悟りの証明 -13ページ目
仏教の教説は悟りを得ずして理解することは出来ません。悟りは三昧・一次的意識において般若・直覚・直観によって自覚されるハタラキです。三昧は主客未分の意識状態で、意識の内容(未だ意識対象にはなっていない)のみが現前している状態で、意識作用が意識内容を保持している状態です。無我夢中の状態が三昧ですが無我は決して夢の中にあるのではありません、それとは全く逆に「現実」の中にあります。三昧における意識内容は「動的・具体的・全体」としての「現実そのもの」です。無我とは我がないということではありません。無我とは「ハタラキとしての我」「主観としての我」「意識作用としての我」であり、対する、我とは「客観としての我」「意識対象としての我」です。眼は一切を見ますが、眼自身を見ることは出来ません。見るという作用は一切の物事を対象として見ることが出来ますが、作用自身を対象として見ることは出来ません。しかし、三昧において自ずと(自然に)ハタラク・般若・直覚・直観は作用を対象とする作用で、作用自体を見ることが出来ます。西田幾多郎はこのハタラキ・般若のことを『作用の作用』という表現をしています。平たくいえば、ハタラキ・般若とは意識するものが意識されるものという自己同一知で、この自己同一知を体験的に知ることが悟りということになります。私たちの普段の意識である二次的意識は三昧(一次的意識)における意識作用の内容を、継起する新たな意識作用によって対象化して意識対象界を構成しているのです。つまり、一次的意識の世界は「意識の作用界」「主観界」「空の世界」であり、二次的意識の世界は「意識の対象界」「客観界」「色の世界」ということになります。

私たちの意識の動きは、~一次的意識(三昧)ー二次的意識ー一次的意識ー二次的意識~というように交互に時間に沿って動いていきますが、一次的意識(三昧)は「時空の意識」として個立(特立)しているので、継起する「空間の意識」である二次的意識とは直接つながることなく断絶(際断)しています。これを道元禅師は『前後際断』といい、西田幾多郎は『不連続の連続』といっています。浄土宗の『横超』は時間を止めて空間的に一次的意識と二次的意識を行き交うものとしてのハタラキを意味していますが、禅宗の『堅超』は時間的に一次的意識と二次的意識とを行き交うハタラキを意味しています。

実在としての時は『前後際断』であり『連続の不連続』ということであり、連続する時と不連続の時、すなわちアナログの時とデジタルの時との両立と連結・統一によって成り立っているということになります。そして、この連結・統一担うものこそ「ハタラキ」「仏性」という唯一実在ということになります。

私たちが普段に意識している世界は意識の対象界であり、客観界であり、空間化された死の世界です。私たちの普段の意識はすべてを『物象化』してしまうのです。対する三昧の世界は意識の作用界であり、主観界であり、時間化された生の世界です。そしてこれら両界を統一して真の実在界を形成するのが「ハタラキ」の働きなのです。(つづく)
我と無我、いずれが「本当の我」・「真我」でしょうか? 答えはいずれでもありません。上来述べてきたように、我とは「ハタラキ」のことです。誤解してはいけないのは、我がハタラキを持っていて、我がそのハタラキを使うのではありません、「ハタラキが我」なのです。従って、真我は我と無我を超越して我と無我とを自由に動き回るハタラキなのです、我や無我に止まっていては「ハタラキ」は失せてしまいます。浄土宗の真我を「横超の我」といい、禅宗の真我を「堅超の我」といいます、これら両者は全く同義です。

親鸞は「横超の我」のことを平たく「非僧非俗」といい、禅宗は「二由一有 一亦莫守 」(一は二によってあり、二もまた守ることなかれ)と表現しています。いずれも「真我」とは一次的意識の我でもなく二次的意識の我でもない、これら両者を超越して、両者を行き来するハタラキこそが真我であると説いています。

「我とは何か?」、これこそ人間の根源的な問いです。自由、平等、人権、民主主義、政治制度等々、いかなるイシューも詰めていけば窮極的にこの問いに答えを出さなければなりません。

因みに、マルクスの社会主義思想について考えてみると、その思想のスタートもゴールも間違っています。先ず、そのスタートにおいて、マルクスは「精神と自然・精神と物質・精神と身体」という二元論を是認し、自然・物質・物の方面に一元化すると言う、所謂「唯物論」を展開しましたが、仏教ではこの二元論一元化そのものが成り立ちません。仏教では、精神とは実在を主観的(一次的意識)に見たものであり、物質とは実在を客観的(二次的意識)に見たものであり、両者は見方の相違に過ぎず、元来自己同一であると考えます。物理学の原子世界でも、質量(物質)がエネルギー(ハタラキ)に転換したりエネルギー(ハタラキ)が質量(物質)に転換します。アインシュタインは特殊相対性理論のなかでエネルギー(ハタラキ)E と質量(物質)mが等価であるとする関係式(E=mC²)を示しています。また、マルクスはゴールも間違っていました。マルクスのゴールは、ベンサムの「最大多数の最大幸福」を可能にする社会ですが、そもそも人間の幸不幸は主観的且つ客観的なもので、客観的にのみ論じることが出来ないものです。仏教では「自己実現」こそが人間の幸福であり、自己実現を可能にする社会こそがあるべき社会なのです。私たちの「真我」は精神でもなく身体でもない両者を超越して、自己実現を生き、「当為」を生きる、動いて止まない「ハタラキ」なのです。(つづく)
「悟る」ことを「見性」と言いますが、「見性」の「見」は、広義では「知る」ということですが、ここでは「直覚・直観・般若によって知る」という意味です。「性」は私たち人間の「本性」すなわち「仏性」を意味しています。従って、「見性」とは「私たち人間の本性である仏性を直覚・直観・般若によって知る」ということになります。「仏性」とは上来述べてきたように「宇宙に遍くハタラキ」=「ブラフマン」であり、このブラフマンを分有する私たち人間のハタラキ=「アートマン」は「意識のハタラキ」すなわち「意識作用」=「主観の作用」ということになります。そこで、悟るということは仏性である意識作用そのものを把捉するということになりますが、ここで私たちはアポリアに直面します。なぜなら、「意識作用」あるいは「主観の作用」は私たちの「意識の対象」にはなりえないからです。私たちの普段の知は「相対知」・「分別知」であり、「対象」を必要とする知です。物事を知るためには、当該の物事を相対化し対象化して対象を据える必要があります。私たちが「意識作用」を知ろうとするとき、「意識作用」を「意識対象」にしなければなりませんが、これは不可能なことです。そこで、悟るために要求されるのが「相対知」とは全く別種の知である「直覚」・「直観」・「般若」です。「知るものが知られるものであり、知られるものが知るものである」という「自己同一知」・「自知」です。仏教は「定慧の宗教」です。「定」とは上来述べてきたように「三昧」を意味しています。「慧」とは三昧において「自ずとハタラいている知」で、これこそが「般若」といわれる自己同一知です。悟るということはこの「般若」のハタラキに「ハッと気付く」ことです。般若は計らいのない自然(じねん)の「無我の知」であり「無意識の意識」・「無知の知」です。

私たちの意識がハタラク時、必ず、先ず、「一次的意識」としての「三昧」がハタラキ、次いで普段の意識である「二次的意識」(相対意識)が継起します。私たちは生来「知識の体系」と「価値の体系」を構築していて、この両体系を「鋳型」として、一次的意識で把捉された「動的・具体的・全体」である事実・現実を「静的・抽象的・部分」に変換しているのです。「答えは問いにあり」と言いますが、「問い」すなわち「何」というとき、正にそのとき、未だ二次的意識が働かない時、私たちは一次的意識によって確かに「動的・具体的・全体」を把捉しているのです。

仏教は面白い宗教です。所謂一神教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)とは全く異なり、徹底的に知的で、「悟り」という「ご褒美」があります。(つづく)
仏教ではこの宇宙の原理をハタラキ(動き、活動、力、エネルギー等)と見なし(「諸行無常」)、このハタラキはあらゆるものに遍在し、私たち人間においては意識のハタラキすなわち意識作用として顕現します。この事実は、私たちの普段の意識(二次的意識)以前の意識(一次的意識)である三昧・定における直覚・慧・般若というハタラキそのものによって、ハタラキがハタラキ自身を自覚することによって実証(体験)されます、これが所謂「悟り」です。

意識を分析するには、意識作用、意識内容、意識対象等を峻別することが必要です。意識作用は意識内容もしくは意識対象なくして働くことはありません。禅宗における「座禅」は意識作用から意識内容と意識対象の双方を除去する行法で、意識作用の休止を目的にしています。道元禅師は『正法眼蔵』・「三昧王三昧の巻」において、結跏趺坐の所謂「座禅」を三昧の中の最高・最上の三昧、すなわち「王三昧」といっています。座禅は「定の体験」「絶対無の体験」ということになります。

意識作用に意識内容も意識対象も与えない体験が「座禅」であり「王三昧」ですが、意識作用が意識内容を保持している意識の状態が所謂「三昧」です。無我夢中でラグビーを観戦していたり、コンサートで音楽に聞き惚れている状態に於いては、ラグビーのシーンや音楽そのものだけが現前していて(自が他に転じていて)、「動的具体的全体」である「現実」が「無意識に意識」されています。この意識が「慧」「般若」なのです。この三昧の状態が破れて、我に帰った時、この意識内容は新たに継起した意識作用によって反省されて「意識対象」となり、静的抽象的部分として二次的に意識され、普段の意識(二次的意識)となります。(つづく)
仏教ではこの宇宙の原理をハタラキ(動き、活動、力、エネルギー等)と見なし(「諸行無常」)、このハタラキはあらゆるものに遍在し、私たち人間においては意識のハタラキすなわち意識作用として顕現します。この事実は、私たちの普段の意識(二次的意識)以前の意識(一次的意識)である三昧・定における直覚・慧・般若というハタラキそのものによって、ハタラキがハタラキ自身を自覚することによって実証(体験)されます、これが所謂「悟り」です。

意識を分析するには、意識作用、意識内容、意識対象等を峻別することが必要です。意識作用は意識内容もしくは意識対象なくして働くことはありません。禅宗における「座禅」は意識作用から意識内容と意識対象の双方を除去する行法で、意識作用の休止を目的にしています。道元禅師は『正法眼蔵』・「三昧王三昧の巻」において、結跏趺坐の所謂「座禅」を三昧の中の最高・最上の三昧、すなわち「王三昧」といっています。座禅は「定の体験」「絶対無の体験」ということになります。

意識作用に意識内容も意識対象も与えない体験が「座禅」であり「王三昧」ですが、意識作用が意識内容を保持している意識の状態が所謂「三昧」です。無我夢中でラグビーを観戦していたり、コンサートで音楽に聞き惚れている状態に於いては、ラグビーのシーンや音楽そのものだけが現前していて(自が他に転じていて)、「動的具体的全体」である「現実」が「無意識に意識」されています。この意識が「慧」「般若」なのです。この三昧の状態が破れて、我に帰った時、この意識内容は新たに継起した意識作用によって反省されて「意識対象」となり、静的抽象的部分として二次的に意識され、普段の意識(二次的意識)となります。(つづく)
「仏教」は窮極の自己実現である「悟り」を目的とする宗教哲学です。悟りは「経験を超えた特殊な体験」です。悟りは、理論理性の追求の果に、突破できないアポリアの状態に彷徨していて、「何ものか」を契機に「ふと」アポリアを突破する体験です。悟りは、所謂「百尺竿頭更進一歩」のところに開ける「別天地」です、棚からぼた餅は決してありません。そして「仏道」は悟りから始まり、仏教は仏道となって、教から行すなわち実践へと移っていきます。これは、天の理としての「ハタラキ」が人の道としての「ハタラキ(本性=仏性)」となることを意味しています。西田幾多郎が「私たちの人生とは宇宙精神(宇宙のハタラキ)の実験である」といった真意はここにあります。

悟りという体験は「何ものか」を契機として得られるものですが、この「何ものか」は、どのような些細な体験でもあり得るものです。例えば、転んだ拍子に、音を聞いた刹那に、怒鳴られた瞬間に等々、日常の些細な出来事が悟りの契機となります。
因に、観音菩薩とは音によって私たちを悟りに導く使者ということになっています。

カントによれば、私たちは時間・空間・因果律によって制限された所謂経験的存在であり、自然必然の埒外に出ることは出来ない存在であるが、自由や神や霊魂は人間にとって不可欠であり、「要請されるべきもの」となっています。しかし、もしもカントが「物自体」を仮定せずに、「物自体を三昧におけるハタラキ(意識作用)の内容(≠対象)・主客未分である」と考えることが出来たならば、自由や神や霊魂を体験できるものとして「実証」できた筈です。

仏教の慧眼は、まさに、意識以前の意識、二次的意識以前の一次的意識、二次的意識を根拠づけている一次的意識つまり「三昧」を発見したことにあります。(つづく)
我と非我は対立するものではありません。我は我、非我は非我でありながら、そこには対立はないのです。我と非我の関係は、我=自と置き換え、非我=他と置き換えてみると、「自即他・他即自」ということになります。「即」には「転じる」「回互する」という意味があります。つまり、「自即他・他即自」=「自が他に転じ・他が自に転じる」ということになります。ここで重要なことは、自と他は「同時存在」ではないということです。自が他に転じたときには他のみがあり、他が自に転じたときには自のみがあるということになります。自は自、他は他でありながら、自他は互いに転じるのです、つまり回互という関係が現成するのです。

上記を理解する為には、どうしても「自」とは何か、「我」とは何か、「私」とは何か、ということを明確に理解していなければなりません。つまり、どうしても「悟り」が必要になります。次は、明治時代の落語家・三遊亭円朝が悟りを得た時の様子を如実に物語るものです。

「ある日、大和尚(西山禾山)が急に禅室に召されますので、とりあえず参りますと、大和尚が威たけだけしく『円朝』と呼ばれますので、『ハイ』と答えますと、『わかったか』とおおせられますゆえ、『わかりませぬ』と申し上げますと、大和尚は例の目をむき出しにして『汝、返事をしながら、わからぬか』と一喝され、また『円朝』と呼ばれるので、『ハイ』と答えますままに、豁然、省悟致しました。そこで私は始めて円朝が『ハイハイ』ではなく、『ハイハイ』が円朝である、と合点しました。」

釈尊が悟りを得る為に要した歳月は6年、道元禅師は10年、親鸞上人は19年ですが、その悟りは、まさに、この円朝の省悟(悟り)と同一なのです。

上来、言及してきたように、『ハイハイ』という「ハタラキ」が私であり、私が意識して『ハイハイ』といっているのではないのです。私というものがあって、その私が『ハイハイ』と言っているのではないのです。この『ハイハイ』は三昧において、一次的意識において、「直覚」で、「直接」に、「直に」応えているもので、二次的意識の関与はないのです。私たちはこの『ハイハイ』の後、これを反省して、「私が『ハイハイ』と答えた」と認識を構成をしているのです。私たちが一次的意識から二次的意識に移行する時、私と世界という相対的世界が現れるのです。

更に、単純な例を挙げれば、道を歩いていて、知人と出会って、互いに「こんにちは」と挨拶を交わす時、そこには殆ど二次的意識の働きはありません、無意識の意識で応えている筈です。このような状態のことを「回互」といい、「相即相入」といいます。自と他は厳然と存在していますが、自は自、他は他で存在していますが、自と他は互いに転じ合い、回互するのです。自と他は決して対立するものではないのです。「無対立の対立」なのです。(つづく)
所謂リベラルという人種は、欧米に対する劣等感と憧憬を持ち、日本を学ぶことなく、欧米思想を未消化のまま輸入し、「コピペ思想」を吹聴する特殊な「主知主義者」です。朝日新聞は「日本を相対化する」等と傲慢な主張をしていますが、日本(江戸時代以前)を知らずして日本を相対化することは出来ません。リベラルの特徴を一言でいえば「主体なき理性」(三島由紀夫の表現)ということになります。

「政治」があるところには必ず、「自由」「平等」「人権」という概念がつきまといますが、これらの概念は日本と欧米とでは抜本的に相違しており、その相違の由来は「自我」にあります。日本人の自我は自と他を統一した高次の処にありますが、欧米のそれはあくまで自と他が対立した処にあります。

日本人の自我には「私は私ではない、だから私だ」「我即非我」(即非の論理)という無意識の意識としての自我意識があります。私たちが我という時、既に、非我が「暗に意識されている」のです。我と非我とを統一した「一層高次の我」を無意識に意識しているのです。私たち日本人は「我」というものを「我即非我」と認識する立場に立つ「実在」であると、「慣習法」に於いて認識しているのです。日本人の我は非我を包容した高次の我ということが出来ます。

対して、欧米の我はあくまで「我VS非我」で、我は非我に対立する処にあります。

以上のような日本と欧米との「我のあり方」の相違は、「自由」「平等」「人権」といった概念の相違となって現れます。

先ず、日本の「自由」という概念の意義は、日本人の我が「高次の我」であるところから非我との対立はなく((25)にて詳述)、「自主・独立」ということになります。松は松、竹は竹、梅は梅で、周りをキョロキョロすることなく、「自己実現」していくことが自由ということになります。一方、欧米の自由は「非我からの自由」(free from ~)ということで、奴隷からの自由、宗教(キリスト教)からの自由、国家からの自由、国王・領主からの自由等、何らかの「権力からの自由」を意味しています。欧米の言論の自由(表現の自由)とは神を殺すことによって得た「神からの自由」なので、シャーリー・エブドのようにイスラム教の神を冒涜しても一向にかまわないということになります。

次に、日本の「平等」とは、「平等即差別・差別即平等」ということで、松は松、竹は竹、梅は梅で、それぞれが個性を生きて「自己実現」していく、差別ある松と竹と梅とが、「それぞれの個性を生きることが自己実現という平等」「それぞれの差別を生きることが自己実現という平等」ということになります。一方、欧米の平等は単なる「悪平等」ということになります。例えば、マルクスが理想とした平等は、窮極的には共同体に於ける個人の消滅を意味しています。社会的・経済的不平等が所有物の不平等に由来するために、私有財産があってはならないとしたのです。しかし、私有財産という「物」は自己実現の手段であって目的ではない筈です。私たちは本来、十分に個性的な存在です。最近のDNA研究によれば、同じDNA型の別人が現れる確率は4兆7000億人に1人ということになっています。下記は釈尊が直弟子・阿難(アーナンダ)に残した遺言ですが、仏教がいかに「自己実現」の宗教であったかを如実に物語っています。

「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし法を拠り所として、他を拠り所とせずにあれ、斯くして、私は自己に帰依することをなしとげた。」 『大パリニッパーナ教』


アメリカの心理学者・アブラハム・マズローの『欲求段階説』によれば、私たちの欲求には、生理的欲求、安全の欲求 、社会的欲求、承認の欲求、自己実現の欲求、自己超越の欲求等があり、これらの欲求は生理的欲求から始まって、これが満たされると順次上位の欲求に移って行き、最後に自己超越の欲求が出てくるということになっていますが、実は、自己実現欲求は既に生理的欲求に於いて芽生えていて、これら六種の欲求のすべては自己実現の欲求と見ることができます。例えば、最下位の生理的欲求の段階でも、親が自らを犠牲にして最後の食を子に与えるというような自己実現もあり得ます。時には窮極の自己実現として、自らの死を意味することもあります。

次いで、「人権」すなわち人間としての「権利」という概念は、江戸時代までの日本には存在しませんでした。非我を包容する日本の自我に、非我と対立し「権力という力の行使による利益」を得ようとする概念そのものが希薄だったのです。欧米の「人権」はトマス・ホッブス等の「自然権」に由来します。自然権は放置すると最悪の場合「万人の万人に対する闘争」になりかねない「無制約の権利」となります。従ってこれを避ける為に「社会契約」が必要となり、所謂「憲法」が要請されることになりました。憲法は「時の権力」と「時の国民」の「双方」を「法の支配」の下に置いて権力構造を明らかにしたものですが、肝心要の憲法の「法源」が「自然法」かそれとも「慣習法」かという根本問題については曖昧なままです。英米は「慣習法」に基づいており、歴史ある日本の憲法も当然「慣習法」に依拠すべきですが、果たして今の日本国憲法はどうなっているのでしょうか。「慣習法」は一種の「自然法の自己限定」と見ることが出来ます。

現行の日本国憲法に、日本人の「人権」、日本人の「自由」、日本人の「平等」が反映されているのでしょうか。(つづく)

私たちは「三昧」という意識の状態から離れることは出来ません。私たちは、実のところ、終日、三昧を生きています。三昧には座禅のように数十分の純粋で深いものから一瞬のものまで、意識の深浅があり、時間的な長短があります。

「三昧」には必ず「人格移入」が伴います。「感情移入」は意識の対象に対して感情を移入しますが、「人格移入」は全自己(人格=知情意=全機現)を移入します。私たちが何事かに無我夢中になっている時、私たちの意識は全面的に意識の対象に移入し、没入します。そして、そこに現前するものは意識の対象だけになります。ラグビー観戦で「人格移入」する時、そこに現れるものはラグビーのシーンだけです。そして、そこには興奮という感情があり、選手の一挙手一投足に合わせて、思わず自分の体を動かす「無差の作」という行為があり、試合の状況を「無分別において分別」するハタラキすなわち「仏性」=「般若」があります。

私たちがラグビーを観戦している時、三昧(無我夢中の状態)は二次的意識(我に帰った状態=普段の意識)と交互に現れ、その時間は1分~10分程度と比較的長いものですが、私たちは一瞬のうちにも三昧を体験します。例えば、何か後ろの方で音が聞こえたとします。その瞬間、先ず「是は何」と意識します、何とは二次的意識が未だ発動していない意識の状態ですが、何は既にその音を「無分別において分別」しています。この「無分別の分別」があるからこそ、私たちが生来築いてきた意識体系と照合して「チャイムの音だ」と判断することが出来ます。しかし、もしこの音が、一度も聞いたこのない音だとしたら、「何」という意識の状態に留まったままになりますが、この何の状態こそ動的・具体的・全体である実在としての音を認識しているのです。この事実を、禅では、「答えは何にあり」すなわち「答えは問いにあり」といいます。因に、仏教の「観音菩薩」とは音を通じて衆生を悟りに導く使者ということになっています。

道元禅師は『正法眼蔵』・「仏性」において、次のように表現しています。
「是何姓は、何は是なり、是を何しきたれり、これ姓なり。何ならしむるは是のゆえなり、是ならしむるは何の能なり。」
(これ何と認識するハタラキ=仏性というのは、何を是として認識することである、是を何として認識すること、それが仏性である。何を何ならしめるものは是という認識があるからであり、是を是として認識できるのは何と認識する能力=仏性があるからである。)

幼児が1人で玩具と遊んでいる時、玩具と会話していることに気づきます。これは玩具を「人格化」して遊びの世界に没入している「三昧」の状態です。幼児は未だ知が十分に発達していない為に、情意が勝っていて、物事を「人格化」して見ているのです。幼児は、知が発達した大人よりも、余程豊かな世界で生きているということになります。

また、私たちがペットを飼っていると、何時しか、ペットを人格化して家族の一員にしていることに気づく筈です。ペットを人格化することで、より豊かな生活を送っていることになります。

「人格移入」とは「愛」に他なりません。それは自らのすべてを懸けて対象(相手)に一致しようとする努力に他なりません。(つづく)