暑い日の夜話

暑い日の夜話

政治や歴史の出会いが人生を変える

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日本人所有の家を借りたなら、家賃は一切払わなくてもよいというのが、
その当時(昭和の初期)在日朝鮮人同胞の間では常識化していた風習だった。


「お前らは国まで盗んでいったじゃないか。家賃ぐらい何だ!」

―こちらにはこんな腹があったが、引っかけられた日本人の側では恨み骨髄に
ならざるを得なかった。
家賃をもらうどころか5,6ヵ月分の家賃に当たる金を<立退料>という名目で
払わなければならなかった。


こんなとき、その仲介の役割を果たすのが、いうなれば叔父の職分だった。
(同胞が集団居住する町には、こんなブローカーが必ず何人かいた)

1,2年ただで住んでは<立退料>をせしめて家を空けてやることもあったが、
時には引っ越した次の日に大家から立退料を取ってまた引っ越していく、そんな場合も
あった。

その立退料の半分ぐらいにあたる金が叔父のようなブローカーの懐に入ってくる。
もちろんこれは4,50年前の昔話ではあるが、こんなやり口がその後長い間い年月を
通じて、大多数の日本人の生活感情の底に<チョーセンジン>を敬遠し蔑視する後遺症の
種となったことも事実である。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kaede/3250/noriasa/mondai2.htm



■李舜臣(イ・スンシン)、郭再祐(クァク・ジェウ)を振り返る■

パク・ファンム・ナクソンデ研究所研究院とハ・ヨンフィ・テドン古典研究所教授は
それぞれ壬辰の乱の英雄李舜臣、郭再祐将軍と関連通念を覆す解釈を出す予定だ。

パク研究員は「李舜臣、帝国と植民地の間で」という論文を通じて「李舜臣将軍を
『民族の守護者』『東洋のネルソン』と作り上げたのは日本」とし「日清戦争を控えた
1892年、日本の現役陸軍大尉である柴山尚則が書いた『李舜臣伝』が李舜臣を
世界史の名将に仕立てた母胎だった」と主張した。

彼は「3.1運動以後、文一平(ムン・イルピョン)、申采浩(シン・チェホ)、
李光洙(イ・グァンス)らがそれぞれ李舜臣に関する論文などを発表した」とし
「李舜臣を『救国の英雄』と表したのは日中戦争以後の総動員体制で、植民地朝鮮と
帝国日本の間の内鮮一体と統合を強調する論理として活用された」と主張した。

ハ教授は「火旺山城(ファワンサンソン)の記憶」という論文を通じて「1597年、
加藤清正の侵略を郭再祐将軍が慶南昌寧火旺山城で塞いだという記録は実在より
誇張されている」と主張した。彼は「もともと火旺山城は戦争がない疎開先にす
ぎなかった」とし「137年の歳月が経った1734年に出版された
『倡義(チャンイ)録』を通じて火旺山城の記憶は誇張され始めた」と明らかにした。

2006.06.20 12:33:36
中央日報 日本語版
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=76984&servcode=400&sectcode=400


上智大学名誉教授の渡部昇一氏が知人数人と、王毅駐日中国
大使を囲んで会食した時のことである。席上、こんな歴史論争
が始まった。

 その中で、中国が日本批判の口実にする歴史認識に関連
して、私は発言した。シナ事変を始めたのは日本ではなく、
中国の側であるということである。

 慮溝橋で最初に発砲し、攻撃を仕掛けたのは中国側であ
るということ。それが上海に飛び火して戦火が拡大してい
くのだが、この上海の飛び火は中国側の正規軍が日本人居
留地を攻撃したものであること。これらを私は事実をあげ
て述べた。東京裁判もこれを認め、日本のシナ事変の開戦
責任を問うことはしなかった。それを問えば、戦勝国であ
る中国側の責任があらわになってしまうからだ、とも述べ
た。

 王毅大使はじっと聞いていたが、それだけだった。これ
について、なんの発言もなかったのである。

 この点は、中国の「日本侵略批判」を根底から打ち崩す史実
なので、もっと知られるべきと思う。

 王毅大使が盛んに口にしたのは、小泉首相の靖国神社参
拝問題だった。容認することはできないというのである。
知人の一人が、国のために尽くして命を捧げた人を慰霊す
るのはどこの国でもその国の宗教的習慣に従ってやってい
ることで、それに口を挟んで批判するのはいかがなものか、
内政干渉ではないかと言うと、王毅大使はしきりにかぶり
を振った。そうではない、小泉首相が靖国神社に参拝して
戦没者を慰霊するのには、問題を感じていないと言うので
ある。

 では、何が問題なのか。靖国神社には七人のA級戦犯が
合祀されている。それが中国国民には国民感情として許せ
ないのだ、というのが王毅大使の答えだった。そこで私は、
A級戦犯とは何かについてやや詳しく述べた。

 東京裁判がA級戦犯とした罪状は平和に対する罪、つま
り戦争を計画した罪、戦争を準備した罪、戦争を始めた罪
である。日本はポツダム宣言を受諾して降伏したのだが、
ポツダム宣言には確かに戦争犯罪人を裁くという条項があ
る。しかし、ポツダム宣言が発せられた当時、戦争を計画
したり準備したり始めたりすることを戦争犯罪とする条項
は、国際法のどこにもなかった。つまり、東京裁判はなん
の根拠もなしにA級戦犯と決めつけたのである。ついでに
言えば、戦争を計画したり準備したり始めたりするのが犯
罪であるという国際法の取り決めは現在もない。

 A級戦犯なるものが、いかに根拠がないものであるか、
ということである。

 これは日本だけが主張していることではない。国際社会
も東京裁判が無法で根拠がないものだったことを認めてい
るのである。その表れが昭和二十六年に調印されたサンフ
ランシスコ講和条約の第十一条である。

 そこには、東京裁判に代表を出した関係国の一か国以上
の同意があれば、A級戦犯を釈放していいと定められてい
るのだ。

 事実、講和条約が発効すると、A級戦犯として判決を受
けた人たちは直ちに釈放された。もちろん関係国の過半数
も同意したからである。これは有り体に言えば、A級戦犯
はなかったということである。実際、犯罪受刑者は恩給や
遺族年金の対象にならなかったのだが、国会決議を経てA
級戦犯とされた人たちにもこれらが支払われることになっ
たのだ。

 また、A級戦犯として終身刑の判決を受けた賀屋輿宣は
政界に復帰して法務大臣を務めた。同じく禁固七年の判決
を受けた重光葵は副首相兼外務大臣になり、昭和三十年の
日本の国連加盟の際は、日本代表として国連で演説を行っ
た。では、A級戦犯を入閣させるとは何事だとか、A級戦
犯が日本を代表するのはけしからんとか、どこからか非難
の声が出ただろうか。どこからも出なかった。中国も何も
言わなかった。A級戦犯はなかったことを認めていたから
ではないか。

 A級戦犯とは何かについて、事実をそのまま述べる渡部氏の
意見に、王大使はどう反論したのか?

 私はこのようなことを述べたのだが、これにも王毅大使
の正面からの答えはなかった。ただ、「国民感情が許さな
いのだ。国民感情が」と、それを経文のように繰り返すば
かりだった。

 これは口にする機会がなかったが、では、その国民感情
とはどのようなものなのか、である。愛国教育などによっ
て政治的につくり出された妄想ではないのか。当たらずと
雖も遠からず、だろう。日本側にだって国民感情があるこ
とを忘れているのだ。

 わずか三時間余だったが、王毅大使と話し合ってつくづ
く感じたことがある。それは、中国が日本に対する際の切
り札に使う歴史認識や靖国参拝問題は、中国の心底の思い
から出たものではないということである。あくまでも政治
的駆け引きの道具として出してきているのである。このこ
とは私のような政治も歴史も素人の言うことを、中国を代
表して日本に来ている大使が論理的にはね返せないところ
によく表れている。はね返さないのではない。はね返せな
いのである。

 中国に対しては毅然とした態度で、とはこれまでに繰り
返し言われてきたことである。このことを確認した次第で
ある。

 中国の靖国参拝批判が論理的なものでないことは、このやり
とりを見ても分かる。日本政府も、渡部氏のような史実に基づ
いた主張をして欲しいものだ。

(参考: 渡部昇一、「歴史の教訓」、「致知」H18.1)



◆ソウル独立門の由来に現地若者「日本からだ!」→正解は中国




井沢元彦氏は1954年、名古屋生まれ。週刊ポストに連載中の『逆説の日本史』は
シリーズ累計440万部を突破した
。10月より小学館のウェブマガジン『BOOK PEOPLE』にて『逆説の世界史』も連載中の
井沢氏が、朝鮮半島の過去現在未来を、東アジア流転の歴史から読み解いている。

* * *

朝鮮半島の国家は歴史的に「つらい」国であった。
日本のように海に囲まれておらず、中国と陸続きであるから、
何かと中国が戦争を仕掛けて来る。

七世紀高句麗や百済は唐に抵抗したが、新羅の金春秋(武烈王)は結局
唐の臣下(新羅国王)となってライバルを滅し半島を統一する道を選んだ。

これ以後、半島の国家は新羅であれ高麗であれ朝鮮であれ、
すべて「国王」すなわち中国皇帝の臣下であった。
それが歴史上のまぎれもない事実だ。

だからこそ、日本が清との日清戦争に勝って、下関条約で中国に初めて「朝鮮国の独立」を
認めさせた時、これで長年にわたる屈辱から解放されたと喜んだ朝鮮人は、欣喜雀躍して
独立門を建てた。これが今も大韓民国ソウル特別市にある独立門だ。
つまりこれは「中国からの独立」を記念して建てられたものであり、
朝鮮人もそれを明確に意識していたということなのだ。

現在ある場所に建てられたのも理由がある。
ここは、迎恩門といい、朝鮮歴代の王が中国皇帝の使者を迎えるにあたって
土下座以上の屈辱的な三跪九叩頭の礼をさせられていた場所なのである。
骨の髄まで中国文化(儒教文化)に染まっていた朝鮮は漢民族の国家である明が滅ぼされ
遊牧民族が清を建てた時、「野蛮人には従えない」と明に義理立てした。

怒った清は朝鮮に「征伐軍」を送り、朝鮮の仁祖王を追い詰め「土下座(正確には
三跪九叩頭礼)」をさせて服属させた。これは「神話」ではない、事実である。
しかも、清国皇帝は「お前たち朝鮮人を滅ぼさないで済ませてやったのだぞ。
恩義と思え」と強制し、歴代国王に三跪九叩頭礼を強制した。
その場所が「迎恩門」なのである。

日本が清に勝ち、朝鮮の独立を認めさせた時、まず朝鮮人たちが行なったことが
迎恩門の破壊であった。そして、募金によって独立門が建てられたのだ。
ところが、韓国の若い世代はこのことを知らない。
「有史以来、朝鮮半島の国は独立国家であった」などというデタラメが
学校で教えられているからだ。

独立門前で「この独立って、どこの国からの独立?」と質問すると、多くの若者は
そんなことも知らないのかと憤慨しつつ「日本からに決まっているだろう」と答える。
しかし、そこで「でも、説明板を見てごらん。この独立門が建てられたのは一八九七年だ。
韓国併合は一九一〇年だし、光復(独立)は一九四五年だろう。
それ以前の話なんだよ」と言うと、彼等は絶句し思考停止してしまう。

週刊ポスト 2011年12月16日
http://www.news-postseven.com/archives/20111208_74172.html



李栄薫教授「韓国の暴力的民族主義が歴史論争を封殺」


「韓国人の歴史意識は観念的かつ道徳的であり、見解の異なる者との対立を自ら望む傾向にある。
また政治指導者らは、大韓民国が何かの間違いで建国された国だと考えているようだ。
金大中(キム・デジュン)政権が第2建国委員会を発足させたことや、盧武鉉(ノ・ムヒョン)
大統領が韓国近現代史を“正義が敗北し、機会主義がはびこった”時代と規定したことだけを
見てもそれは明らかだ。こうした間違った歴史意識は社会や国家を分裂させ、韓国の先進国入
りを難しくしている」


 ソウル大経済学部の李栄薫(イ・ヨンフン)教授(56)は、今週出版される
『大韓民国の話』(キパラン出版社)を通じて再び口を開き、序文にこう記した。


 「いつからか文章を書く際に自分で検閲をするようになった。だが、真の検閲者は韓国
の暴力的民族主義だ。これにやられた人は、謝罪や引退、または逃亡に追い込まれるほかない」


 李栄薫教授は大学の中だけで過ごしてきた「書生」だった。その教授が2004年にテレビ討論
に出演したところ、世論の集中砲火を浴びた。「慰安婦動員に協力した(韓国人の)民間人ら
の責任も追及すべき」と主張したつもりが、「日本軍性奴隷は公娼制度の一形態だった」
と主張したかのように伝えられたためだ。


 また昨年12月に「教科書フォーラム」が開催した韓国近現代史「代案教科書」セミナーでは
、4・19革命(1960年に不正選挙の結果を不服とした民衆デモにより、当時独裁体制を敷いて
いた李承晩〈イ・スンマン〉大統領が下野した事件)顕彰団体の会員らに胸ぐらをつかまれ
たこともあった。


 だが、なぜ李栄薫教授は、こうした屈辱を受けながらも再び立ち上がったのだろうか。
28日午後、記者は教授の元を訪れ、その理由を尋ねてみたところ、教授は「昨年初めに出版された
『解放前後史の再認識』の編集にかかわりながら、韓国社会の中産層がこれまでの50年間、
民族や民衆、階級などといった日常生活とは何の関係もない歴史からどれだけ苦しめられた
のかを痛感した。そこで、こうした状況を何とかしたいと思い、自由と信頼、法治の文明精神
に基づいて書かれた新たな歴史を示そうと考えたことがきっかけになった」と答えた。




■クリスティン・リー氏の著作…「滅亡の帝国-日本の朝鮮半島支配」■

私は、アメリカの大学院で指導教授たちに言われた次の言葉を、今なお忘れることが
出来ません。

▲「日本の植民地は、その後いずれも経済発展したではないか。そんな結論の出ている問題を今更どうして研究するのか?」

米国の名門ラトガース大学のダン・ローデン教授は、私が博士論文の主題について日本が朝鮮半島を植民地支配した時代の教育と女性問題について
研究したいとの計画を説明すると、このように反問しました。

▲「文明のシステムを、日本の植民地主義は朝鮮半島に導入したのではないか。 スペインやアメリカ、イギリスは日本のように本国と同じような
教育システムを、植民地に導入しようとはしなかった。 当時の朝鮮半島の人々は、文明のシステムを独自の力で導入するのに失敗した。
日本の植民地主義を経ずに、あれほど早く文明の世界システムに入れただろうか?」


私は、この発言に怒りが込み上げ懸命に反論しようとしたが、頭の中が真っ白になり感情だけが高ぶったのを覚えています。
そんな論文を書いたら、韓国に戻れなくなる!との不安が一瞬心をよぎりました。

▲論文の相談をした別の経済学専攻の教授は、「植民地化された国家の中で韓国と台湾ほどに発展した国家はない。アメリカや
イキリスの植民地で、台湾や韓国ほど発展した国があるか?」とまで言うのでした。

私の不満そうな表情を見たローデン教授は、次のようにも問いかけました。

「日本の植民地支配を非難する韓国人の留学生の一人が、自分の父親が東京帝国大学出身であると自慢げに話した。

これは、暗黙のうちに日本が導入した文明のシステムを評価していることになる。本来なら、東京帝大を卒業した父親を非難すべきではないか?」
こう言われてみると、確かに東京大学はもとより、京都大学、早稲田大学、慶応大学を卒業したことを誇りにする韓国人は少なくないのです。

当然韓国の側に立ってくれると思った第三者のアメリカ人学者の発言は、ショックでした。





文化財庁は20日、この「ハングル霊碑」(ソウル市蘆原区下渓洞12)を宝物に指定予告した。

全体の高さが190センチになるこの碑は、朝鮮王朝中宗(チュンジョン)代の1536年に文官イ・ム
ンゴン(1494‐1567)が両親を合葬した際に建てたもの。碑石の前面には漢文で両親の一代記な
どが記されており、横面には漢字で「霊碑」と書かれ、その下にハングルの碑文が記されている。

「この碑は霊を祭った碑で、この碑を毀損(きそん)した人は災難を被るだろう。これを文字の読め
ない人々に知らせよ」

当時、墓を建てた子孫らが、漢字を知らない人々により墓が壊される可能性を懸念し、ハングル
で記したのではないか、と専門家らは分析している。延世大のホン・ウンピョ教授は「ハングル制
定から100年も経たない時点で、ハングルがどれだけ多くの民に知られ、使用されていたかを証
明する貴重な遺物だ。また、ハングル制定初期の書体も知ることができる」と評価した。

「死者の安息を妨げる者にはたたりがあるだろう」というエジプトのツタンカーメン王墓の碑文とも
内容が類似しているこの碑石は、最近道路の拡張工事などで2度にわたり移転された。

また文化財庁はこの日、「ハングル霊碑」のほかにも「霊山会上図」「善国寺乾漆阿弥陀仏座像と
伏蔵遺物」「大方広円覚修多羅了義経」「妙法蓮華経三昧懺法・卷上」「大仏頂如来密因修証了
義諸菩薩万行首楞厳経」「経国大典」など7点を宝物に指定予告した。

http://www.chosunonline.com/article/20070421000033