「浅草探検」3:縁結びの今戸神社にあった沖田総司終焉の地! | 今日は何をレポートしようかな?

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 都立浅草高校前の細い道を進むと・・・ありました!

今戸神社の幟が見えましたよ。

鳥居の方に回ります。

ありましたよ!鳥居の前に「招き猫発祥の地」とか

「沖田総司終焉の地」と書かれたパネルが!

 

 

 

 

 

 

 

 一礼して境内に入ります。

今戸神社(いまどじんじゃ)

ご祭神

應神天皇(おうじんてんのう)

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)

伊弉冉尊(いざなみのみこと)

福禄寿 (ふくろくじゅ)

ご由緒

福禄寿をお祀りしている今戸神社は、後冷泉天皇

康平6(1063)年、時の奥羽鎮守府将軍伊豫守

源頼義・義家父子が、勅命によって奥州の夷賊

阿部貞任(あべのさだとう)・宗任(むねとう)の

討伐の折、篤く祈願し鎌倉の鶴ヶ丘と浅草今之津

(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したの

が今戸八幡(現在の今戸神社)の創建になります。

 その後、白河天皇永保元(1081)年、謀反を起こ

した清原武衡・家衡討伐のため、源義家が今之津

を通過するにあたり戦勝を祈願しました。

その甲斐あって勝ち戦をおさめることができ、義家

は神徳に報いて社殿を修復しました。

 戦乱兵火に遭うごとに再建されることしばしばで

した。

 江戸時代、三代将軍徳川家光は、今戸八幡の

再建のために官材を下され、船越伊豫守と八木

但馬守に命じて寛永13(1636)年に再建がなり

ました。

 大正12年9月の関東大震災によって社殿は

またも灰燼に帰し、まもなく復興したものの昭和

20年3月の東京大空襲でも重ねて被災の憂き

目に遭ってしまいました。

 こうした被災→再建の歴史をくり返しながら、同

46年11月、現在の荘厳な社殿が氏子崇敬者の

浄財によって造営されました。

 その間、昭和12年7月に今戸の隣地に鎮守され

ていた白山神社と合祀、社名が今戸神社と改称さ

れました。

以下略

〔参考:サイト「浅草名所七福神」より〕

多くの絵馬が飾られています。

金網で守られた狛犬さんに挨拶。

手水舎で清め拝殿に進みます。

 

 

 

 

 

 境内に女性が多いのは、多く立っている「縁結び」

の幟が示すように、そのご利益を求めてということ

でしょうか?

再び狛犬さんに挨拶し拝殿でお詣りしました。

至る所に招き猫の姿が・・・

写真で捉えることはできませんでしたが、境内には

本物の白い猫がいました。

 

 

 

 お!小さめですが「沖田総司終焉の地」碑

立っていますよ!

隣には手書き(?)の説明板があります。

沖田総司終焉の地

池田屋事件あたりから体調をくずし、のちに肺

結核と診断され、その後の戦いには不参加。

浅草今戸八幡宮(今戸神社)境内に医師・松本良順

の邸宅があり、そこで療養したと伝えられています。

永倉新八の「同志連名記」によると「浅草今戸の

松本良順先生宿にて病死」と記述があったことから

『終焉の地』説が浮上したようですが、浅草今戸から

千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅に移り療養した説もあり、

これは最初に小説家の子母澤寛が近藤勇の養子・

勇五郎から聞いた談話として紹介されていました。

小説家ということで史実ではない可能性も高く論争が

ありましたが、平成に発見された史料により千駄ヶ谷

説が有力となりました。

〔参考:サイト「けいろぐさんぽ」より〕

なるほど!此処今戸神社境内松本良順医師邸宅

で療養した沖田総司は、もっと空気の良い千駄ヶ谷

に移されそこで逝去した、ということが真相でしょうか?

そのため今戸神社での表記は「終焉」と一歩引いた

表現になったのでしょうか?

もう一度、「内藤新宿探検」レポ―トリブログして

おきます。