神田明神の境内を巡ってみましょう。
御神殿の横にポニーの姿!神馬・神幸号 明
(あかり)ちゃんの姿がありました。
信州佐久高原生まれ、あし毛の牝馬だそうで
す。
境内社が並んでいます。
江戸神社があります。
江戸神社
大宝2年(702)に江戸の地・現在の皇居内に
創建、江戸最古の地主神として今もなお崇敬
されている。
慶長8年(1603)に神田明神が仮遷座した
時に神田駿河台の地に移り、その後、元和
2年(1616)に神田明神が現社地に遷座す
るとともに江戸神社も現社地に移った。
江戸重長公や太田道灌公ら関東の武将たち
信仰され、江戸時代になると南伝馬町を中
心とした人々により信仰されたところから
「南伝馬町持天王」「天王一の宮」などと称さ
れた。
〔参考:「神田明神 HP」より〕
そして大伝馬町八雲神社、前に鉄製天水
桶があります。
大伝馬町八雲神社鉄製天水桶 一対
千代田区指定有形民俗文化財
(平成16年4月1日指定)
この天水桶は、地上からの高さが1.4メートル
ほどになる一対のものである。
寸法は高さ76.7cm、口縁部の周囲287.3cm、
口縁部の内径82.5cm。
八角形の基壇と四角形の台座は石製で、天
水桶は鋳鉄製である。
天水桶の口縁には「巴」が連続する文様が
見られ、また台座は蓮弁(れんべん)を模した
形にするなど、装飾も施されている。
以下略
〔参考:「神田明神 HP」より〕
その隣には小舟町八雲神社、この前にも
鉄製天水桶がありました。
小舟町八雲神社鉄製天水桶 一対
千代田区指定有形民俗文化財
(平成17年4月1日指定)
この天水桶は、地上の高さ1.4メートルほど
になる一対のもの。
なお、四角形の基壇と台座は石製。
銘文によれば、天水桶の奉納者は、江戸の
魚問屋中に属する商人・遠州屋新兵衛他
十名で、塩干肴や乾物などの流通を担った
商人のことで、日本橋にあった魚市場の界
隈に軒を並べて商いをしていた。
以下略
〔参考:「神田明神 HP」より〕
さらに隣には魚河岸水神社があります。
末社 魚河岸水神社
祭神 水神、弥都波能売命(みつはのめ
のみこと)
日本橋に魚市場があったころに徳川家の
武運長久と大漁安全を祈願するため市場
の守護神・大市場交易神として神田明神
境内に祀られたが、明治6年(1873)9月に
当時の魚市場内(日本橋長浜町2丁目4
番地、現在の日本橋室町1丁目、本町1
丁目周辺)に鎮座していた常磐稲荷神社
の合殿に祀られた。
明治24年(1891)に社名を魚河岸水神社
と改め、更に明治34年(1901)9月、再び
神田明神境内に遷座し末社として祀られ、
盛大に水神祭が執り行われた。
市場が日本橋より築地に移り築地魚市場
(東京都中央卸売市場築地市場)に移転
した後、市場内に当社の遙拝所が建立さ
れ、現在も築地魚河岸会の方々を中心に
神事が執り行われている。
〔参考:「神田明神 HP」より〕
文化交流館にちょっと入って、そろそろ
神田明神を出ることにします。
隨神門を出ると、「江戸 国学発祥の地」
碑が立っていました。
江戸 国学発祥の地
江戸時代中期頃までは、学問は中国から
の輸入された儒教等、外国のものでした
が、そこへきてようやく日本のことに目を向
ける文化が醸成されていました。
京都伏見の神宮で国学者であった荷田春満
が、江戸に出て初めて国学を説いたのが
神田神社神主の芝崎邸内でした。
そのいわれから、江戸における国学の発祥
地が神田明神であったということがわかりま
す。
〔参考:サイト「発祥の地コレクション」より〕