昨晩はアドラー流医療コミュニケーション実践講座に行ってとても頭が疲れてしまい続き書けなくてすみませんでした。
実践講座だったので、いつもと違う部分を使ったからなのかいつもより気持ちいい疲れ方でしたね。本で読むより実践ですね!
さて早速続きにいくわけですけども、その前に全体を先に

昨日はここの1を書きました。
画像が横向きになってしまい申し訳御座いません。ちょっと見づらいですがお許しください。
死生学という言葉は、生死学と訳されることもあります。生死学と訳す場合と、生死学と訳す場合、どのような違いがあるのかについても著者は触れています。
単純にいえば、どちらか先にある方に重点が置かれているといえば良いのでしょうか。
つまり、「生」死学と言えばその名の通り生きることつまり医療・福祉・心理・教育などのいきていくための術に焦点が当たります。
そして「死」生学と言えば、哲学や宗教学など死ぬことに焦点が当たりそこから現在をどう生きるか、という考え方になります。
アメリカのバイオエシックスという考え(今日の日本でいう生命倫理)は1960~1970年代にかけて成立していました。先進国では、どこも似たような感覚で研究は進んでいます。
主として医学及び医療の側における変化と医療サービスの受け手としての国民・市民の側の意識の変化に基づいていると著者は述べています。50年代には感染症を中心としていたものが、今日の課題は生活習慣病に変わってきています。
QOL(=生活の質)という言葉があるように、死に方についてもQOD(=死に方の質)というものも注目されています。そして死については様々な受け取り方があり、著者は2つに分けて定義しています。
死生学において、自分自身がどのような態度で死に向き合うかという一人称的問題。
家族や親しい友人の死に直面した時に、どのようにそれを受け止めていくかという二人称的問題。
また生命倫理においては、死の判定(脳死は人の死か否か?)や新しい医療技術の是非やそれをめぐる社会統制のありかた、安楽死の是非といった死をめぐる医療システムの中で生じてきた倫理的問題が主であったりする。
・良い死ってなんでしょう?
死にゆく本人であれ、その周りの人々、あるいは社会のところからであれ、あくまで特定の「生者」から見た「よい死」とならざるを得ない。と著者は述べています。
繰り返します。
「生者」の観点から「死」そのものは見えないがゆえに、なんらかの形で「死」に直面した時の「悪い生」のイメージのネガみたいなものとしてしか表彰しようがなくなっています。
すると、「悪い生(尊厳なき生)」の代わりに「良い死(尊厳ある死)」となんだかねじれていることになり、それは現代における「良い死」の中に内在していると言っても過言ではないだろう、との事。
終わり良ければすべて良しという言葉もあるように、死ぬ時に良ければ結局良い人生だったと言えるのか?ということなのかなと私は解釈しています。
意外と長いのでゆっくり更新します。この後小林春彦さんの講演です。
では



死生学1 死生学とは何か/東京大学出版会

¥3,024
Amazon.co.jp