それなら、食器を片付けなさい」
師匠は弟子の「ハタラキ」を「促している」のです。百尺竿頭を100歩まで来ている弟子であれば、熟した柿が落ちるように、ハッと気がつき=直観することで、悟ることが出来るのですが、未達の弟子は何のことやら全くわかりません。
「喫茶去」(茶でも飲んでお行き)
これも上と同様、「ハタラキ」を促しているのです。
師匠「おい」
弟子「ハイ」
師匠「おい」
弟子「ハイ」
師匠「わかたか」
弟子「よくわかりました」
師匠「どうわかたか」
弟子「ハイが私で、私がハイではないことがわかりました」
弟子は確かに悟ったのです、私という存在があって、その存在としての私がハイと応えているのではないということがわかったのです。「ハタラキ=私」(行為と存在の一致=事行)ということがわかったのです。ハタラキという人間の本性=仏性を直覚したのです、すなわち仏性を見たのです、「見性」したのです、悟ったのです。ちなみに、私たちのハタラキとは私たちの命のことです、見性とは命を直覚することに他なりません。「実存主義」が命の充足を求めるものであるとするならば、仏教は2500年の歴史をもつ「実存主義の元祖」ということができます。仏教は、私たちの普通の知(相対知・分別知)によっては決して達することの出来ない、百尺竿頭を更に一歩を出たところに展開する「命の世界」に誘うのです。(つづく)
正解は「是同」すなわち三般(三種)は同一です。何故かを詳しく説明します。
これら二つの偈は何れも「色→空→色即空」ということを説いています。私たちの「三つの認識の立場」について述べているのです。そして、これら三つの立場は三段目の立場に集約されるということを示唆しているのです。
第一段(色の世界・客観界・思惟の対象界)
主観すなわち意識作用は一般的に知・情・意に分類されます。知と情意との基本的な相違は、情意が主客未分であるのに対して「知は主客分離」であるという点です。この「知の主客分離」ということこそ人間と他の動物との抜本的な相違です。主客分離は「反省」によって可能なので、人間は「反省する動物」ということが出来ます。思惟は思惟の「内容」を反省し、外化し、思惟の「対象」にしているのです。これが私たちの「相対知」「分別知」といわれるものです。私たちの知は考えられるもの(対象)がないことには考えられないのです。私たちの眼前に広がるこの世界(此岸)は思惟の対象として私たちが描いた世界です、いわば私たちの「作品」です。しかし、覚者以外のすべての人々はこの作品(浮き世)の中に住んでいるという自覚がありません。生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの「環境世界」説によれば、動物は自分の周りの環境の中から自分にとって「意味のあるもの」だけを取捨し、それを知覚し、それに働きかけて生きることによって、自分を取り巻く世界を構築するということになっています。つまり、蟻には蟻の意味の世界があり、モグラにはモグラの意味の世界があり、人間には「人間の意味の世界」があるということになります。しかし、私たちは、私たちの意識とは無関係に、客観的な世界があるという抜本的な思い込みがあります、私が死んでもこの世界は残るということは自明のことと信じています。西洋哲学・思想に於いては常に「客観界」「実体の世界=真なるものの世界」「物自体の世界」があるのだという思い込みを前提としています。これに反し、仏教の立場は「現実的」で、私たちがこの世、この世界といっているものは「意味の世界」であって、それ以外の世界はあったとしても知りようのない世界なので問題にしません。私たちが死んだら、それと共に私たちが描いた作品である「意味の世界」すなわち「この世」は消滅します。所謂客観界などというものは何処にも存在しません。
第二段(空の世界・主観界・絶対無の世界)
主観は対象化できません。主観を対象化したら、それは主観ではなく客観です。
従って、主観があるということも出来ません。主観が無かったら客観もありません、これが有無の無ではない高次元の「絶対無」です。従って「絶対無」は「相対知の立場」では証明することが出来ません。どうしても次の第三段の「色即空の立場」に立たなければなりません。色即空の立場を獲得するために一般的に要請されるのが所謂「座禅」です、しかし座禅は手段ですから必ず必要という訳ではありません。「座禅」では思惟の休止に努めます。そして思惟を休止しても、なおハタラクものがあるということを直覚します。この「ハタラクものの直覚」が重要なのです。何故ならば、このハタラクものが私たちの本性であり、仏性であり、この本性=仏性を直覚・直観することが、性を見ること、すなわ「見性」=悟りなのです。覚者としての惟信禅師が「山を見ればこれ山にあらず、水を見ればこれ水にあらず」というのは、絶対無の立場に立つた時の表現なのです。
第三段(色即空の世界・主客未分界・知情意の作用即対象界)
主観と客観が一枚の紙の裏と表のように、切り離すことができないものとして、空が色となり、色が空となる「動的・具体的・全体の世界」です、これこそ「真の実在」なのです。紙の表と裏を同時に見ることは出来ません。裏と表を見るには見る目が動かなければなりません、従って「即」「如」なのです。「即」「如」は「=」ではありません。色が空に「転」じ空が色に「転」じるという動きが含まれた仏教独特の概念です。色に於いてある物は三次元に於ける物であり、空に於いてあるものは四次元に於けるハタラキなのです。この両者は互いに異次元なのです。異次元のものを「=」でつなぐことは出来ません。しかし、これら異次元のものを同次元に置いて思惟するというところに問題が起こってきます。例えばデカルトは、精神の主要な属性は思惟であり、物体の主要な属性は延長であると考え、時間に於ける精神と空間に於ける物体(自然)を峻別して、二つの原理を立て、精神と自然という相対立する構図を描きました。そのために、私たちは精神と身体に分裂してしまいました。そしてこの二元論は、西洋においては未だに統一され克服されているとはいえません。仏教ではこの二項対立を実に単純に乗り越えます。仏教には「刹那」という概念があります。刹那とは一般に時間的概念ですが、仏教では空間的な概念でもあります。刹那とはほとんど静止した時間と、位置だけあってほとんど広がりのない空間を意味し、これが「いま・ここ」であると考えます。そしてこの「いま・ここ」は外から見ればその存在すら疑わしい世界に過ぎませんが、内から見れば(その場に立てば)絶対の現在、絶対の場所として、永遠の時間と無限の空間を意味しています。私たちの命(ハタラキ)の在処は、実に、この時・この場にしかないということになります。私たちは「いまの連続として永遠・ここの連続として無限」に於いて生きているということになります。これを仏教では、空間的な表現としては「一粒の芥子種の中に須弥山を収める」といいます。(つづく)
これら二つの偈は何れも「色→空→色即空」ということを説いています。私たちの「三つの認識の立場」について述べているのです。そして、これら三つの立場は三段目の立場に集約されるということを示唆しているのです。
第一段(色の世界・客観界・思惟の対象界)
主観すなわち意識作用は一般的に知・情・意に分類されます。知と情意との基本的な相違は、情意が主客未分であるのに対して「知は主客分離」であるという点です。この「知の主客分離」ということこそ人間と他の動物との抜本的な相違です。主客分離は「反省」によって可能なので、人間は「反省する動物」ということが出来ます。思惟は思惟の「内容」を反省し、外化し、思惟の「対象」にしているのです。これが私たちの「相対知」「分別知」といわれるものです。私たちの知は考えられるもの(対象)がないことには考えられないのです。私たちの眼前に広がるこの世界(此岸)は思惟の対象として私たちが描いた世界です、いわば私たちの「作品」です。しかし、覚者以外のすべての人々はこの作品(浮き世)の中に住んでいるという自覚がありません。生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの「環境世界」説によれば、動物は自分の周りの環境の中から自分にとって「意味のあるもの」だけを取捨し、それを知覚し、それに働きかけて生きることによって、自分を取り巻く世界を構築するということになっています。つまり、蟻には蟻の意味の世界があり、モグラにはモグラの意味の世界があり、人間には「人間の意味の世界」があるということになります。しかし、私たちは、私たちの意識とは無関係に、客観的な世界があるという抜本的な思い込みがあります、私が死んでもこの世界は残るということは自明のことと信じています。西洋哲学・思想に於いては常に「客観界」「実体の世界=真なるものの世界」「物自体の世界」があるのだという思い込みを前提としています。これに反し、仏教の立場は「現実的」で、私たちがこの世、この世界といっているものは「意味の世界」であって、それ以外の世界はあったとしても知りようのない世界なので問題にしません。私たちが死んだら、それと共に私たちが描いた作品である「意味の世界」すなわち「この世」は消滅します。所謂客観界などというものは何処にも存在しません。
第二段(空の世界・主観界・絶対無の世界)
主観は対象化できません。主観を対象化したら、それは主観ではなく客観です。
従って、主観があるということも出来ません。主観が無かったら客観もありません、これが有無の無ではない高次元の「絶対無」です。従って「絶対無」は「相対知の立場」では証明することが出来ません。どうしても次の第三段の「色即空の立場」に立たなければなりません。色即空の立場を獲得するために一般的に要請されるのが所謂「座禅」です、しかし座禅は手段ですから必ず必要という訳ではありません。「座禅」では思惟の休止に努めます。そして思惟を休止しても、なおハタラクものがあるということを直覚します。この「ハタラクものの直覚」が重要なのです。何故ならば、このハタラクものが私たちの本性であり、仏性であり、この本性=仏性を直覚・直観することが、性を見ること、すなわ「見性」=悟りなのです。覚者としての惟信禅師が「山を見ればこれ山にあらず、水を見ればこれ水にあらず」というのは、絶対無の立場に立つた時の表現なのです。
第三段(色即空の世界・主客未分界・知情意の作用即対象界)
主観と客観が一枚の紙の裏と表のように、切り離すことができないものとして、空が色となり、色が空となる「動的・具体的・全体の世界」です、これこそ「真の実在」なのです。紙の表と裏を同時に見ることは出来ません。裏と表を見るには見る目が動かなければなりません、従って「即」「如」なのです。「即」「如」は「=」ではありません。色が空に「転」じ空が色に「転」じるという動きが含まれた仏教独特の概念です。色に於いてある物は三次元に於ける物であり、空に於いてあるものは四次元に於けるハタラキなのです。この両者は互いに異次元なのです。異次元のものを「=」でつなぐことは出来ません。しかし、これら異次元のものを同次元に置いて思惟するというところに問題が起こってきます。例えばデカルトは、精神の主要な属性は思惟であり、物体の主要な属性は延長であると考え、時間に於ける精神と空間に於ける物体(自然)を峻別して、二つの原理を立て、精神と自然という相対立する構図を描きました。そのために、私たちは精神と身体に分裂してしまいました。そしてこの二元論は、西洋においては未だに統一され克服されているとはいえません。仏教ではこの二項対立を実に単純に乗り越えます。仏教には「刹那」という概念があります。刹那とは一般に時間的概念ですが、仏教では空間的な概念でもあります。刹那とはほとんど静止した時間と、位置だけあってほとんど広がりのない空間を意味し、これが「いま・ここ」であると考えます。そしてこの「いま・ここ」は外から見ればその存在すら疑わしい世界に過ぎませんが、内から見れば(その場に立てば)絶対の現在、絶対の場所として、永遠の時間と無限の空間を意味しています。私たちの命(ハタラキ)の在処は、実に、この時・この場にしかないということになります。私たちは「いまの連続として永遠・ここの連続として無限」に於いて生きているということになります。これを仏教では、空間的な表現としては「一粒の芥子種の中に須弥山を収める」といいます。(つづく)
道元の文は非常に行間が広く難解なので、大胆に意訳しないと意味が通じません。
「諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。」
ものごとが実在=動的・具体的・全体である時、(それらを客観的に見れば)それらは「静的・抽象的・部分」(物象化されたものごと)として有る。
「万法ともに我にあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。」
ものごとが我によって意識されない時、一切は消滅し「絶対無」・「空」となる。
「仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、消滅有り、迷悟有り、生仏あり。」
仏道は、本来、存在(静的・抽象的・部分)の有無を問うものではないので、ものごとは「主客未分の実在(動的・具体的・全体)」として有る。
「しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。」
このようであると「思惟による論理的な教」としては説けるものの、行(実践・現在進行の体験)の立場としては、このように「直指」するのみである。
次の惟信禅師の偈は上記の道元禅師の偈とその趣旨において全く同じです。ひょっとしたら道元はこの偈を下敷きにしたのかもしれません。
「老僧三十年前、未参禅時、見山是山、見水是水。
及至後来親見知識有箇入処、見山不是山、見水不是水。
而今得箇休曷処、依前見山祇是、見水祇是水。
大衆、這三般見解、是同是別。」
老僧三十年前、未だ禅に接しなかった時、山を見ればこれ山、水を見ればこれ水。
その後、親しく知識を得て、箇の入処あるに至に及んで、山を見ればこれ山にあらず、水を見ればこれ水にあらず。
近頃、箇の休曷の処を得て(これが落ち着く処に落ちついて)、嘗てのように、山を見ればただこれ山、水を見ればただこれ水、ということになった。
大衆(諸君)、これら三般(三種)の見解(認識)は、これ同か、これ別か?
正解は次回
(つづく)
「諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。」
ものごとが実在=動的・具体的・全体である時、(それらを客観的に見れば)それらは「静的・抽象的・部分」(物象化されたものごと)として有る。
「万法ともに我にあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。」
ものごとが我によって意識されない時、一切は消滅し「絶対無」・「空」となる。
「仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、消滅有り、迷悟有り、生仏あり。」
仏道は、本来、存在(静的・抽象的・部分)の有無を問うものではないので、ものごとは「主客未分の実在(動的・具体的・全体)」として有る。
「しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。」
このようであると「思惟による論理的な教」としては説けるものの、行(実践・現在進行の体験)の立場としては、このように「直指」するのみである。
次の惟信禅師の偈は上記の道元禅師の偈とその趣旨において全く同じです。ひょっとしたら道元はこの偈を下敷きにしたのかもしれません。
「老僧三十年前、未参禅時、見山是山、見水是水。
及至後来親見知識有箇入処、見山不是山、見水不是水。
而今得箇休曷処、依前見山祇是、見水祇是水。
大衆、這三般見解、是同是別。」
老僧三十年前、未だ禅に接しなかった時、山を見ればこれ山、水を見ればこれ水。
その後、親しく知識を得て、箇の入処あるに至に及んで、山を見ればこれ山にあらず、水を見ればこれ水にあらず。
近頃、箇の休曷の処を得て(これが落ち着く処に落ちついて)、嘗てのように、山を見ればただこれ山、水を見ればただこれ水、ということになった。
大衆(諸君)、これら三般(三種)の見解(認識)は、これ同か、これ別か?
正解は次回
(つづく)
仏教では、しばしば「向かえば背く」といいます。これは悟りを求める人にとって非常に重要なことです。
親鸞は九歳で出家し、二十九歳で、長年の修行にもかかわらず悟りを得ることなく失意のうちに比叡山を下り、京都の「六角堂」に100日間籠ったと伝えられています。その後、親鸞は自らを「愚禿」(愚かな禿頭)と自称するようになります。この親鸞の愚禿には、親鸞の悟りの自覚と浄土門への転向の決意が伺われます。親鸞にとって、二十年間の比叡山における修行は、師匠の法話を聴き、各種の儀式に参列し、経典を読破し、思索を深めることだったに相違ありませんが、それは結局「客観」を学び、客観の世界を拡大し、客観界に浸ることで、主観を志向し主観を明らかにする悟りへの道(仏道)とは正反対だったのです、全くベクトルが逆だったのです。悟りを得て、そのことに気づいた親鸞は「向かえば背く」の真意が身にしみてわかった筈です。覚者となった親鸞が過去を振り返った時、「愚」としかいいようがない自分自身を嘲笑せざるを得なかったのです。しかしそれは単なる自虐ではなく、悟りの自覚という自尊を伴ったものでした。
悟りへの「認識の過程」は、「色→空→色即空」と進むことになります。「色」は「客観界」で、所謂この世・此岸・穢土です。「空」は「主観界」で「絶対無の世界」であり、既に「彼岸」「浄土」です。「色即空」は色と空が紙の表裏のように切り離すことの出来ない「主客未分の世界」で、先に述べたように、決して「色=空」という意味ではありません。色と空とは全く土俵が相違しているので相対関係にはありません。悟りへの認識過程は「客観→主観→主客未分」と進展します。このことは、次の道元禅師の主著『正法眼蔵』・現成公案の巻に見事に説かれています。
親鸞は九歳で出家し、二十九歳で、長年の修行にもかかわらず悟りを得ることなく失意のうちに比叡山を下り、京都の「六角堂」に100日間籠ったと伝えられています。その後、親鸞は自らを「愚禿」(愚かな禿頭)と自称するようになります。この親鸞の愚禿には、親鸞の悟りの自覚と浄土門への転向の決意が伺われます。親鸞にとって、二十年間の比叡山における修行は、師匠の法話を聴き、各種の儀式に参列し、経典を読破し、思索を深めることだったに相違ありませんが、それは結局「客観」を学び、客観の世界を拡大し、客観界に浸ることで、主観を志向し主観を明らかにする悟りへの道(仏道)とは正反対だったのです、全くベクトルが逆だったのです。悟りを得て、そのことに気づいた親鸞は「向かえば背く」の真意が身にしみてわかった筈です。覚者となった親鸞が過去を振り返った時、「愚」としかいいようがない自分自身を嘲笑せざるを得なかったのです。しかしそれは単なる自虐ではなく、悟りの自覚という自尊を伴ったものでした。
悟りへの「認識の過程」は、「色→空→色即空」と進むことになります。「色」は「客観界」で、所謂この世・此岸・穢土です。「空」は「主観界」で「絶対無の世界」であり、既に「彼岸」「浄土」です。「色即空」は色と空が紙の表裏のように切り離すことの出来ない「主客未分の世界」で、先に述べたように、決して「色=空」という意味ではありません。色と空とは全く土俵が相違しているので相対関係にはありません。悟りへの認識過程は「客観→主観→主客未分」と進展します。このことは、次の道元禅師の主著『正法眼蔵』・現成公案の巻に見事に説かれています。
悟るということは、要するに、私たちは「客観界」「意識された世界」「意識の対象界」に住んでいるという生来(生まれた時から)の思い込みを反転させて、「主観界」「意識する世界」「意識の作用界」に住んでいるということに気づくだけのことです。私たちは実際にはリアルな世界に生きながら、それとは気がつかず、バーチャルな世界(倒錯した世界)に生きているのです。私たちは自らが描いた作品の中に生きているのです。
私がここで「ハタラキ」(作用・活動・力・エネルギー)と記述するとき、「ハタラキ」を対象化して述べているのではありません、主観的に述べているのです。しかし読者は読者の思惟作用(思惟のハタラキ)の対象として理解しているのです、つまり客観的に理解しているのです、「立場」が全く違うのです。ここに(私が)仏教(悟り)を伝えることの難しさと、(読者が)仏教を理解することの難しさがあります。この決定的断絶をいかに超克するか、それは読者の悟りという体験(実践)にかかっています。悟りは論理的思惟によっては決して得られるものではありませんが、(今の私たちにとって)論理的思惟をたよりに追求する以外にありません。論理的思惟の果てに、思惟を超越する以外にありません。「百尺竿頭更進一歩」なのです。従って私としては、徹底的に、読者を思惟の果てに誘い、読者の「更進一歩」を促すことが使命だと思っています。
「喫茶去」
これは中国唐代の禅僧・趙州従念の「真言(覚者・仏のことば)」です。「お茶でもどうぞ」という意味ですが、その真意・神意は「ハタラキを促す」所にあります。茶を喫するというハタラキ・行為を促しているのです、つまり主観の把握を促しているのです。私がハタラクのではなく、「ハタラクことが私である」という自覚を促しているのです。因に、この「喫茶去」は茶道の理念として、東山時代の珠光、能阿弥を経て、桃山時代の紹鴎、利休に至って大成されることになります。利休は「茶道の極意とは?」と問われて、「只喫茶」(ただ茶を飲むこと)と答えています。そしてさらに、この「ハタラクことが私である」という認識は、西田幾多郎の「事行」すなわち「行為即存在」として西田哲学の核心になっています。(つづく)
私がここで「ハタラキ」(作用・活動・力・エネルギー)と記述するとき、「ハタラキ」を対象化して述べているのではありません、主観的に述べているのです。しかし読者は読者の思惟作用(思惟のハタラキ)の対象として理解しているのです、つまり客観的に理解しているのです、「立場」が全く違うのです。ここに(私が)仏教(悟り)を伝えることの難しさと、(読者が)仏教を理解することの難しさがあります。この決定的断絶をいかに超克するか、それは読者の悟りという体験(実践)にかかっています。悟りは論理的思惟によっては決して得られるものではありませんが、(今の私たちにとって)論理的思惟をたよりに追求する以外にありません。論理的思惟の果てに、思惟を超越する以外にありません。「百尺竿頭更進一歩」なのです。従って私としては、徹底的に、読者を思惟の果てに誘い、読者の「更進一歩」を促すことが使命だと思っています。
「喫茶去」
これは中国唐代の禅僧・趙州従念の「真言(覚者・仏のことば)」です。「お茶でもどうぞ」という意味ですが、その真意・神意は「ハタラキを促す」所にあります。茶を喫するというハタラキ・行為を促しているのです、つまり主観の把握を促しているのです。私がハタラクのではなく、「ハタラクことが私である」という自覚を促しているのです。因に、この「喫茶去」は茶道の理念として、東山時代の珠光、能阿弥を経て、桃山時代の紹鴎、利休に至って大成されることになります。利休は「茶道の極意とは?」と問われて、「只喫茶」(ただ茶を飲むこと)と答えています。そしてさらに、この「ハタラクことが私である」という認識は、西田幾多郎の「事行」すなわち「行為即存在」として西田哲学の核心になっています。(つづく)
渓声便是広長舌 (けいせいすなわちこれこうちょうぜつ)
山色無非清浄身 (さんしきしょうじょうしんにあらざらんや)
夜来八万四千偈 (やらいはちまんしせんのげ)
他日如何挙以人 (たじついかんかひとにこじせん)
(意訳)
渓声(谷川の音)は饒舌である
山の景色は山の主観(山の働き・動き)そのものではないか
昨夜来、八万四千もの偈(仏の教え)を唱えている
後日、どのようにして(この私の感慨・主観を)他人に伝えることが出来るだろうか。
これは、北宋の覚者・詩人・政治家であった蘇東坡の韻文詩です。この詩は蘇東坡が渓声山色(深山)にあって、悟りを得た時の感慨を吐露したものです。一人で悟りを得たので「無師独悟」ということになります。
渓声山色の主観=渓声山色のハタラキ(動き)=「見なさい、聞きなさい、感じなさい」という働きかけに触発されて、蘇東坡の主観のハタラキ=「見る、聞く、感じる」が現成します。単に「見える、聞こえる、感じられる」ということでは受動的で、蘇東坡自身の能動的なハタラキとはいえません。ハタラキは能動的であって始めて真のハタラキです。蘇東坡は確かに「自らのハタラキ」を自覚したのです、主観を掴んだのです、「ハタラクことが自分である」と悟ったのです。蘇東坡からすれば蘇東坡自身は「自」で渓声山色は「他」ということになります。他は自を在らしめ・自は他を在らしめる、すなわち「他が自に転じ・自が他に転じる、つまり「回互」するところに真の「実在」が現成するということになります。仏教では、この「回互」のことを「即」とか「如」と表現します。「色即空」「一即他」「自他一如」といった使い方をします。先に述べたように、主観と客観はその置かれている土俵が違います、両者は同一の土俵(同一の空間)に置かれていないのです。従って場の移動が必要になってきます。裏に回り表に回るということが要求されます。従って、「即」とか「如」といった概念には時間・動きの次元が含まれている、4次元の用語なのです。即や如は「=」とか「VS」といった3次元の概念では把握できないのです。
禅者は「橋は流れて川は流れず」と主張します。これは客観の立場に立っている私たちすべてに対する挑戦であり、主観の立場もあるのだという示唆なのです。主観の立場に立たない以上、真の自己の把握は出来ないのです。私たちの「普通の知」は、対象なくしては成り立たない相対知・分別知です。しかし、私(自己)は相対化し、対象化し、客観として把握することは出来ないのです。
「裏を見せ表を見せて散る紅葉」 良寛
(つづく)
山色無非清浄身 (さんしきしょうじょうしんにあらざらんや)
夜来八万四千偈 (やらいはちまんしせんのげ)
他日如何挙以人 (たじついかんかひとにこじせん)
(意訳)
渓声(谷川の音)は饒舌である
山の景色は山の主観(山の働き・動き)そのものではないか
昨夜来、八万四千もの偈(仏の教え)を唱えている
後日、どのようにして(この私の感慨・主観を)他人に伝えることが出来るだろうか。
これは、北宋の覚者・詩人・政治家であった蘇東坡の韻文詩です。この詩は蘇東坡が渓声山色(深山)にあって、悟りを得た時の感慨を吐露したものです。一人で悟りを得たので「無師独悟」ということになります。
渓声山色の主観=渓声山色のハタラキ(動き)=「見なさい、聞きなさい、感じなさい」という働きかけに触発されて、蘇東坡の主観のハタラキ=「見る、聞く、感じる」が現成します。単に「見える、聞こえる、感じられる」ということでは受動的で、蘇東坡自身の能動的なハタラキとはいえません。ハタラキは能動的であって始めて真のハタラキです。蘇東坡は確かに「自らのハタラキ」を自覚したのです、主観を掴んだのです、「ハタラクことが自分である」と悟ったのです。蘇東坡からすれば蘇東坡自身は「自」で渓声山色は「他」ということになります。他は自を在らしめ・自は他を在らしめる、すなわち「他が自に転じ・自が他に転じる、つまり「回互」するところに真の「実在」が現成するということになります。仏教では、この「回互」のことを「即」とか「如」と表現します。「色即空」「一即他」「自他一如」といった使い方をします。先に述べたように、主観と客観はその置かれている土俵が違います、両者は同一の土俵(同一の空間)に置かれていないのです。従って場の移動が必要になってきます。裏に回り表に回るということが要求されます。従って、「即」とか「如」といった概念には時間・動きの次元が含まれている、4次元の用語なのです。即や如は「=」とか「VS」といった3次元の概念では把握できないのです。
禅者は「橋は流れて川は流れず」と主張します。これは客観の立場に立っている私たちすべてに対する挑戦であり、主観の立場もあるのだという示唆なのです。主観の立場に立たない以上、真の自己の把握は出来ないのです。私たちの「普通の知」は、対象なくしては成り立たない相対知・分別知です。しかし、私(自己)は相対化し、対象化し、客観として把握することは出来ないのです。
「裏を見せ表を見せて散る紅葉」 良寛
(つづく)
仏教の言説は、当然のことながら、「主観の立場」に立っています。しかし私たちのほとんどすべては、無自覚に、「客観の立場」に立っています。私たちは誰でも主観の対語は客観、精神の対語は自然(物質)、心の対語は物と思っています、つまり主観VS客観、精神VS自然、心VS物、という構図で考えています。この思い込みこそが一切の誤りの根源なのです。
このことは、あたかも、画家が絵を描いていて、何時しかキャンパスの中に自分自身を描き込み、キャンバスの中の住人になり切ってしまうという倒錯に陥るというようなものです。『般若心経』では「遠離一切顛倒夢想」すなわちキャンバスの世界は自らが描いた「作品」に過ぎないということを見抜き、顛倒した夢想の世界(キャンバス)からきっぱりと離脱しなさい、と説いています。
意識の作用(心の働き)すなわち主観は「こちらの土俵」にあり、意識の対象すなわち客観は「あちらの土俵」にあるものです。主観と客観は、その置かれている土俵が違うのです。土俵が違っているにもかかわらず、こちらの土俵にある主観をあちらの土俵にある客観の中に入れ、主観を客観にしてしまって、対立させているということに気がついていないのです。主観と客観は対立するものではなく、一枚の紙の表裏のように切り離すことの出来ないものです。実在としての私を主観側から見れば精神ということになり、客観側から見れば自然(身体)となるだけのことです。(つづく)
このことは、あたかも、画家が絵を描いていて、何時しかキャンパスの中に自分自身を描き込み、キャンバスの中の住人になり切ってしまうという倒錯に陥るというようなものです。『般若心経』では「遠離一切顛倒夢想」すなわちキャンバスの世界は自らが描いた「作品」に過ぎないということを見抜き、顛倒した夢想の世界(キャンバス)からきっぱりと離脱しなさい、と説いています。
意識の作用(心の働き)すなわち主観は「こちらの土俵」にあり、意識の対象すなわち客観は「あちらの土俵」にあるものです。主観と客観は、その置かれている土俵が違うのです。土俵が違っているにもかかわらず、こちらの土俵にある主観をあちらの土俵にある客観の中に入れ、主観を客観にしてしまって、対立させているということに気がついていないのです。主観と客観は対立するものではなく、一枚の紙の表裏のように切り離すことの出来ないものです。実在としての私を主観側から見れば精神ということになり、客観側から見れば自然(身体)となるだけのことです。(つづく)