天女橋を渡って弁財天堂まで行ってみ
ました。
美しい風景です。
草蔭にも白いバリケンを見つけました。
円鑑池をぐるっと廻ると碑がありました。
説明板があります。
重修天女橋碑記
(ジュウシュウテンニョバシヒキ)
「重修天女橋碑記」は、円鑑池(えんか
んち)の中島にある弁財天堂(べざいて
んどう)に架けられた天女橋を1744年
(乾隆9)に改修した記念に建立された
石碑が、後に倒壊したため、1798年
(嘉慶3)に新たに建てられたものである。
このため同碑は、乾隆9年の碑文内容
をそのまま取り込んだ上で嘉慶3年の
建碑情報を新たに追加した石碑となっ
ている。
碑文には乾隆9年の文面に続けて嘉
慶3年の記事が刻まれており、表文が
弁財天堂および天女橋の来歴、裏文が
天女橋の改修及び石碑建立の経費、
さらに嘉慶3年の新碑建立の経費等と
なっている。
石碑は、1945年(昭和20)の沖縄戦で
破壊されたが、碑の一部が沖縄県立博
物館に残されている。
本碑は碑の一部や拓本・写真等をもとに
復元したものである。
〔参考:「那覇市歴史博物館 HP」より〕
首里杜館方向に進みます。
少し上ると第32軍司令部壕がありまし
た。
説明板もあります。
第32軍司令部壕
園比屋武御嶽の後方ハンタン山の緑地
の中に、崩れたコンクリートの建造物が
散在しています。
このあたりは、昭和20年の太平洋戦争
で日本陸軍の沖縄守備軍(第32軍)司
令部があったところです。
1944年 日本軍はこのハンタン山から
首里城の地下一帯に防空壕を掘り、
司令部をおきました。
これらコンクリートの壁は壕の入口を守
るトーチカの跡です。
軍司令部が首里城の地下にあったこと
から、首里城は米軍の空爆砲撃によって
壊滅状態になりました。
1945年 日本軍は宜野湾・浦添方面での
戦いに敗れたあと、この壕を捨て首里を
撤退し、南風原・糸満の摩文仁へと敗走
して行くのです。
〔参考:サイト「首里 史跡リスト」より〕
今は入ることができません。
石段をさらに上ります。