「横浜・蒔田探検」3:勝國寺!蒔田の吉良氏はあの忠臣蔵の吉良氏のご先祖!? | 今日は何をレポートしようかな?

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 かつて蒔田城があったという横浜英和学院沿いの坂道を下りきった場所に勝國寺というお寺がありました。

山門前に黒曜石に刻まれた石柱、そして説明板があります。

説明板を読んでみましょう!

吉良氏の館跡と勝國寺

 成美学園の丘一帯は、小田原北条時代、北条氏と姻戚であった

吉良氏数代の館跡です。

吉良氏在住の当時は、地名によって蒔田御所といわれました。

吉良氏は、足利の一族三河国(愛知県)吉良を発祥とし、応永年間(1394~1427)に武蔵世田谷(東京都)に本拠を置きました。

吉良政忠、あるいは成高の時に蒔田を領有するようになりました。

北条氏康の娘高林院が、吉良氏朝に嫁ぐときに、北条幻庵があたえ

た婦道の心得書は、「幻庵覚書」として有名です。

吉良氏の菩提寺の一つは、館跡に近い勝国寺です。

政忠の菩提寺としてその子成高の建立といわれます。

墓地に政忠の供養塔が残されています。

〔(社)横浜国際観光協会

横浜市教育委員会文化財課 平成2年3月〕

“小田原北条”とは現NHK大河ドラマ鎌倉北条氏ではなく、所謂

後北条氏のことですね。

横浜市地域史跡 吉良家の供養塔

 平成5年11月1日登録

 所有者(宗法)勝国寺

 足利氏の一族である吉良氏は、後北条氏とも姻戚関係にあり、

中世後期の室町時代には、この蒔田の地で「蒔田御所(まいたごしょ)」

と称せられた館を構え、将軍家の一家として諸侯から一目置かれる

存在でした。

 竜祥山(りゅうしょうざん)勝国寺は、館が存在した丘陵の下に位置し、その寺名は吉良政忠(きらまさただ)の法号と一致し、その子成高

(なりたか)が父のために寺院を開基したものと考えられています。

 この勝国寺裏山の墓地は、吉良家の供養塔である四基の五輪塔が

所在しています。

 五輪塔の最も大きなものは、高さ102センチメートルを測り、さらにその

一基には、正面に「祖師西来(そしせいらい)」、台石に「政忠塔(まさ

ただとう)」、裏面に「照岳道旭大居士(しょうがくどうきょくだいいじ)」「文亀(ぶんき)二年六月十七日」と刻されていることより、本五輪塔は政忠の供養塔と考えられます。

平成18年3月

〔横浜市教育委員会〕

では山門をくぐり境内へ進みます。

 

 

 

 

 

 戦没者慰霊碑があります。

そして本堂です。

曹洞宗 龍祥山 勝國寺

 曹洞宗寺院の勝國寺は、龍祥山と号します。

龍祥山勝國寺は、吉良左京大夫政忠(文亀2年卒、法名勝國寺殿

照岳道旭大居士)が開基となり創建、心源院七世天永琳達を開山

とするといいます。

〔参考:サイト「猫の足あと」より〕

1479(文明11)年、当時の城主・政忠父・頼高の供養のために建立したと伝えられる、吉良家の菩提寺なんですね。

境内の隅にいろいろなものがありますよ!

 

 

 

 

 

 「龍祥山 勝國寺 由来」が刻まれたがあります。

その奥には初期の城を思わせるようなお住まい。

お坊さんが寝ています。

ところで足利氏の一族で、後北条氏とも姻戚関係にあった、という

吉良氏ってまさか・・・あの忠臣蔵での悪役・吉良氏と関係が?

調べてみたら・・・

小田原北条氏の衰退によって力をそがれた蒔田の吉良氏だが、

その後、徳川家康によって下総国長柄郡(しもうさのくにながらぐん)

寺崎村(現在の千葉県長生郡沢町寺崎)に所領を与えられ、旗本

として登用。江戸時代を生き抜いた。

〔参考:サイト「はまれぽ.com」より〕

やっぱりあの吉良上野介のご先祖さんだった訳ですね!?

七郎委員長は今 感動に打ち震えています!!