不安や停滞感から、清水先生のワークで考えたこと。


親から離れて入った寮で、上級生が寮の世話係に引きづられ、体罰を受けていたのが、小1の自分には怖かった。


ヘマをしたら自分もやられると思っていた。

その後、係の機嫌を上手く取ることができず、怒られ、隔離され、寒い部屋での正座を言いつけられた。


他の子が遊ぶ中、いつ終わるとも知れない長時間の正座は酷く退屈で苦痛だったが、体罰の理由が分からないままに、余計なことは言わず、何を言ったら係の機嫌が治るのかに苦心した。


そのままの自分ではまた閉じ込められるからと人目を気にするようになり、係が近くに来ると怖くて固まってしまう程に怯えていた。


今思えば、そのビクビク振動が伝わり、ますます標的にされ、スパイラルに陥ったのだと思う。


1のある日、寮内で抑圧したものが、学校で多動として出て、問題児ということが係に伝わってしまい、

「周りの子の迷惑」という理由で、逃げ場だった学校にも行けなくなり、給食という確実に食べられるチャンスは消え去ってしまった。


そうして、暗く冷たい屋根裏に隔離され、鉄筋コンクリートの床に正座する(足音にビクビクしながら、着ているシャツの中に三角座りの手足を入れ、飢えと寒さを凌いでいた)日々が始まった。


出たり入ったりを繰り返したが、毎度、こうなる理由がわからないことへの怒りと、誰からも理解されない悲しみを抱え、食べ物と愛情に飢える日々は本当に辛いものだった。


「おねがいします。もう、ゆるしてください」と幾度も心の中で願ったが、あまりにも長い期間だったので、いつしか望みを持つことを諦め、ただ時間が過ぎ去ることだけを願っていた。


その状況の中で、自分の全てを嫌い、呪い、虐待し、怒りを悲しみで覆って行き場のない思いの落とし所を作ったのだと思う。


学校の先生も心配してくれたが、寮の組織を前にして、ただの業務の一つのような感じに思えた。


救い出して欲しかった。立ち直るチャンスが欲しかった。


今になって思えば、自分に嘘がつけず、理由がわからなければ動けなかったり、熱中すると時間的概念が無くなることは確かに変わっていたと思う。


けれど、子供や、その道を極めるような人は、そんなものではないだろうか?


せめて説明さえしてくれれば、あの無念さや理不尽さは薄らいだと思う。


頼みの両親でさえ、係の作り話で、お前が悪い事をしたからだ!なんで周りの子と同じようにやれないんだ!という感じで、悲しみで言葉を失うと同時に、もう誰にも頼れないという現実に打ちのめされた。


ろくに話も聞かず、特別学級に入れるという話もあった。


本質を見ずに判断されること、レッテルを貼られることが嫌で、誰一人、自分のことを知らない場所に行きたかった。


人の目を気にして生きていたので、目を見れば安全な人かどうか、ある程度分かるような気がした。


救われない状況を引き起こしている自分のことも嫌いだったが、自分を傷つける大人も、気づかない大人も嫌いだったように思う。


というのも、その嫌いな大人が忘れた頃に少しばかりの食べ物を運んで来るからだ。


野良犬のように食べられるものは骨であろうと硬い種であろうと全て食べていたように思う。


暗い屋根裏に閉じ込められることも嫌だったが、自分の真実を曲げて機嫌を取ることにも疲れていたので、傷つける大人が目の前に来るよりはずっとマシだった。


絶望と孤独の中の自分にとって、同じ隔離でも、太陽の光が入る部屋に移った時は天国に思え、太陽が陰ると気持ちも落ち込んだ。


窓から、たまに見える鳥を見て、自分も何処か遠い国へ連れて行って欲しいと願っていた。


年に数回、他の子と一緒に遊んでいいと言われる時などは理由があった。


それは学校の先生が訪ねてきた時などで、楽しそうに遊んでいるアピールだった。


そんなことが続いて、もう何もかもが嫌になり、死にたい、死にたいと願う日々だった。


勇気を出して脱走もしたが、捕まった後は、更に酷い状態になっていたように思う。


そんなことを繰り返す中、小5の途中で北海道へ移ることができて、人生の転機となった。


けれども、人を信用できず、人との距離感が掴めないことで、虚勢を張り、人を傷つけ、どうせ自分なんてと孤立するようになった。


価値のない自分を感じる存在を嫌うような酷い一面もあった。


我慢が染み付いたぶん、人の気持ちが分からず、傷つけたくないのに、沢山の人を傷つけ、そのたびに自分なんて居なくなればいいと思っていた。


イジメへの仕返しもしたし、反発から数々の非行もしたが虚しく、本当にしたいことではなかった。


学校の積み重ねの勉強にはついて行けず、数学などは苦手だった。


苦手な分野といえば、完璧で無ければならないという思いが強く、抽象画などの美術も疲れるから苦手で、体育と国語以外は生存と直結しない分野と判断していたと思う。


この歳になって初めて診てくれた枚方の島内先生が「戦争孤児のように視えた」と言ったのは、生存に必要なこと、死を避けることにしか目がいかない自分を感じたのだろう。


自分でもそう感じる。

思えば、あれは戦争だった

もうとっくに終った筈なのに、得体の知れない漠然とした怖さにずっと引きづられる自分がいる。


二度と戻りたくないし、起こった事実は変えられないけれど、楽になる考え方を知る大人は素敵と思う。


島内先生に「バトルスーツを着て生きている」と言われた時はよく分からなかったけど、よく知らない大人、人間が怖くて、自分を出すことを怖がるあまり、リラックスできていなかったことを認識できた。


人から離れ、心穏やかに暮らしたい思いもあるが、人の持つ愛は素敵に感じるし、困っているなら何とかしてあげたい。


特に、沢山の可能性を持つ子供が助けを求めているなら、何とかしたい。


食べ物と愛情に飢え、今、ここじゃない世界を望んでいる子供達がいるのなら救いたい。


どんな子であれ、生存に直結する食べ物と誰かしらの理解()だけは与えてあげたい。


できるなら、子供食堂のような形で、自分のような思いをする子を一人でも減らしたい。


気持ちを聴き、心に寄り添い、無条件の愛で魂を救い出したい。


そのままでいいことを伝えたい。

その子の良さを伸ばしてあげたい。

レッテルを貼らない大人でいたい。


理由が分からないまま、攻撃されたことで自分軸を失い、漠然とした恐怖を抱えて生きてきた。


そういった劣等感や無価値感を人からの評価や目に見えるお金で埋めようと、心を置き去りにして働き、病気にもなった。


そんな時、何度も何度も電話をくれた両親から「子育てを疎かにしてごめん!あの時は精一杯だった」と謝って貰い、

自分が閉じていただけで、両親はずっと待ってくれていたことに気がつき、心から感謝し、涙した。


我慢が我慢をうみ、我慢の連鎖を生む。


きっと、その状況なら自分も同じことをしたと思え、自分も、親も、そして自分が憎んできた人でさえ、知り得る選択肢の中、その時の最善を選んでいると思えた。


大人になった今では、我慢の連鎖が虐待という形で出たのだろうと理解できるが、虐待してもいい納得できる理由なんてないかも知れないとも思える。


あの頃の「死にたい、死にたい」は「生きたい、生きたい。自分軸で強く生きたい!!」の裏返し。


沢山傷ついて、捻じ曲がってしまい、愛を試す自分のような子供も居ると思うから、関わるのは本当に大変だと思う。


それでも力になりたい。

最後の砦となって守ってあげたい。

誰からも傷つけられない居場所で、望むことは出来るだけ叶えてあげたい。


いつからでも、どんな状況からも変われると可能性を信じて見守る存在がいることを知って欲しい。


諦めていた世界に沢山の素敵な場所や人もいて、自分らしく自由に安心して生きていいんだと感じて欲しい。


完璧にできることよりも、ワクワク楽しんで欲しい。

生存の為ではなく、いつか食事を楽しめるまでになって欲しい。

やらなくてはいけない勉強も、楽しさや魅力を伝えたい。


《子供たちと関わっていく》という答えは、悪夢の様な時代を過ごした自分にとって、一番縁遠く絶対に無いと思っていた意外過ぎる答えだった。


けれど、残してきた日記を読み返すたび、あの体験は愛を知る為、助けを待つ子と同じ目線になる為。全て、ここに繋がる為。と、

これまであった全てを肯定できる、あの頃の自分が癒される程の意味を感じる。


生きてきた意味、魂が探し求めていたその使命の大きさに、むせび泣き、震える程の喜びを感じると同時に、その困難さを想像し、

「本当に、本当に、この答えなのか⁈⁈⁈」と、困惑し、その答えから何度も逃げ出したくなる。


けれど、大切な命と向き合う怖さなのだから、慣れてはいけないとも思える。


抑圧すると、症状として体に現れることも体験できたし、あの病気がなければ、お金以外は信じられずにいたと思う。


未だに知らない人は怖いけど、一つ間違えば私があなただったし、「弱さだけは同じ」と思える。


自分の為には出来なくても、誰かの為になら、やれる自分がいる。


怖がりの自分だけど、人と関わる中で一緒に成長できたら幸せと思う。


それぞれが自由で、傷つける必要のない世界を自分は望んでいて、人の持つ愛の特性を活かせるピースコインの描く世界も本当に素敵だと思っている。


今回訪れた、淡路・サン アシュラムの神聖なあの場所で努力を積み重ねるトシさんの姿勢を見て、自分は泣き言ばかりで、まだ何もやっていないと思った。


夜の海に入って、初めて沢山の夜光虫が見えたように、覚悟を持って飛び込み、必死になってやれる事の限界に挑戦すれば、変わることも沢山あるのだと思えた。


そんなふうに思い、施術に取り組むと、「目の前の人を深く理解したい。愛したい」という気持ちが強くなった。


子供でも、大人でも、他の生き物でもきっとそれは変わらない。


目の前の人を理解しようとする時、その方のお陰で心が開かれ、世界の見え方が変わることにも気がついてきた。


人の面倒を見きれない自分から、いつか子供と関われる自分になれたらと思うが、大それたことをしようとせず、その想いを持って、目の前のことに取り組んで行こうと思う。


子どもというキーワードは、もしかすると、それぞれのインナーチャイルドを含めた理解のことなのだろうか


何かを避ける為ではなく、本当にやりたいことに気づくには心が癒えることも大切と感じるので、

無条件の愛、安心を届けることで、また一歩を踏み出せるような整体をとも思うが、

誰もが笑って生きられるような種まきができたらと思う。


それにしても、なぜ無意識に子供達まで避けていたのだろう


同じように、敏感に感じ取れる存在で、自分の恐れも見抜かれると思っていたからか


後日、清水先生の言葉で、何もかも手にしている他の子達を羨ましいなんて言葉で表せない程、悔しい位に羨ましかったこと。

こんな世界終わってしまえば、そんな感情に蓋をしなければ、心が壊れていたことをやっと理解できた。


清水先生が言うように、人と関わる絶対量が少ないと自分でも思うので、呼吸を意識しながら人と関わっていきたい。


自分の何倍も、何十倍も自分のことを信じ、絡みついた糸を時間をかけて、丁寧に、丁寧に解いてくれた清水先生。


言うのは簡単だけど、内なる気づきを待ってくれていたし、どう伝えたら伝わるのかを考え抜き、本当の自分に語り掛けてくれていたからの気づきだったように思う。


成長の為に言いにくいことも伝えてくれて、受け取る側の状態や段階によって、タイミングをみてくれていたり、何度も何度も声を掛けてくれる清水先生の姿勢、本当に感謝です。