和朗フラットを出て再び外苑東通りに出
ました。
途中古いお宅もありました。
レストラン キャンティではスイーツも供し
ているんですね。
入ってみたい♪
飯倉片町交差点に来ました。
確かここにノスタルジックな建物のインタ
ーナショナルクリニックがあったはずです
が?
見間違いでなければ移転したのかもしれ
ません。
飯倉片町交差点で都心環状線沿いに
永坂を下ります。
外車の販売店やオープンなカフェがあった
り、石垣に囲まれた豪邸があったりします。
石垣の向こうには六本木ヒルズが見えま
す。
永坂の標識がありました。
永坂
麻布台から十番へ下る長い坂であったた
めにいう。
長坂氏が住んでいたともいうが、その確証
はえられていない。
〔参考:サイト「東京23区の坂道」より〕
この辺り麻布永坂町と呼ばれています。
歴史を調べてみました。
麻布永坂町
町域
布区南東部の町。
住居表示実施の際に住民から抗議運動
が起こり、住居表示の実施が見送られた
ため、現在も「港区麻布永坂町」という輝
かしい町名を維持している。
ただし、住居表示実施前は東鳥居坂町と
の境界にある於多福坂(おたふくざか)が
町の西端であったが、一の橋から飯倉片
町交差点を抜ける「永坂」の大通りの開
通に伴い、大通りから於多福坂までに町
域西部は永坂町から六本木五丁目に編
入されており、町域は狭くなってしまって
いる。
外苑東通りの尾根から麻布十番の古川
沿いの低地に向かう斜面地で、北ほど高
く、南は低い。
十番稲荷神社周辺の環状3号線沿いも
町域南端に含まれる。
斜面地のため坂が多く、前述の於多福坂
の他、永坂、植木坂、鼠坂がある。
中略
歴史
寛永年間(1624~1644)にすでに家作が許
されており、麻布永坂百姓町屋と呼ばれた。
その後正徳3(1713)年に麻布永坂町と飯倉
永坂町に分かれる。
飯倉永坂町は飛地となって櫛の歯のように
麻布永坂町と入れ子になっていた。
また、大長寺に門前町ができていた時期も
あった。
町屋は坂の東側と坂下一帯にでき、町の北
端に光照寺、大長寺、坂の途中に三田稲荷、
南端に竹長稲荷があり、それ以外の場所は
武家地であった。
明治2年に麻布永坂町と飯倉永坂町、さら
に光照寺門前が合併して麻布永坂町が起
立、明治5年に寺地、武家地をも合併して
町域が完成した。
明治時代には、もともと町屋だったところは
商家に、武家地などだったところは屋敷に
なった。
更科蕎麦の布屋太兵衛もあった。
その後坂の途中は次第に商店を失って住宅
地化したという。
太平洋戦争で一部罹災し、その後は全域が
住宅地となった。
〔参考:サイト「麻布細見」より抜粋〕
永坂沿いに以前気になっていたお店があっ
たはずですが・・・。