そこで、仏教は主観を語る(説く)ことを使命としますが、しかし、主観は語るごとが出来ないというジレンマに陥ります。仏教(悟り)を伝え残すことの難しさはここにあります。
「釈尊四十九年一字不説」
釈迦は悟りを得て入滅するまでの49年間、一字(一度)も説くことはなかったということです。説かれたもの、知られたもの、感じられたもの、すなわち私たちによって知られたもの(知識)は、すべて、意識作用(意識の働き)すなわち主観の「対象」です、客観です。主観(意識作用)を説くべき仏教が客観を説くなどということはあり得ないのです。
「不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏」
これは聖道門系の「禅宗」というものが何たるかを端的に表している至言です。禅宗では仏教(悟り)を伝えるのに、「不立文字」すなわちコトバ(言語)を使用しないで、直接に、人心=人の心の働き=「主観」を指し示し、見性すなわち成仏に導く、と主張しているのです。私たちは物事を考える時、コトバ(言語)を使用します。流動する観念を概念(コトバ)に固定することで考えること(思惟作用)を可能にしているのです。しかし、禅宗では思惟することそのものを否定しているのです。思惟(知)を否定したのではどうしようもないと思われますが、私たちにはもう一つの知である直観=直覚=般若というものがあります。この般若を自覚することが悟ることなのです。
「教行信証」
これは浄土門系の「浄土真宗」の開祖である親鸞の主著のタイトルです。「教」をもって教え、「行(実践=体験)」をもって指導し、「信(信心)」をもって悟らしめる(自覚させる)という意がこめられています。(つづく)
神(宗教)は私たち人間の諸要請から生まれました。
1、 生活の要請 天変地異を司る支配者は神である
2、 秩序の要請 世界(自然、社会)の秩序の維持者は神である
3、 生命の要請 永遠の命としての神と同化したい
4、 論理の要請 因果律の要求から、世界(宇宙)の原因は神である
これらの神は何れも「外在の神」です。私たち人間によって考えられた神、感じられた神です。考え感じる私たちの外に立っている神、すなわち「意識の対象」としての「客観の神」です。これらの「客観の神」に対して、仏教の神、すなわち「仏」は考える神、感じる神です、すなわち「意識の作用」としての「主観の神」です。仏教の神すなわち「仏」は私たちに内在する「内在の神」なのです。
従って、仏教ではその原初において、意識の対象となる偶像、すなわち仏像は存在しませんでした、存在したのは、シンボルとしての仏足跡・菩提樹・法輪等でした。仏教は本来「偶像崇拝」ではなかたのです。仏教における「偶像崇拝」は、ある意味、仏教の堕落の始まりとも解されます。厳密な意味で、仏教においてはシンボルですらあってはならないのです、意識(認識・知識)の対象(意識された物事)すなわち客観を消し去った「絶対無」でなくてはならないのです。仏道とは知られた客観(界)を知るのではなく、知る主観(界)を知る(見る・体得する)ための修行(行=実践=体験)なのです。
普通、私たちの一生は実在の半面である客観界を知ることで終わりますが、仏教は主観界を明らかにし、さらに、主客の関係を明らかにしようとするものです。(つづく)
1、 生活の要請 天変地異を司る支配者は神である
2、 秩序の要請 世界(自然、社会)の秩序の維持者は神である
3、 生命の要請 永遠の命としての神と同化したい
4、 論理の要請 因果律の要求から、世界(宇宙)の原因は神である
これらの神は何れも「外在の神」です。私たち人間によって考えられた神、感じられた神です。考え感じる私たちの外に立っている神、すなわち「意識の対象」としての「客観の神」です。これらの「客観の神」に対して、仏教の神、すなわち「仏」は考える神、感じる神です、すなわち「意識の作用」としての「主観の神」です。仏教の神すなわち「仏」は私たちに内在する「内在の神」なのです。
従って、仏教ではその原初において、意識の対象となる偶像、すなわち仏像は存在しませんでした、存在したのは、シンボルとしての仏足跡・菩提樹・法輪等でした。仏教は本来「偶像崇拝」ではなかたのです。仏教における「偶像崇拝」は、ある意味、仏教の堕落の始まりとも解されます。厳密な意味で、仏教においてはシンボルですらあってはならないのです、意識(認識・知識)の対象(意識された物事)すなわち客観を消し去った「絶対無」でなくてはならないのです。仏道とは知られた客観(界)を知るのではなく、知る主観(界)を知る(見る・体得する)ための修行(行=実践=体験)なのです。
普通、私たちの一生は実在の半面である客観界を知ることで終わりますが、仏教は主観界を明らかにし、さらに、主客の関係を明らかにしようとするものです。(つづく)
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