「鎌倉探検」3:天園ハイキングコースから永福寺跡・通玄橋! | 今日は何をレポートしようかな?

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 山間の住宅街を進んでいると、どうも目的地への

道程が遠回りであることに気付きました。

実はこの日、鎌倉周辺地図を忘れてきていたのです。

それでも大体の位置関係は判っていたので、その

感覚に従って歩いてきました。

「至天園」と書かれた朽ちかけの案内標識を見つけ

ました。

これはあの「天園ハイキングコース」を示しているよ

うです。

天園ハイキングコース

天園ハイキングコースは全長約5.5km。

1時間半~2時間ほどで楽しめる、手軽なコースです。

しかしながら、歩きごたえは十分。

中略

なお、天園とはハイキングコースの途中にあるビュー

ポイントのことを指します。

そこでははるか昔から、鎌倉の街並みや太平洋の

ほか、相模・武蔵・伊豆・上総・下総・安房の六国を

見渡すことができたといい、六国峠と呼ばれて親しま

れてきました。

明治~大正時代の軍人・東郷平八郎もこの地を愛

でており、「天国の園に遊ぶよう」と例えたことが、

天園と呼ばれる由来になったそう。

地名の由来を知ると、その地でのハイキングがより

楽しく感じられるようになります。

〔参考:サイト「BE-PAL」より抜粋〕

暖かくなったら挑戦してみたいですね。

 

 

 

 

 「イーゲルホール」という音楽教室がありました。

その辺りの細い山道を下ると史跡碑があります。

理智光寺址(りちこうじ・あと)

碑文

此所は願行上人を開山とせし 五峯山理智知光寺

の址なり 建武二年(1335)淵辺伊賀守義博は足利

直義の命を承け 護良親王を誅(ちゅう:殺)し奉りし

が 其御死相に怖れ 御首を傍(かたわ)らなる薮

(やぶ)中に捨て去りしを 当時の住僧拾い取り 

山上に埋葬し奉りしといふ

説明

この場所は、僧の願行上人(がんこうしょうにん)が

開いた五峯山理智光寺の跡であります。

1335年に淵辺義博(ふちのべよしひろ)は、足利直義

(なおよし)の命令で、護良(もりなが)親王を殺害し

ましたが、その死に顔のすごさに怖れ、首をかたわ

らの藪(やぶ)中に捨てました。

それを当時の僧侶が拾い取って、山の上に埋葬し

たと言うことです。

〔参考:サイト「e-ざ鎌倉ITタウン」より〕

 

 

 

 この辺り、閑静な環境に豪邸が建ち並んでいます。

豪邸の手前にはまだ残る紅葉!綺麗です。

表札を覚えておいて、後で調べたら著名な弁護士の

方でした。

 

 

 

 山路を抜けようとすると案内標識。

目的地は「瑞泉寺」です。

また史跡碑がありました。

永福寺旧蹟(ようふくじ・きゅうせき)

碑文

永福寺世に二階堂と称す 今に二階堂なる地名ある

は是がためなり 

文治五年(1189) 頼朝奥州より凱旋(がいせん)するや

彼の地大長寿院の二階堂に擬(も)して之を建立す

輪奐(りんかん:壮大)荘厳洵 (まこと)に無双の大伽藍

(がら ん)たりきと云う 

亨徳(きょうとく)年間(1455)関東官領の没落せる頃

より後全く頽廃す

説明

永福寺のことを当時は二階堂 といっておりました。

現在でも二階堂という地名があるのはこのためです。

1189年に源頼朝が、義経をかくまった件で平泉の

藤原一族を討ち、鎌倉に帰ってきました。

その後すぐに、平泉にあった大長寿院の二階堂に

似せて、ここに永福寺を建てました。

その寺の様子は、規模が壮大で外観も荘厳であり、

本当に二つとない程の大建造物であったといいます。

しかしこの寺は、1455年以後の関東官領(かんれい

:将軍の代理職)の力が弱くなった頃から急速にすた

れてしまいました。

〔参考:サイト「e-ざ鎌倉ITタウン」より〕

なーんだ一昨年訪れた永福寺跡ではありませんか!

初めから永福寺跡を目指せば もっと簡単に来れま

した。

まあこれも探検の醍醐味ですね。

 

 

 

 

 

 永福寺跡の脇を抜け、二階堂川に架かる通玄橋

渡りました。

「もみじや」という甘味処がありましたが、貼り紙があり

2021年6月に閉店になったようです。

さらに進むとようやく今回の目的地・瑞泉寺の石柱が

ありました。