一行が日本橋蛎殻町を歩くと、ロイヤルパーク
ホテルが在りました。
七郎委員長、此処に過去泊まったことがあります。
日本橋蛎殻町の名の由来って何でしょう?
日本橋蛎殻町
昔は漁師の小網の干し場であり、牡蠣の殻の
堆積した海浜であったらしいのですが、町名の
由来は明らかではありません。
〔参考:「中央区ホームページ」より〕
木で鼻をかんだような説明です。
ホテル沿いに歩き進むと、そこに「蛎殻町公園」
の石碑とお屋敷の築地塀らしき物を見つけました。
ここには噴水池や平和のシンボル「江戸こまた」
の石柱やモニュメントが在る癒しの空間でした。
車道を挟んだ向かい側には小学校が在って、その
手前にも蛎殻町公園の木柱が立っていました。
その脇に「大名庭園の景石」の説明板が在ります。
大名庭園の景石
遺跡から出土した大名庭園の景石
景石は、水天宮駅前に隣接する蛎殻町1丁目
遺跡で発掘されたものです。
蛎殻町周辺は、江戸時代、大名や旗本の屋敷
が集まっていたところで約300年前に屋敷を構
えていた大名家の庭園内池の景石と思われます。
当時、遺跡地を拝領していた大名は、上野国前橋
藩15万石の酒井雅楽頭で、江戸時代初頭から
延宝元年(1704年)まで屋敷を構えていました。
その後、伊予大洲藩6万石の加藤遠江守が拝領し、
延宝年間(1704年~1711年)屋敷を構えていました。
〔参考:説明板より〕
隣には公園の由来説明板が在ります。
中央区立 蛎殻町公園
蛎殻町公園の由来
この蛎殻町辺は、江戸時代の切絵図によると
周囲を堀割で囲まれた武家地で、大名の下屋敷
が建ち並ぶ静かな落ち着いた町並みであったと
思われます。
蛎殻町公園のあるこの場所も、江戸時代、松平
三河守(津山藩主)の下屋敷があったところで、
そのご京都出身の豪商杉村甚兵衛氏の屋敷と
なり、現在公園内にある大イチョウも、当時、かな
りの大木として育っていました。
大正12年(1923)の関東大震災の時には、近
所の人達がその広い庭園内に難を逃れて助か
った話しも伝わっています。その後、震災復興御
計画により、蛎殻町公園として整備され、昭和6
年(1931)4月に開園しました。
このたび、有馬小学校と蛎殻町公園を改修整
備するにあたりこの地域の歴史を思い起こさせ
る江戸情緒のある築地塀と門構えを造って町並
み景観に特色をもたせ、往時をしのぼうとする
ものです。
平成元年(1989)4月 中央区土木部公園緑地課
〔参考:説明板より〕
江戸時代を偲ばせてくれます。
この小学校は有馬小学校です。
有馬幼稚園も併設されています。
水天宮で登場した久留米藩主 有馬家とはどの
ような関係が?
中央区立 有馬小学校
有馬小学校は、明治6年に旧久留米藩主の有馬
頼咸(よりしげ)候の多大な寄付により幼童学所と
して発足し、明治7年に公立有馬小学校として開
校しました。今年度は開校139周年目となります。
本校は日本橋蛎殻町にあり、近くには水天宮に
代表される歴史を物語る史跡や、甘酒横町など
下町の面影を色濃く残す商店街があります。
また、東京シティ・エアターミナルや我が国を代表
する企業の本社ビル、さらには再開発による高層
マンションなど、昔のよさを伝える風景と近代的な
風景が混在した町になっています。
有馬幼稚園
有馬幼稚園は、昭和18年に有馬小学校内に戦時
託児所として開設され、昭和21年有馬幼稚園の
許可を受け、本年度は、創立67周年にあたります。
〔参考:「中央区立 有馬小学校 HP」より〕
補足すると、1873年当初 幼童学所として創立され、
戦後有馬中学校が同じ校舎内に併設されます。
そして翌年有馬小学校になったようです。
そのため「有馬中学校」の石碑が在ります。
表通りに出ると、小学校と幼稚園の正門が在りまし
た。