綱町三井俱楽部を離れてイタリア大使館の
前を通って戻ります。
この辺り、閑静で低層のマンション等が並ぶ
住宅街「綱町」ってどんな場所なのでしょう?
調べてみました。
綱町の歴史
ここは江戸時代には諸藩が屋敷を構えていた
場所であり、綱町三井倶楽部の建物敷地部分
は佐土原藩島津淡路守屋敷跡であり、日本庭
園部分は当時から名園として誉れ高い、会津
藩松平家の広大な下屋敷跡を基礎としている。
倶楽部の日本庭園もこの庭を基礎としている。
土地取得の経緯は、現存する資料が少なく、
また不明点も多いが、明治11年(1878)から
明治42年(1909)にかけて團琢磨など何人もの
三井財閥関係者の所有を経ながら少しずつ
買い増していったと考えられる。
現在は総敷地面積8千坪。
日々変わりゆく周辺の景観の中で、ここだけは
いまも昔と変わらぬ姿を残している。
〔参考:「綱町三井俱楽部 HP」より〕
三田綱町にあった渋沢邸
渋沢栄一は69歳を迎えた明治42年(1909)
に、それまで深川にあった邸宅を港区の三田
綱町に移しています。
この頃の渋沢は北区の飛鳥山にも自邸を持ち、
主な住居はそちらでしたが、長男・篤二の家族
が住んだ三田の邸宅でも長い時間を過ごしま
した。
渋沢の自著の中には三田綱町の屋敷につい
て、こんな言葉が残っています。
『六時綱町邸二至ル、新築落成、本日目出度
移転セラル、立派二具合ヨク出来、見ハラシ、
日アタリ、風通シ等スベテ宜シキハ勿論、住居
勝手モ余程便利ラシヽ…』
(6時に三田綱町の家に来た。工事が終わり
今日めでたく移ってきた。
立派で具合良く、見晴らし、日当たり、風通し
などすべて良いことはもちろん、住み心地も
便利で良い)
−竜門雑誌 第二五四号(渋沢栄一記念財団
『渋沢栄一伝記資料』第29巻より引用)
三田綱町は麻布十番駅の方面から日向坂を
上がった小高い場所にあります。
深川の邸宅の表座敷を移築した邸宅は、和風
の木造二階建てで、昭和4年(1929)には一
部を取り壊して洋館が増築されました。
今は高層ビルに囲まれた地域も、おそらく渋沢
が暮らした当時は今より周辺の景色が見渡せ
たことでしょう。
この一節は渋沢ができたばかりの三田の家を
大層好んでいたことが伺える記録です。
〔参考:「港区観光協会VISIT MINATO CITY
HP」より〕
石垣に囲まれたお宅が多いのは武家屋敷の
名残りなんですね。
そんなに好い場所だったとは知りませんでした。
また来ようと思います。
NEC本社ビル前に戻りました。
三田から白金高輪のいつもの酒場に移動して
一人打上げです!
春の味覚を楽しみました。
これで「三田探検」レポートを終わります。