上智大学名誉教授の渡部昇一氏が知人数人と、王毅駐日中国
大使を囲んで会食した時のことである。席上、こんな歴史論争
が始まった。
その中で、中国が日本批判の口実にする歴史認識に関連
して、私は発言した。シナ事変を始めたのは日本ではなく、
中国の側であるということである。
慮溝橋で最初に発砲し、攻撃を仕掛けたのは中国側であ
るということ。それが上海に飛び火して戦火が拡大してい
くのだが、この上海の飛び火は中国側の正規軍が日本人居
留地を攻撃したものであること。これらを私は事実をあげ
て述べた。東京裁判もこれを認め、日本のシナ事変の開戦
責任を問うことはしなかった。それを問えば、戦勝国であ
る中国側の責任があらわになってしまうからだ、とも述べ
た。
王毅大使はじっと聞いていたが、それだけだった。これ
について、なんの発言もなかったのである。
この点は、中国の「日本侵略批判」を根底から打ち崩す史実
なので、もっと知られるべきと思う。
王毅大使が盛んに口にしたのは、小泉首相の靖国神社参
拝問題だった。容認することはできないというのである。
知人の一人が、国のために尽くして命を捧げた人を慰霊す
るのはどこの国でもその国の宗教的習慣に従ってやってい
ることで、それに口を挟んで批判するのはいかがなものか、
内政干渉ではないかと言うと、王毅大使はしきりにかぶり
を振った。そうではない、小泉首相が靖国神社に参拝して
戦没者を慰霊するのには、問題を感じていないと言うので
ある。
では、何が問題なのか。靖国神社には七人のA級戦犯が
合祀されている。それが中国国民には国民感情として許せ
ないのだ、というのが王毅大使の答えだった。そこで私は、
A級戦犯とは何かについてやや詳しく述べた。
東京裁判がA級戦犯とした罪状は平和に対する罪、つま
り戦争を計画した罪、戦争を準備した罪、戦争を始めた罪
である。日本はポツダム宣言を受諾して降伏したのだが、
ポツダム宣言には確かに戦争犯罪人を裁くという条項があ
る。しかし、ポツダム宣言が発せられた当時、戦争を計画
したり準備したり始めたりすることを戦争犯罪とする条項
は、国際法のどこにもなかった。つまり、東京裁判はなん
の根拠もなしにA級戦犯と決めつけたのである。ついでに
言えば、戦争を計画したり準備したり始めたりするのが犯
罪であるという国際法の取り決めは現在もない。
A級戦犯なるものが、いかに根拠がないものであるか、
ということである。
これは日本だけが主張していることではない。国際社会
も東京裁判が無法で根拠がないものだったことを認めてい
るのである。その表れが昭和二十六年に調印されたサンフ
ランシスコ講和条約の第十一条である。
そこには、東京裁判に代表を出した関係国の一か国以上
の同意があれば、A級戦犯を釈放していいと定められてい
るのだ。
事実、講和条約が発効すると、A級戦犯として判決を受
けた人たちは直ちに釈放された。もちろん関係国の過半数
も同意したからである。これは有り体に言えば、A級戦犯
はなかったということである。実際、犯罪受刑者は恩給や
遺族年金の対象にならなかったのだが、国会決議を経てA
級戦犯とされた人たちにもこれらが支払われることになっ
たのだ。
また、A級戦犯として終身刑の判決を受けた賀屋輿宣は
政界に復帰して法務大臣を務めた。同じく禁固七年の判決
を受けた重光葵は副首相兼外務大臣になり、昭和三十年の
日本の国連加盟の際は、日本代表として国連で演説を行っ
た。では、A級戦犯を入閣させるとは何事だとか、A級戦
犯が日本を代表するのはけしからんとか、どこからか非難
の声が出ただろうか。どこからも出なかった。中国も何も
言わなかった。A級戦犯はなかったことを認めていたから
ではないか。
A級戦犯とは何かについて、事実をそのまま述べる渡部氏の
意見に、王大使はどう反論したのか?
私はこのようなことを述べたのだが、これにも王毅大使
の正面からの答えはなかった。ただ、「国民感情が許さな
いのだ。国民感情が」と、それを経文のように繰り返すば
かりだった。
これは口にする機会がなかったが、では、その国民感情
とはどのようなものなのか、である。愛国教育などによっ
て政治的につくり出された妄想ではないのか。当たらずと
雖も遠からず、だろう。日本側にだって国民感情があるこ
とを忘れているのだ。
わずか三時間余だったが、王毅大使と話し合ってつくづ
く感じたことがある。それは、中国が日本に対する際の切
り札に使う歴史認識や靖国参拝問題は、中国の心底の思い
から出たものではないということである。あくまでも政治
的駆け引きの道具として出してきているのである。このこ
とは私のような政治も歴史も素人の言うことを、中国を代
表して日本に来ている大使が論理的にはね返せないところ
によく表れている。はね返さないのではない。はね返せな
いのである。
中国に対しては毅然とした態度で、とはこれまでに繰り
返し言われてきたことである。このことを確認した次第で
ある。
中国の靖国参拝批判が論理的なものでないことは、このやり
とりを見ても分かる。日本政府も、渡部氏のような史実に基づ
いた主張をして欲しいものだ。
(参考: 渡部昇一、「歴史の教訓」、「致知」H18.1)