「日本橋蛎殻町探検」9:蛎殻町公園と大名屋敷跡 | 今日は何をレポートしようかな?

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蛎殻町公園の石碑

蛎殻町公園の築地塀

ロイヤルパークホテル

蛎殻町公園の江戸こまた石柱
蛎殻町公園の江戸こまたオブジェ

 一行が日本橋蛎殻町を歩くと、ロイヤルパーク

ホテルが在りました。

七郎委員長、此処に過去泊まったことがあります。

日本橋蛎殻町の名の由来って何でしょう?

日本橋蛎殻町

昔は漁師の小網の干し場であり、牡蠣の殻の

堆積した海浜であったらしいのですが、町名の

由来は明らかではありません。

〔参考:「中央区ホームページ」より〕

木で鼻をかんだような説明です。

ホテル沿いに歩き進むと、そこに「蛎殻町公園」

石碑お屋敷の築地塀らしき物を見つけました。

ここには噴水池や平和のシンボル「江戸こまた」

の石柱モニュメントが在る癒しの空間でした。


蛎殻町公園の木柱

大名庭園の景石 説明板

蛎殻町公園の由来説明板

築地塀


 車道を挟んだ向かい側には小学校が在って、その

手前にも蛎殻町公園の木柱が立っていました。

その脇に「大名庭園の景石」の説明板が在ります。

大名庭園の景石

遺跡から出土した大名庭園の景石

景石は、水天宮駅前に隣接する蛎殻町1丁目

遺跡で発掘されたものです。

 蛎殻町周辺は、江戸時代、大名や旗本の屋敷

が集まっていたところで約300年前に屋敷を構

えていた大名家の庭園内池の景石と思われます。

当時、遺跡地を拝領していた大名は、上野国前橋

15万石の酒井雅楽頭で、江戸時代初頭から

延宝元年(1704年)まで屋敷を構えていました。

その後、伊予大洲藩6万石の加藤遠江守が拝領し、

延宝年間(1704年~1711年)屋敷を構えていました。

〔参考:説明板より〕

隣には公園の由来説明板が在ります。

中央区立 蛎殻町公園

蛎殻町公園の由来

 この蛎殻町辺は、江戸時代の切絵図によると

周囲を堀割で囲まれた武家地で、大名の下屋敷

が建ち並ぶ静かな落ち着いた町並みであったと

思われます。

 蛎殻町公園のあるこの場所も、江戸時代、松平

三河守(津山藩主)の下屋敷があったところで、

そのご京都出身の豪商杉村甚兵衛氏の屋敷と

なり、現在公園内にある大イチョウも、当時、かな

りの大木として育っていました。

 大正12年(1923)の関東大震災の時には、近

所の人達がその広い庭園内に難を逃れて助か

った話しも伝わっています。その後、震災復興御

計画により、蛎殻町公園として整備され、昭和6

年(19314月に開園しました。

 このたび、有馬小学校と蛎殻町公園を改修整

備するにあたりこの地域の歴史を思い起こさせ

る江戸情緒のある築地塀と門構えを造って町並

み景観に特色をもたせ、往時をしのぼうとする

ものです。

平成元年(19894月 中央区土木部公園緑地課

〔参考:説明板より〕

江戸時代を偲ばせてくれます。


有馬小学校

有馬中学校跡石碑
有馬小学校 校門

有馬幼稚園 校門

 この小学校は有馬小学校です。

有馬幼稚園も併設されています。

水天宮で登場した久留米藩主 有馬家とはどの

ような関係が?

中央区立 有馬小学校

有馬小学校は、明治6年に旧久留米藩主の有馬

頼咸(よりしげ)候の多大な寄付により幼童学所と

して発足し、明治7年に公立有馬小学校として開

校しました。今年度は開校139周年目となります。

 本校は日本橋蛎殻町にあり、近くには水天宮に

代表される歴史を物語る史跡や、甘酒横町など

下町の面影を色濃く残す商店街があります。

また、東京シティ・エアターミナルや我が国を代表

する企業の本社ビル、さらには再開発による高層

マンションなど、昔のよさを伝える風景と近代的な

風景が混在した町になっています。

有馬幼稚園

有馬幼稚園は、昭和18年に有馬小学校内に戦時

託児所として開設され、昭和21年有馬幼稚園の

許可を受け、本年度は、創立67周年にあたります。

〔参考:「中央区立 有馬小学校 HP」より〕

補足すると、1873年当初 幼童学所として創立され、

戦後有馬中学校が同じ校舎内に併設されます。

そして翌年有馬小学校になったようです。

そのため「有馬中学校」の石碑が在ります。

表通りに出ると、小学校と幼稚園の正門が在りまし

た。