悟りの証明 -14ページ目
私たちが、一般に、現実の世界と思い込んでいる世界は、既に知(思惟)によって構成された静的・抽象的・部分的世界、物の世界、「存在・ザイン」の世界です。私たちが現実と思い込んでいる世界は、主観の裏付けのない抽象的な客観が浮遊し充満した、「知のファシズム」すなわち「知が情意を支配する世界」ということが出来ます。真の現実は人格(知情意)の対象界として現成する世界です。

三島由紀夫は『文化防衛論』・「日本文化の三特質」に次のように述べています。
「丹羽文雄氏の『海戦』を批判して、海戦の最中にこれを記録するためにメモを取り続けるよりも、むしろ弾丸運びを手伝ったほうが真の文学者のとるべき態度だといった蓮田善明氏の一見矯激な考えには、深く再考すべきものがある。」

この一文は、真の現実・事実というものが如何なるものであるかということを明確に示唆しています。メモをとるという立場は「傍観」の立場であり、「弾丸運びを手伝う」という立場は「自観」すなわち「当事者」になって観る立場です。真の現実・事実は、当事者の三昧という体験において、はじめて把握される「動的・具体的・全体」であり、これこそが真の「実在」といえるものです。

先頃、IS(イスラミック・ステイト)によって殺害された後藤氏や湯川氏に対し、「日本人として自決すべきだった」という投稿がありましたが、これほど軽率で無慈悲なコメントはありません。両氏はインターネットで晒される前に自決していたかもしれません、自決をしようにも拘束されていて出来なかったかもしれません、薬物を投与されていて正常な意識がなかったのかもしれません。何れにしても、事実は「当事者」しか知り得ない事なのです、時には当事者ですら知らない事もあるのです(気が動転している場合等)。

また、刑事事件で、なぜ容疑者の自白が必要なのでしょうか。事実は本人しか知り得ない「当事者」の「出来事」だからです。真の実在の世界、現実の世界には「物」というものはなく、あるのは「出来事」だけなのです。

現実・事実とは一次的意識の三昧という体験に於いて、意識作用の内容として現れ来る主客未分の意識現象です。(つづく)



カントは、道徳とは「汝~すべし」という「定言命法」に従うことだといいましたが、一体、この「定言命法(絶対命令)」なるものが何処から出てくるのでしょうか、「彼方からの声」や「良心の声」といったところで、何の答えにもなっていません。

仏教における、善悪の倫理的判断の根拠は、「一次的意識」の知情意の総合的意識、つまり「一次的意識」に於ける「人格的意識」にあります。一次的意識に於いて、知(般若)は、「無分別の分別」をするだけで、倫理的判断は下しません。一次的意識に於ける意は、やりたいかやりたくないかという欲求を意識しますが、倫理的判断は下しません。一次意識に於ける情は、美か醜かを識別するだけで、善悪の判断を下すことはありません。従って、一次的意識に於いては、行いたいか否かの行為的意識と美か醜かの美的意識があるだけで、所謂善か悪かの倫理的判断はありません。つまり、所謂道徳的判断(二次的意識の判断)は、一次的意識の行為の意識と美の意識を根拠として成立するということになります。やりたいと欲し、美しいと感じるところに善の根拠があるということになります。このことは、とりもなおさず「ハタラキ」が「ハタラキ」をして「ハタラカ」しめるということを意味しています。

三島由紀夫は『文化防衛論』・「国民文化の三特質」において、次のように述べています。
「「菊と刀」のまるごとの容認、倫理的に美を判断するのではなく、倫理を美的に判断して、文化をまるごと容認することが、文化の全体性の認識にとって不可欠であって、これがあらゆる文化主義、あらゆる政体の文化政策的理念に抗するところのものである。」

「倫理的に美を判断するのではなく、倫理を美的に判断して、」とは作家らしい表現ですが、短い文の中に、見事に上記の意味が表現されています。

今日、フランスの「シャルリー・エブド」という雑誌が、溺死したシリア難民の幼児を風刺する画像を公開したというニュースがありました。その風刺画には幼児の遺体の近くに「ゴールはすぐそこ」「マクドナルドのハッピーセットもあるよ」と看板が立てられています。

一体、これが美しく、行いたい行為なのでしょうか。「言論の自由」の言論は二次的意識の知(思惟)によるもので、「知の自由」を意味していますが、知は善悪を判断する根拠を持ってはいません。このような深刻な倫理の喪失は、「知による情意に対する越権」に由来するものです。これが「ロゴス中心主義」の「主知主義者」が陥る不可避的な陥穽なのです。日本ではこの「主知主義者」のことを「リベラル」といいます。

「知のファシズム」に覆われた今の日本に必要なことは、大人も子供も、道徳教育ではなく「体験=三昧」を通した「情操教育」なのです。(つづく)

「この世」の一般的な道徳と仏教の倫理とは根本的に相違しています。

親鸞の「悪人正機説」によれば、「善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」ということになっています。「善人さえも往生出来るのだから、悪人が往生出来ない筈はない」とは逆説にも解されますが、これは逆説ではありません。

善人は善行を積んでいるという自負があり、そのことで自らを肯定し、かえって「我」に執着します。一方、悪人は自らが犯した罪に苛まれ、それでも生きる為には「我を否定」する以外に残された道はありません。従って、悪人の方が「無我」の浄土へ渡る(浄土往生の)契機が得られる、と親鸞は主張しているのです。

仏教の倫理は、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」ということに尽きています。「諸々の悪をなさず、諸々の善を行いなさい、自らその行いを浄めなさい、これが諸仏の教えです」とは、実に当たり前のことで、何ら「教え」にはなってないようですが、その実、これは仏教らしい意味深長な表現なのです。三昧に於いては、意識内容(≠意識対象)によって無我のハタラキ(作用)がハタラキたらしめられ、このハタラカしめられた無我のハタラキによって意識内容をあらしめるという回互が現成していますが、この回互活動の最中には、全く、ハタラキの恣意性などというものはありません(ハタラキは鏡のよう意識内容を映すだけです)。「諸悪莫作」とは「諸悪は<恣意的>に作ってはならない」という意味で、「無作」でなければならないといっているのです。「諸悪はなすなかれ」という理性的判断を述べているのではないのです(理論理性による命令は実践理性の定言的命令ではなく、仮言的命令に過ぎません)、つまり悪だからやってはいけないといっているのではなく、やってはいけないハタラキが悪であるといっているのです。「衆善奉行」とは諸善は無我の「無差の作」で実践しなさいといっているのです。

私たちが交通事故を起こした時(二次的意識が発生する以前の三昧の時)、私たちの意識にあるものは、我の恣意的な解釈を許さない、無我の認識としての厳然たる現実・事実です。私たちは、先ず、この現実をそのまま受け入れることを要求されます。次に、無我の「無作の作」によって被害者を救うという「衆善奉行」が要求されます。現実を現実として受け入れ、現実をあるべき現実たらしめることが要求されます。これらの要求に応える為には「我」があってはならないのです。三昧の世界(無我の世界)のこととして処理しなければならないのです。

道元禅師の「諸悪莫作」の巻によれば、
「正当恁麼時の正当恁麼人は、諸悪つくりぬべきところに住し、往来し、諸悪つくりぬべき縁に対し、諸悪つくる友にまじはるににたりといへども、諸悪さらにつくられざるなり。莫作の力量見成するゆえに、諸悪みづから諸悪と道著せず。諸悪にさだまれる調度なきなり。一拈一放の道理あり。正当恁麼時、すなはち悪の人をおかさざる道理しられ、人の悪をやぶらざる道理あきらめらる。」

(三昧時の当人は、諸悪をつくることが出来ないところに住し、行き来し、諸悪をつくれない条件の下にあり、諸悪をつくる友に交わるようなことがあっても、決して諸悪はつくられることはない。莫作の力が現れる故に、諸悪が諸悪にならないのである。諸悪に一定の道具立てというものはない。自由自在である。三昧の時、悪が人を犯すことのない道理が分かり、人が悪を破らない道理が明らかになる。)

「仏真法身、猶若虚空、応物現形、如水中月」なり。応物の莫作なるゆえに、現形の莫作あり。猶若虚空、左拍右拍なり。如水中月、被水月礙なり。これらの莫作、さらにうたがふべからざる現成なり。」

(仏のまことの法身(絶対的真理)は、なお虚空のごとく、物に応じて形を現じること、水中の月のごとし。物に応じての莫作であるから、形を現す莫作がある。虚空のように無礙自在である。水中の月のように、水と月とは互いに制約を受ける(回互する)。これらの莫作は全く疑うことが出来ない現実である。)

「莫作」とは「無我のハタラキ」ということです。私たちが三昧の状態にある時、例えば、サッカー観戦で無我夢中の時、音楽鑑賞で無我夢中の時、そこにあるものはサッカーのシーンだけであり、音楽だけです。「無我のハタラキ」は鏡のように意識の内容(サッカーのシーンや音楽)を、「そのまま忠実に」映すだけです、そこには何ら「作」はないのです、「莫作」です、「無作」です。

三昧の世界に於いて、現実を「無我」の「莫作」「無作」で受け入れ、現実を「無我」の「無作の作」「莫作の作」で現実たらしめる回互の世界が現成します。そこには私たちの普段の意識である「二次的意識」「相対的意識」「我と世界が対立する世界」を超越した無我の「一次的意識」の「ハタラキだけの世界」があります。私たちに二次的意識の「我」がある以上「保身」を完全に払拭することは出来ません。仏教に於ける倫理と、一般の道徳との相違はまさにここにあります。(つづく)
上述のように、仏教(悟り)を明らかにする為には、何よりも「三昧」を明確にしなければなりません。その為には、仏道修行の最終段階である「定」と「慧」を明らかにしなければなりません。

先にも述べたように、「定」とは心の最も安定した統一状態であり、思惟(判断の連続)、連想、想像、といった二次的判断作用(散乱心)を停止した状態です。二次的判断とは先にも述べたように、直覚という一次的判断が働いた後に、これを反省することによって継起する判断です。「定」の世界では、意識の内容がなく、従って意識の対象もない、「絶対無」の世界ですが、意識が全くない訳ではなく、(覚者の認識に於いては)「ハタラキ」すなわち「慧」はハタライています。定と慧の関係は「体用」の関係ということが出来ます。次の問答は体用の関係を具体的に示したものです。

師匠と弟子が茶摘みをしていました。
師匠「互いに茶摘みをしているが、私はお前の声は聞こえるが、姿は見えない」
(弟子はこれを聞いて、茶の枝を動かしました。)
師匠「お前はただその用を得ているが、その体を得ていない」
弟子「そういう師匠はどうなのですか」
(師匠は何も言わず、しばらくじっとしていました。)
弟子「師匠は体を得ていますが、その用を得ていません」
師匠「何だか分かったようなことを云うやつだ」
(師匠はこの会話に至極満足したということです。)

次の問答も体と用についての問答であり、「座禅の奥義」ともいえるものです。

(薬山大師が座禅していると)
弟子「兀兀地思量什麼」(座禅していて何を考えているのですか)
薬山「思量不思量底」(無分別の処を分別している)
弟子「不思量底如何思量」(無分別の処をいかに分別するのですか)
薬山「非思量」(無分別の分別)

弟子の問いは、その実、既に答えになっています、「答えは問いにあり」ということです。什麼とは「何」ということですが、「何」とは無分別の状態です。「何を考える」ということは「無分別を分別」するということです。薬山の「思量不思量底」は、「無分別を分別するのだ」とそのまま答えているのです。ここで問答は既にここで終わっているのですが、それでも分からない弟子に対して、繰り返し、「非思量」すなわち「無分別の分別」なのだと説いているのです。

この問答では、不思量=無分別が「体」であり、不思量の思量すなわち非思量が「用」と解釈することが出来ます。

私たち判断を下す時、必ず、二重の判断をしています。一次的判断として「無分別の分別」があり、二次的判断として「分別」があります。ここで非常に重要なことは、一次的判断は「動的・具体的・全体」の判断、すなわち「実在」そのものを判断しますが、二次的判断は実在を「静的・抽象的・部分」として判断するということです。

今、読者がこれを読んでいる最中、「ゴ~ン」という音を聞いたとします。読者はこの「ゴ~ン」を聞いて、「鐘の音だ」と判断したとします。この単純な事実でわかることは、「ゴ~ン」という音自体を判断(一次的判断)しているからこそ、「鐘の音だ」という二次的判断が成り立つということです。二次的判断とは私たちが生来構築してきた知識体系と照合して下す判断なのです。「鳴らぬ前の鐘の音を聞く時」「隻手の音声を聞く時」、そこに一次的判断が成立し、「ありのままの」真実在すなわち「動的・具体的・全体」が現成しているのです。

ちなみに、西田幾多郎は一次的判断のことを「反省的判断」といい、二次的判断のことを「限定的判断」といっています。限定的判断とは分別対象に対する分別作用(判断)ですが、反省的判断とは分別作用を対象とした分別作用(判断)ということで、これを西田は「作用の作用」の判断といっています。(つづく)
     覚者の立場
       ▼
梵・・・・・梵我一如・・・・・我
神・・・・・・仏・・・・・・・人

宇宙の原理である「ハタラキ」すなわち神が私たちの「ハタラキ」である「仏」と「神人同性」であるというのが「梵我一如」ということになります。この「ハタラキ」がどのような動きであるかということが問題になりますが、円周のない渦巻きのような動きである(鈴木大拙)というものや、統一と分化発展を繰り返す動きである(西田幾多郎)といったものがあります。

宇宙のハタラキは「神人同性」である私たち人間のハタラキとして「意識活動」ということになりますが、西田幾多郎の場合、直覚がハタラキの統一状態、意志や思惟がハタラキの分化発展の状態ということになり、統一は継起する分化発展となり、分化発展は継起する統一となり、ハタラキが継続発展して行くと考えられています。

例えば、思惟に於いては、私たちが文章を書く場合、先ず、最初に現れるものは統一された全体であり、これを直覚し、そして、その全体を主語として述語を分化発展させるということになります。そして述語が終わったところで再び統一された状態になります。

意志に於いては、欲求によって惹き起こされた意志は、統一された目的を設定し、その目的を達成すべく、選択肢の中から実現可能な手段を選び、決意し、実行します。統一された目的意識は決行から目的達成まで暗に働き続けて分化発展の過程となり、目的達成によって再び統一を得ることになります。

このようにして、大いなる宇宙のハタラキは私たち人間の意識の微細なハタラキと一本の線でつながっているというのが西田哲学の骨子となっています。「私たちの人生とは宇宙精神の実験である」という真意がここに窺うことが出来ます。(つづく)
仏教では、三昧のことを「定」あるいは「正定」ともいいます。仏道修行とは三学(戒・定・慧)、あるいは六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧=般若)を修することですが、修行の核心は定=正定=禅定と慧=智慧=般若にあり、定と慧は一等(定慧一等あるいは定慧不二)すなわち「定のところに慧(ハタラキ)がハタラク」「三昧のところに般若(直覚というハタラキがある」ということを体得することです。

親鸞上人の主著『教行信証』の『証巻』の冒頭において、次のように表現されています。

「謹んで真実の証を現せば、則ちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。即ちこれ必至滅度の願より出たり、また証大涅槃の願と名づけるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の郡萠、往相回向の心行を獲れば、即時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するが故に、必ず滅度に至る。」(原文省略筆者訳) 正定聚:正定の衆、正定のともがら、滅度:涅槃、浄土往生

親鸞上人は、上の後半部分において「凡夫が往相回向の信行(信じて念仏を称える)を行えば、即時に大乗仏教の「正定」聚(必ず往生することが決まっている状態)に入る。」と主張しているのです。

全く同様のことを道元禅師は次のように述べています。

『正定是法明門得無散乱三昧故』(正定は是れ法明門なり,無散乱の「三昧」を得るが故に) 法明門:真理の門 無散乱:無散乱心、意識統一

ということで、要は、正定=三昧=浄土=彼岸ということになり、私たちが三昧に入っている状態が正定であり、その正定という場が浄土・彼岸ということになります。そして、正定という場に於いてハタライている知が般若という直覚・自己同一知ということになります。三昧に入っている状態はハタラキのみであり、そのハタラキをハタラキ自身が自知することが般若という自己同一知ということになります。

あの世(死後の世界)と浄土=彼岸とは峻別すべきです。しかし重要な点は、両者は地続きになっているということです。私たちは生きて悟って浄土に入るのです。そしてその浄土は死後の世界と繋がっているのです。

以上が仏教(悟り)を理解する上で最も重要な要諦中の要諦です。(つづく)
      覚者の立場
        ▼
無我・・・・・ハタラキ
無我・・・・・無我即我・・・・・我
一・・・・・・一即多・・・・・・多
梵・・・・・・梵我一如・・・・・我

仏教を理解するためのポイント、悟りを得るための要諦は「意識の現場」「純粋経験」「現在意識」「純粋意識現象」すなわち「三昧」という私たちの意識の状態を冷徹に観察し、分析することにあります。

私たちが何かに夢中になっている時、例えば、サッカーを観戦している時、あるいはコンサートで音楽を聴いている時、所謂「無我夢中」です。私たちが「無我夢中」の時は文字通り「無我」です、無我でありながらサッカーのプレイや音楽が「意識の内容」として現前している状態です、この状態が「主客未分」です、この状態が所謂「三昧」です。この「三昧」が破れた時、「我に戻る」ということになり、この戻った我(普段の我)が今まで見ていたサッカーのプレイや今まで聞いていた音楽を「反省」(一瞬の無意識)する時、「意識の内容」が「意識の対象」となり、主客が分離します。

「三昧」において、我を客観的に見れば、我は確かに存在していますが、我を主観的に見れば(当事者になって見れば)、「無我夢中」で無我ということになります、我は存在していないことになります。つまり三昧という意識の状態に於いては「無我即我・我即無我」ということになります。さらに、この「三昧」の状態をもう一歩踏み込んで考えてみると、無我なので、我はないことになり、我がないにもかかわらず、スポーツ・シーンをあらしめたり音楽をあらしめている「ハタラキ」はあるということになります。要するに、三昧に於いてあるものは「ハタラキ」だけということになります。私たちは「三昧」に於いて一切を無に帰し、「ハタラキに還元」するということになります。この実感すなわち体験を仏教では「解脱」「脱落」「透脱」といいます。

さらに、この「無我」すなわち「ハタラキ」は誰にとっても等しくハタラキなので、人類の「普遍的なハタラキ」「一般的なハタラキ」「一なるハタラキ」ということになります。無我=ハタラキは私たち個人の無我でありながら、個人を超越して人類に遍在する無我ということになります。そこで、無我即我とは「一即多・多即一」ということになります。「一」とは普遍的な我であり、「多」とは個多すなわち私たち個々人の我です。

仏教では、この「人類普遍のハタラキ」が更に拡大されて、「宇宙のハタラキ」ということになり、宇宙の原理は「ハタラキ」ということになります。ここに来て、宇宙と私たち人間は「ハタラキを共有する存在」となり、所謂「梵我一如」ということになります。

この「ハタラキ」は、流動・動き・力・活力・活動・生命力・精神力・エネルギー等々、様々な概念で展開されることになります。ちなみに、西田幾多郎は「私たちの人生とは宇宙精神の実験である」といっています。「諸行無常」とはこのような流動の世界を意味しています。しかし、気を付けなければならないことは、これらの概念は知識の対象であって、ハタラキの符丁でしかないということです。従って、「ハタラキはハタラキではない、それが真のハタラキである」ということになります。(つづく)
以下、悟りの証明(14)のチャートの各項目について詳述します。

       覚者の立場
         ▼
無我・・・・・・無我即我・・・・・・我
         即非
      絶対矛盾的自己同一

「無我」と「我」との関係は「無我即我」すなわち「無我にして我」ということになり、「即非の論理」(鈴木大拙)が成立します。無我と我との関係は「矛盾」すなわち「非」でありながら同一すなわち「即」ということになります。また、無我と我は絶対に矛盾しながら自己同一ということで「絶対矛盾的自己同一」(西田幾多郎)ということになります。次の問答は「無我」と「我」との関係をいい得て妙です。

師匠「汝諸人尽承吾力」(お前たちは皆、私の力で働いているのだ)
弟子「既承師力、何用普請」(師匠の力ならば、どうして私たちが働くのか)
師匠「不普請争得柴帰」(お前たちが働かなかったら、誰が柴を運ぶのだ)

師匠が無我で弟子たちが我ということで、無我と我との関係が如実に表現されています。もう一つ例を挙げます。

雲厳曇晟と道吾の会話
道吾「煎与阿誰」(誰に茶を煎れるのかい)
雲厳「有一人要」(一人欲しがっている者がいる)
道吾「何不教伊自煎」(自分で煎れさせたらいいのに)
雲厳「幸有某甲在」(幸いに私がここにいる)

「一人」が無我で「私」が我ということになります。

無我と我とは互いに互いをあらしめ、あらしめられるという関係、すなわち「相互依存」の関係にあります。私たちは、生まれたいと意志をもって生まれてきたのではありません、生まれさせられたのです、無我を認めざるを得ません。しかし一方、我が存在し、我が生きている事実は疑いようのないことです。私たちが生きるということは無我の証明であり、かつ、我の証明なのです。覚者は「無我でありながら我」・「我でありながら無我」すなわち「無我即我・我即無我」、略して「無我即我」の立場に立っています。

ちなみに、現在の日本、「この世」「此岸」「穢土」には、安保法制議論や沖縄基地問題があります。これらの問題の底流にあるものは「国民国家主義VS市民社会主義」という構図です。安倍政権(自民)は国民国家主義、共産・社民・民主および殆どのメディアや知識人・言論人は市民社会主義の立場に立っています(本人たちにそのような認識があるかどうかはともかくとして)。国民国家主義は民族主義や全体主義に陥る危険性があり、市民社会主義は「脱国家」という「非現実の愚」に陥る傾向があります。市民社会を支えるものは「人権(自然権)」と「表現の自由(言論の自由を含む)」と「平等」といった輸入思想です。これらの輸入思想を支えるものは「我」であり、「無我」というものは全くありません。欧米の歴史は神を殺すことによって人間の自由を得てきたのです。宗教がないところには「無我」はあり得ないのです。日本においても「無我」は風前の灯火です。個人の我や地域の我が相殺する社会は決して住み良い社会とはいえません。相生の鍵は「無我」にあります。(つづく)
上来をまとめてみると、次のようになります。

      (覚者の立場)
         ▼
無我・・・・・・ハタラキ
主観・・・・・・主客未分・・・・・・客観
作用・・・・・・無作の作・・・・・・対象
無我・・・・・・無我の我・・・・・・我
一・・・・・・・一即多・・・・・・・多
無分別・・・・無分別の分別・・・・・分別
無意識・・・・無意識の意識・・・・・意識
無知・・・・・・絶対知・・・・・・・相対知
無知・・・・・・・般若・・・・・・・分別知
無知・・・・・・無知の知・・・・・・知
知るもの・・・・自己同一知・・・・・知られるもの
空・・・・・・・空即色・・・・・・・色
無・・・・・・・無即有・・・・・・・有
精神・・・・・精神即自然・・・・・・自然
心・・・・・・・心即身・・・・・・・身
神・・・・・・神人同性・仏・・・・・人
神性・・・・・・・仏性・・・・・・・人性
聖・・・・・・・非聖非俗・・・・・・俗
彼岸・・・・・・無所住・・・・・・・此岸
浄土・・・・・・無所住・・・・・・・穢土
他・・・・・・・自他一如・・・・・・自
時間・・・・・・いま・ここ・・・・・空間
連続・・・・・非連続の連続・・・・・非連続
連続・・・・・・前後際断・・・・・・非連続
        純粋経験・・・・・・経験
         創造・・・・・・・作品
         現実・・・・・・・幻夢
         実在・・・・・・・存在
真理・・・・・・・真実
理・・・・・・・・・事          
         即非
      絶対矛盾的自己同一



(つづく)
私たちの知には、「相対知=分別知」と「絶対知=無分別知=直覚=自知=自己同一知=般若」との二種があります、そして後者が前者に先立って働くという特徴があります。

「父母未生已前のお前の面目は」
「隻手の声を聞け」
「聞かぬ前の鐘の音を聞け」

これらは何れも「相対知」以前に、先行して働く「絶対知」を把握することを促しています。私たちの日常生活を子細に分析してみると次のようなことがわかります。

いつものように朝起きて、歯を磨き、朝食のテーブルにつきます、すると目前に何時もと違うものを発見します、テーブルの上に何やらうごめくものを発見します、そこで「これは何」と自問します。今まで見たこともない物で気になりましたが、いつものように出社しました。

この行動を分析してみると、何やらうごめく物を発見する前後の行動は習慣化しているために、ほとんど「無意識」の行動になっている筈です。この無意識の行動は「主客未分の意識」の行動として、意識作用が意識内容を保持している状態です。意識はしていても、意識内容を外化し、対象化し、明確な対象を得ていない意識の状態です、「無意識の意識」なのです。一方、何やらうごめく物を発見し、「これは何だ」と意識する時、意識の流れは一瞬停滞し、意識内容を外化し、対象化して、対象を得ようと努めているのです。この一瞬の意識のプロセスは「無意識の意識」から「普段の意識」への移行を意味しています。この「いま・ここ」という「意識の現場」においてハタライテイル「現在意識」を仏教は冷徹に観察します。仏教の原点は、まさに、ここにあります。西田幾多郎の「現在意識」あるいは「純粋経験」はここを意味しています。私はこれを、より具体的に「純粋意識現象」と言っています。

私たちは、今、テーブルの上で何やらうごめくものを見ています、「これ何?」の意識の状態です。ここで私たちは判断を下そうとします。しかし、「これ」は今まで見たこともないものなので、判断できません。「昆虫か」「しかし足は二本だ」「色は青い」「頭がない」・・・。いろいろとその性質を分析し、記憶(知識の体系)と照合して、このものを限定しようとします。しかし、結局、限定することができず、限定できないまま、やむなく新種の昆虫ということで落ち着くことになります。

アリストテレスは、「このもの」すなわち「個物」とは「主語となって述語とならないもの」と定義しました。上の例では、「このもの(主語)」は「昆虫、足が二本、色は青い、頭がない、・・・」といった述語で限定しようとしても、結局、何処まで行っても限定できません。主語である「このもの」は限りない述語をもって限定しようとしても不可能なのです。しかし、ここで重要なことは、私たちはこの物をこの物自体として確かに認識しているという「事実」です。認識しているからこそ分析して述語を並べることが出来るのです。この時、私たちはこの物をこの物として、「動的・具体的・全体」として、「真の実在」として確かに認識しているのです。ものごとが「これは何」として把握されている時、そこには「真の現実」「真の事実」「真の実在」があるのです。私たちは「これ」を「何」として認識するところに「絶対知」がハタライているのです(仏性現前)。そして、「その後」これを述語として限定しようとするとき「相対知」が働くのです。「答えは問いにあり」という仏教の至言はまさにこのことを意味しているのです。

道元禅師は主著『正法眼蔵』仏性の巻に於いて、
「四祖いはく、是何姓は、何は是なり、是を何しきたれり、これ姓なり。何ならしむるは是のゆえなり、是ならしむるは何の能なり。」
(四祖いわく、これ何と認識するハタラキ=私たちの本性=私たちの仏性というのは、何を是として認識することである、是を何として認識すること、それが仏性である。何を何たらしめるものは是という認識があるからであり、是を是として認識できるのは何と認識する能力=仏性があるからである。)

要するに、私たちが「これ何」と認識するところに、無限定(何)の限定(これ)としての認識(絶対知=般若)が現成するということになります。この無限定の限定として把握されるものが、認識作用の内容としての「動的・具体的・全体」である「真の実在」ということになります。そして、この主語としての「何これ」が反省されて、継起する新たな認識作用によって対象化されるとき(認識内容が認識対象となるとき)、「動的具体的全体」である「これ何」が「静的抽象的部分」として述語となる時、相対知(分別知)が現成するということになります。

「言い得るも三十棒、言い得ざるも三十棒」
(言ったら三十回棒で叩く、言わなくても三十回棒で叩く)

「言い得る」ということは知(相対知)です、「言い得ざる」ということは全くの無知ということです。知と無知との狭間にあるもの、それは「無知の知」「無分別の分別」すなわち「無分別にして分別」「無分別即分別」という絶対知=無分別知=自知=自覚=自己同一知なのです。(つづく)